初雪の朝に(後編)
人にもとることをしてはいけません。
その日、社長はユウの家で母と二人きりになり、長い時間を過ごしたという。
だが、母は生涯、その席で何が語られたのかを口にすることはなかった。
ただ一度だけ、ぽつりとこんな言葉を残した。
「人にもとることをしてはいけません。」
それ以上は何も語らなかった。
母も、あの社長も、今はもうこの世にいない。
あの日、二人の間でどのような言葉が交わされたのか。
その真実を知る者は、もう誰もいなかった。
ただ、一つの話だけは後になって人づてに耳にした。
それが真実なのか、それとも誰かが語り継いだ噂なのかは分からない。
社長には、深く心を寄せる女性がいたという。
一度きりの人生なのだから、自分の思いに従って生きるべきではないか――。
そんな迷いを抱え、その答えを母に求めて、この小さな村までやって来たのだと。
しかし、母が返した言葉は、ただ一つだった。
「人に悖ることをしてはいけません。」
悩みぬいた末、その一言を胸に、社長は離婚を思いとどまったという。
本妻との間にも、その女性との間にも男の子が生まれていた。
社長はどちらの子にも自らの会社を継がせることはせず、それぞれに自力で道を切り開くよう諭し、
創業のための資金だけを託したそうだ。
やがて、一人の息子は父と同様に会社を設立、後に父の企業と肩を並べるほどに成長したと
伝えられている。
その話が本当なのかどうか、ユウは確かめたくなかった。
雨戸の向こうでは、雪が静かに降り続いていた。
ユウは冷めかけたコーヒーカップを両手で包み、窓の外を見つめた。
母は多くを語らなかった。
教えを押しつけることも、自らを誇ることもなかった。
それでも、その生き方は、言葉より深く人の心に残り、人の人生を照らし続けていた。
ユウは静かに立ち上がり、雨戸を閉めた。
白く染まった庭は見えなくなったが、母の言葉だけは、今も胸の奥で鮮やかに息づいている。
「人にもとることをしてはいけません。」
その言葉に、あの日の社長がどのように応えたのか。
それはもう、誰にも分からない。
けれど母は、その答えを言葉ではなく、一人の人間の生き方として教えていたのだろう。
初雪は、今日も変わることなく、静かに降り続いていた。




