No.3 過ち
爽やかな風が吹いていた。何と気分のいい日だろう。
思い切って、今日は見知らぬスーパーマーケットまで足をのばしてみよう。
ユウは財布と携帯だけが入る小さなバックを肩にかけ、軽やかに家を出た。
一時間ばかり歩いただろうか。
住宅街を抜けた先に、ガラス越しに野菜が並んだこじんまりしたスーパーが目に留まった。
「ここにしよう」
カゴを手に取り、夕食の材料をいくつか選び、レジに向かった。
レジ前には四、五人が列を作っていた。
ユウの前に立ったのは、背の高い、少しやつれた男だった。
男性店員が商品を打ち終え淡々と告げた。
「七百八十円です」
男はうつむいたまま、唇をわずかに動かした。
「……」
「え? もう一度言って。お金がない?」
列の後から小さくざわめきが起こった。
「本当に一円も持ってないのか?」
店員は再び商品を打ち直し、声を強めた。
「七百八十円だな。警察を呼ぶよ」
男の肩は小さく震えていた。
ユウは男のカゴの中を覗いた。
カップ麺一個、石鹼一個、数個のパン。
「待ってください。私が払います」 ユウは思わず口を挟んだ。
「これで」 千円札を差し出すと、「本当にいいの?」と、
店員は一瞬驚いた顔をしたが、そのまま受け取った。
「もう払いましたから、気にせず行ってください」
男はうなだれたまま、無言で店を出ていった。
ユウは自分の会計を済ませると外に出た。
店の外には大きなゴミ箱があった。
ふと目を向けると、その陰に、さっきの男が身をひそめるように立っていた。
不思議に恐怖は感じなかった。
ユウは素知らぬふりで歩き出す。
すると男は静かに後をついてきた。
店の横ではソフトクリームが売られていた。何を思ったかユウは二つ買うと、
その一つを男に差し出した。
男は黙ってそれを受け取った。
近くで見ると、無一文には見えぬほど落ち着いて、端正な顔立ちをしていた。
すぐ近くに神社が見え、ユウの足は自然とその神社に向かった。静かな境内だった。
先ほどまでうるさかった車の音も全く聞こえず、人一人いなかった。
どちらからともなく、そこにあった古びた長椅子に座った。
ソフトクリームを食べ終えたころだった。
「話すつもりはなかったのですが……あなたには思い切って話そうと思ったのです」
意外にも、男の声はしっかりとした響きを持っていた。
「三年前、家族も仕事もすべてを捨て、ある女性と出て来ました。実は私、今、癌に侵されています。
心残りは捨てて来た妻と子のこと。身勝手な生き方を許されないのは分かっています。
……でも会いたいのです」
一気に話すと、ホッとため息をつき下を向いた。男の握りしめたこぶしが震えていた。
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その瞬間、ユウの脳裏に閃光が走り ある光景が浮かんだ。
ーー「おばさん、ありがとうございました」――
かすれるような声。 声以外、ぼんやりとしてよく見えない……。
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「あなたは家族のもとに帰るべきです。奥様もお子様も、あなたをずっと待っています」
それだけ言うと、財布の中にあったありったけのお金を男に握らせた。
「どんなことをしても帰りなさい。一日も早く」
「私にはその資格はない。一緒に出て来た女性さえ捨ててしまった」
ユウは胸の奥に見えた未来を言葉にはせず、熱を込めて続けた。
「自分の非を認め、奥様に誠心誠意謝りなさい。きっと許してくれます。そして今度こそ、
やり直すのです」
「……わかりました。このまま帰ります。勇気が出ました」
男の瞳は力強く輝いた。去り際、振り返りざまに言った。
「おばさん、ありがとうございました」
ユウは軽く手を振り、それで終わったと思った。今の言葉が最後に見た光景の言葉だと思ったのだ。
――しかし、その後のことをユウは知らない。
男はヒッチハイクで妻子の待つ家に戻り、二ヶ月ほど穏やかな日々を過ごした。
生まれ変わったように働き、病さえ影を潜めたかに見えた。
だがある日、かつて一緒に逃げていた女が目の前に現れた。
男は女に詫び、自分の癌の事を話すつもりであった。
だが 静かな山の麓に車を止めた男に、やおら女はナイフを突き立てた。
男は「ウッ」と小さく声を発しただけだった。
刺されたナイフから、ポタリ ポタリと車のシートに血が滴り落ちた。
女はハッと我に返ると、車のドアを開けて去っていった。
血の気の遠くなりそうな中、刺されたナイフを抜こうともせず、男は車を降り山へと入って行った。
ある大きな木のもとで、最後の力を込め、男は自分を刺した……。
何時間も車のエンジン音がやまびこのように、静まり返った山に響き渡った。
不信に思った麓の人が警察に知らせ、息絶えた男が発見された。
癌を苦にした自死――そう処理されたと言う。
ユウは全く知らない。
「全てを失いかけていた私に 人間らしい生き方を思い出させてくれたのはあなたです。
おばさん、ありがとうございました」――
それが、男の本当の最期の言葉だったことを。




