No.18 心残りなく(後編)
あの日から数日が過ぎた。
五月を迎え、ユウの家庭菜園は一年で最も忙しい季節を迎えていた。
トマト、ピーマン、茄子、ゴーヤ、落花生――。
一通り苗を植え終えると、畑の隅で伸びきったスナップエンドウが目に留まった。
「そうだ、彼女に届けよう。」
袋いっぱいに詰め、庭の林檎を添えて電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつもより力がなかった。
「ユウさん、今朝ね、もう最後かと思ったの。」
ユウは黙って耳を傾けた。
「心臓発作が起きてね。ニトログリセリンを口に含んで、何とか治まったの。」 そうだった。
彼女は左心室不全を患っていた。
病院で診てもらい、ようやく帰宅したばかりだという。
「大丈夫なの?」 ユウが尋ねると、彼女は小さく笑った。
「なかなか死ねないものね。」
冗談のように聞こえたその言葉の奥に、長い年月を一人で生きてきた人だけが知る疲れが滲んでいた。
ユウはスナップエンドウと林檎を持ち、彼女の家へ向かった。
玄関のブザーを押すと、しばらくして扉が開いた。 「入って。」
案内されたリビングには、以前から置かれていた長いソファーが 簡易ベッドになっていた。
五月の爽やかな風がレースのカーテンを静かに揺らしている。
枕と薄い毛布だけが置かれたその場所は、病と向き合う彼女の日常を 物語っていた。
それでも彼女は立ち上がろうとした。
「お茶くらい入れさせて。」 「今日は座っていて。私がやるから。」
そう言ってユウが台所へ向かおうとすると、彼女がぽつりとつぶやいた。
「娘ね……。」
その一言に、ユウは足を止めた。
「もう十年も会っていないの。」 しばらく沈黙が流れた。
「孫もいるらしいけど、一度も抱いたことがないわ。」
窓から入り込む風だけが、静かに部屋を通り抜けていく。
「きっと、私のことなんて忘れているでしょうね。」
その声には恨みも怒りもなかった。
ただ、母親だけが抱え続ける深い寂しさがあった。
ユウは何も言えなかった。
慰めの言葉は、時として相手の心に届かないことを知っていたからである。
この人も若い頃は、娘の幸せを願い、懸命に子育てをしてきたのだろう。
それなのに人生は、たった一つの選択が十年という歳月を奪ってしまうことがある。
ユウが彼女の湯飲みに手を伸ばした、その瞬間だった。
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ふいに、脳裏に閃光が走った。
見慣れない部屋。
机を挟んで、彼女が弁護士らしき男性と向かい合っている。
机の上には何枚もの書類が広げられていた。
弁護士が静かに尋ねる。
「こちらの内容で、よろしいですね。」
彼女はすぐには答えなかった。
一枚の古びた書類に目を落とす。
そこには、娘が父親の遺産相続の際に署名した一文があった。
――母親の遺産は、すべて放棄します。――
あの争いの末に交わされた約束だった。
彼女はその紙を見つめたまま、小さく目を閉じる。
やがて穏やかな表情で顔を上げた。
「……いいえ。」 静かな声だった。
「それは破棄してください」
「娘にも、きちんと残したいんです」
そう言って、彼女は新しい遺言書へ署名した。
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その瞬間、ユウの胸の奥につかえていた何かが、音もなくほどけていくのを感じた。
思わず言葉がこぼれた。
「ありがとう……。」
「え?」 彼女は不思議そうに笑った。
「急にどうしたの?」 ユウは微笑み返すだけだった。
未来のことは、誰にも話せない。
帰り際、玄関まで見送ってくれた彼女が、ふと思い出したように言った。
「私ね、遺言書を書き換えようと思っているの。」
ユウは静かに頷いた。
彼女の表情は、これまで見たことがないほど穏やかだった。
人は何一つ持たずに生まれ、何一つ持たずに旅立っていく。
それでも最後に残るものがあるとすれば、それは財産ではなく、
誰かを許したという記憶なのかもしれない。
母親として、心残りなく旅立ってほしい。
永遠の命など、この世のどこにも存在しないのだから。




