No.19 竹霞(前編)
雨戸を開けると、遠くの山並みの頂に、水墨画のような霞がたなびいていた。
春になると、時折見られるこの風景が、ユウは好きだった。
霞に溶け込む山々を眺めていると、心まで静かに洗われるような気がする。
「今日は少し遠くまで歩いてみよう。」
そう思い立つと、そそくさと家事を済ませ、図書館を目指して家を出た。
頬をなでる風はまだ少し冷たい。
だが、その冷たさが春の訪れを告げるようで心地よかった。
かなり歩いた頃、小さな竹藪が見えてくる。
いつもは何気なく通り過ぎる場所だったが、その日は竹の奥に人影が見えた。
休憩がてら立ち止まり、ぼんやり眺めていると、その人影がゆっくりこちらへ
近づいてきた。
現れたのは、思っていたより若い女の人だった。
姉さんかぶりにもんぺ姿で、腕には掘りたての小さなタケノコを抱えていた。
「持っていきますか。」 突然声を掛けられ、ユウは少し驚いた。
「袋に入れてあげるから、家にいらっしゃいよ。」 女の人は人懐こい笑顔を見せた。
竹藪を回り込むように細い道が続き、その奥には藁ぶき屋根の平屋が建っていた。
まるで昔話の中に迷い込んだような、懐かしい佇まいだった。
「縁側で待っていて。」
そう言われ、ユウは腰を下ろした。
風が竹の間を静かに吹き抜けていく。
何百本もの竹が一斉に揺れ、葉擦れの音がさやさやと重なった。
その音は、人の話し声まで優しく包み込むようで、どこか懐かしい。
思わず目を閉じ、小さく息を吸う。
「いい音ですね。」
ユウがつぶやくと、女の人は竹藪のほうへ目を向けた。
「そうでしょう。この音を聞くと、父も母もまだこの竹藪のどこかにいるような気がするの。」
その言葉には、深い愛情と寂しさが静かに滲んでいた。
やがて女の人は、湯気の立つお茶と、袋に入れたタケノコを持って戻ってきた。
「ちょうど、お茶を飲もうと思っていたのよ。」
湯飲みを両手で包み込みながら、竹藪を眺める。
「今年はタケノコが少ないの。雨が少なかったせいかしら。」
「そうなんですか。」
「昔はね、この季節になると近所の人が次々に来て、『少し分けて』って賑やかだったの。父も母も忙しそうだったわ。」
懐かしそうに微笑むその横顔には、もう戻らない日々への思いが浮かんでいた。
「でも今は、一日中、誰とも話さない日もあるのよ。」
そう言って少し照れくさそうに笑う。
「今日は久しぶりに、こんなにゆっくりおしゃべりができて嬉しいわ。」
ユウには、不思議と人に安堵感を与えるところがあった。
化粧気もなく、どこにでもいるような風貌だったが、しわくちゃになるほどの笑顔が、
相手の心をゆっくりほどいていくのかもしれない。
女の人は立て続けに三杯もお茶を飲み干した。
「ここにお住まいなのですか。」
「いいえ。両親が住んでいましたが、二人とも昨年亡くなりました。」
そこまで言うと、一呼吸置き、胸につかえていたものを少しずつ吐き出すように
話し始めた。
一人娘であること。
未だ独身で、相談できる相手がほとんどいないこと。
たった一人の従兄弟が、この広い土地を売るよう何度も訪ねて来ること。
借地もあり、生活には困っていないこと――。
初対面にも拘わらず流暢に話す人だった。
ユウは軽々しいことは言えなかった。
「よく考えて、ご自分が納得できるように決断するしかありませんね。」
それが精一杯だった。
女の人は小さく頷き、少しだけ表情を和らげた。
「何だか胸のつかえがおりたわ。聞いてくれてありがとう。良かったら来週の土曜日、また来てくださいね」
女の人はそう言って、柔らかな笑顔を向けた。
「ええ、また伺います。」
ユウも笑顔で応えた。
その時、女の人がふと思い出したように笑った。
「そういえば、私たち、まだお互い名前も聞いていなかったわね。」
ユウも思わず笑みをこぼした。
「本当ですね。」
「まあ、また今度でいいわ。また会えるもの。」
「そうですね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
ユウが歩き始めると、女の人は門先まで出てきて、いつまでも手を振ってくれていた。
ユウも何度か振り返り、そのたびに手を振り返した。
春霞の向こうで、竹藪は静かに風に揺れている。
さやさやと響く葉擦れの音だけが、二人の別れをそっと包み込んでいた。




