No.4 向かいの道路
二階の窓を開けると、向かいの道路に男がいた。
ユウがその存在に気づいてから、もう十日ほどになるだろうか。
気づかれぬよう、そっとカーテンを指先で押し開ける。
よく見ると、男は車椅子に座り、小さな本を手にしていた。
お昼を過ぎても、彼は同じ場所にいる。
ユウは迷った末、玄関のドアを開けた。
「もしよろしければ……今、コーヒーを入れたところです。お飲みになりますか」
男は読書の手を止め、まっすぐにユウを見上げた。
「ありがとうございます。でも、胃の手術をしたのでコーヒーは飲めないのです」
「そうでしたか……すみません、読書の邪魔をしてしまって。読書、お好きのですね」
ユウが小さく頭を下げて立ち去ろうとすると、男が声をかけた。
「もしよかったら、少しお話しできませんか」
「もちろんです。私、暇ですから」
――この男との出会いは、ユウの小さなお節介から始まった。
「何年も前に……妻も子も亡くして、一人になってしまいました。
家にはテレビもラジオもありません。今の私に残った楽しみは――読書だけのです」
男の声は淡々としていたが、その奥に何か硬いものが潜んでいるようだった。
絞り出す様にそれだけ話すと、黙ってしまった。
長い沈黙が続き いたたまれなくなったユウは「何時でもお声掛けください。前の家ですので」
それだけ言い残して家に入ってしまった。
それから、ユウはときどき窓から男の姿を探すようになった。
二度目に男を見かけたとき、車椅子はなかった。
ゆっくりとだが、自分の足で歩いていた。
その姿に、ユウは違和感を覚える。
――足、悪くなかったの?
男は相変わらず本を手にしていたが、その日は読んでいなかった。
その瞬間、ユウの脳裏に閃光が走り、映像がよぎった。
男と、女と、小さな女の子が並んで横たわっている姿。
「俺が悪かった。許してくれ」
男の声が、確かに耳に届いた気がした。
が、不確かな人の未来に何が言えるだろうか――。
ユウは男を目で追いながら、その場を後にした。
数週間後の朝、近所の噂がユウの耳に入った。
「あの向かいの通りの……あの車椅子の男、亡くなっていたらしいよ」
男は誰にも見送られず、ひっそりと見つかったという。
孤独死――そう囁かれていたがユウの胸には別の言葉が浮かんだ。
その日の夕方、男の家の前を通りかかると 警察官が片付けをしていた。
黒い袋に詰められた荷物の中から、小さな箱が落ちる。
蓋が開き、中から転がり出たのは――焦げ跡のついた指輪だった。
ユウは息を呑んだ。箱の底には古びた新聞の切り抜きが数枚、重ねられていた。
〈火災で母子死亡 原因は不明〉記事の日付は、十数年前だった。
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かつてよぎった幻の光景が、現実の断片と重なっていく。
「俺が悪かった。許してくれ」――あの言葉は、幻聴ではなかったのかもしれない。
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妻子の焼死の原因は何であったにしろ、この男は自分の死でやっと安堵したのだろう。
あの笑みと不確かな声を 思い出し「ご冥福をお祈りいたします」 と
ユウは思わず深々と頭を垂れ両手を合わせた。




