公園の女
ユウの近所には、小さな公園がある。
その日も散歩の足を向け、入口をくぐった。
昼下がりの陽ざしが、半袖姿の両腕をチリチリと焦がす。
枯れかけた夏草の匂いが漂う中、ふとベンチに腰掛ける一人の婦人が目に入った。
背筋をまっすぐに伸ばし、つば広の白い帽子が涼しげだ。
木漏れ日のベンチに引き寄せられるように、ユウは思わず近づいた。
「ここ、よろしいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
婦人は小さく微笑んだ。
くるりとした目元、ほどよく通った鼻筋、控えめに光るルージュ。
若い頃はさぞ美しかったに違いない——いや、今もなおその面影を色濃く残す、とても美しい人だった。
「今、どなたかとお話ししたいと思っていたところでした」
——そう。ユウは昔から口数が少ない。
いつも相手の方から話しかけてくる。
「実は私、先ごろ再婚いたしましたの。
今の主人とは高校時代の同級生でしてね。
いまでも“親睦会”と称したクラス会があって、二十人ほどが集まります。
私、五年前に夫を病気で亡くしました。
それからは、以前にも増してその会が楽しみになりましてね。
いつも手作りのお惣菜を持って行っておりました。
そんなことを四年ほど続けておりましたら……その中の三人から、結婚を申し込まれました」
婦人はそこでホッと一息つき、遠くを見つめた。
かすんだ山並みの向こうで、夏の終わりの雲がゆらいでいる。
もう八月も下旬だというのに、陽ざしはまだ重い。
ハンカチで額の汗をそっとぬぐう細い手を眺めながら、ユウは思わず聞き返した。
「失礼ですがおいくつでいらっしゃいますか。
それに、三人の中から、どのようにして今のご主人を選ばれたのですか?」
待っていましたとばかりに、婦人はゆっくりとユウの方へ身を向き直して話し始めた。
「傘寿、八十歳です。でも聞いてくださいますか。私、案外しっかりしておりますのよ」
「主人を亡くした当時は、ひとりで生きていくつもりでした。けれど三人もの方が求婚してくださって……もう一度、自分の残りの人生を考えてみようと思ったのです。
それで失礼を承知でお願いしました。『資産や年金、ご家族のことを教えてください』と。皆さん、きちんと話してくださいました」
婦人は、少し照れたように笑った。
「私の夢は、東京に小さな家を持つことでした。今の主人は私の夢まで叶えてくれる人…そう感じたのです」
声は澄み、頬を乙女の様に赤らめた。
「娘さんが一人いらっしゃいますが、『父の面倒を一生見てくれるなら反対しない』と言ってくださって。中古ですが約束通り家も買ってくれて、今はリフォームの最中なの」
婦人は、つば広の白い帽子のつばを指で押し上げ、空を見上げた。
だが視線はゆっくり足もとに落ち、声が細くなった。
「でも……どこかおかしいの。話が、少しずつ噛み合わない気がして」
その瞬間、ユウの脳裏を閃光が走った。
目の奥が灼けるようで、息が詰まる。思わず瞼を閉じ、静かに呼吸を整えた——。
男女二人の口論、別室に入っていく姿、バタンと閉まるドア。
そして……血まみれの男性が見えた。
霞の光景はハッキリとはしない。しかし不幸な結末であることは見て取れる。
数年後――その時はやって来る。
この結末は本当なのか、ただの幻なのか。
「ご夫婦、努力して仲良くなさることです。生きることは我慢と努力の結晶です。でも我慢の限界が来た時は、次の人生を考えるのもいいかもしれません」
「それはつまり離婚という事ですね? ウフフ……そこまでは考えられません。
見ず知らずの人にこんな事を話すなんて…… 今日の私、どうかしてますわ。今お話したこと、全て忘れてくださいませ。
ごめんなさい、昼食を作らなくてはなりませんので、
これで失礼します。 さようなら」
ご婦人は買い物袋を手に取ると、にこやかに立ち上がった。
「どうぞお元気で」 ――他に何が言えただろうか。
眩しい日光を浴びながら白い帽子に片手を添え、去っていく婦人の後ろ姿を見つめながら、ユウは暫く動かなかった。
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あの日から数年が早くも過ぎていたある日、朝刊を開くと、ユウの目にある記事が飛び込んできた。
都内に住む夫婦の死亡記事だった。
夫は多額の借金をして、妻のために家を建てていた。
その家と、自分の死亡保険金を担保にしていたという。
夫は自ら首をつり、その下には妻の遺体があったと報じられていた。
数年前の、あのご婦人ではありませんように。
心の底からそう願いながら ユウは朝刊を持つ手をゆっくりと下した。
もし違っていれば心から安堵出来る。だが、もし一致していたら――
目を閉じると、あの日公園で笑いながら話してくれた老婦人の端正な顔が、胸の奥で揺れた。
記憶の中の声が蘇る。 「嚙み合わないのよねえ」
あの時の寂しげな笑み、白い帽子の陰から覗く瞳。
どうぞ人違いでありますように。 ただそれだけを願いながらユウは新聞を閉じた。
一輪の白い花を、あの公園のあのベンチに捧げたのは紛れもないユウであった。




