↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不思議な女 上田ユウ  作者: 上田ユウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/31

No.19 竹霞(後編)

一週間後。

約束どおり竹藪を訪ねると、女の人は縁側で待っていた。

「今日はね、モンブランを買ってきたの。」

そう言って箱を開けると、嬉しそうに笑った。

湯気の立つお茶が並び、竹藪には春の風がゆっくりと吹き抜けていく。

葉擦れの音は前と変わらず穏やかだった。

「実は、五年付き合っている人がいるの。」

女の人はモンブランを皿に移しながら話し始めた。

「親の遺産や借地代で十分暮らしていけるでしょう。私が今年で仕事を辞めたのを知って、急に結婚しようと言い出したの。」

ユウは黙って耳を傾けた。

春の日差しは暖かい。

それなのに、背中を冷たい風が通り抜けたような感覚が走る。

理由は分からない。  胸の奥だけが、小さくざわついていた。

「私も、この人とならって思ったのよ。でも気になって調べたら……既婚者だったの。」


********************

その瞬間だった。

ユウの脳裏に、突然、閃光が走った。

――だが、その先には何もなかった。

暗闇でもない。

映像でもない。

ただ、果てしなく広がる『無』だけがあった。

********************


ユウは思わず息を呑んだ。

意味が分からない――。


「問い詰めたら、妻とは離婚するつもりだって。今は協議中だと言うのよ。」

女の人は視線を落とした。

「私は今年で五十歳。もう後がないでしょう。彼を信じて待つべきか、それとも一人で

生きるか……迷っているの。」

きっと、この話を誰かに聞いてほしかったのだろう。

胸の内を静かに吐き出すと、彼女は我に返ったように笑った。

「ごめんなさいね。こんな話、聞かされても困るわよね。」

「従兄弟さんは、今も来られるんですか。」   ユウは静かに尋ねた。

「ええ。土地を売れって何度も。でも甥は、その人はやめたほうがいいって言うの。」

他人の人生に踏み込めるほどの確信を、ユウは持っていない。

「難しいですねぇ。その方は、どんな人なのですか。」

「私と同じ歳で、子どもはいないの。最近、仕事も辞めたみたい。」

ユウは小さく頷いた。   胸のざわめきは消えない。

真面目な人物とは、正直思えなかった。

「甥は、一度その人と話をしてみると言ってくれたけど……。」

下向きに話していた顔をゆっくりと上げた。

もう自分の中では何か決心しているように、ユウには思えた。

目の前の、そよぐタケノコ林を真っ直ぐ見つめ、突然、話題を替えた。

「タケノコ、持って行く? 待っててね。」

そう言うと、女の人は軽やかな足取りで竹藪の中へ消えていった。


ユウは先程の、無、のことを考えていた。

何もないってどういうことなのか。

ただ単に、見えなかっただけだろうか。

もう一度、閃光が脳裏に現れることを願っていた。


しばらくすると、女の人は両手に溢れるほどの小さなタケノコを抱えて戻ってきた。

「ほら、どうぞ。」

袋いっぱいに詰めながら、嬉しそうにユウへ手渡した。

「ありがとうございます。」

「また時間があったら寄ってくださいね。」

晴れやかな笑顔であった。

人は――特に女の人は、誰かに胸の内を話すだけで少し落ち着くものなのかもしれない。

 「時々は寄ってくださいね」

女の人は、そう言って笑った。


――それが、ユウが彼女を見た最後になった。

その後も何度か竹藪を訪ねたが、女の人の姿はなかった。

マンションにも住んでいると言っていた。

きっと、こちらへ来る機会が少なくなったのだろう。   その時は、そう思っていた。

タケノコの季節が幾度か過ぎたある日。

図書館で、ユウは思いもよらぬ話を耳にした。

竹藪の持ち主は、すでに亡くなっているという。

あの女の人と、その男性、そして甥との間で揉め事が起き、詳しい事情は分からないものの、三人とも命を落としたらしかった。

親族もなく、残された財産はすべて国庫に帰属したという。

ユウは言葉を失った。

あの日、門先でいつまでも手を振ってくれていた笑顔が、静かによみがえる。

名前さえ聞かないまま、別れてしまった。

金とは、不思議なものだ。

あり過ぎても、無さ過ぎても、人の心を狂わせることがある。

今も竹藪だけは、あの日と変わらぬ姿で残っている。

風が吹くたび、葉擦れの音が静かに流れた。

ユウはふと、あの日、脳裏に広がった『無』を思い出した。

あれは未来を見せなかったのではない。

――誰の未来も、そこには続いていなかったのだ。


ユウはいつも感じている。

他人の未来が垣間見える意味は何かあるのだろうかと。

無力さが侘しい。


竹は今日も変わることなく風に揺れ、さやさやという音だけが、あの日の記憶を静かに

語り続けている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。