No.12 計り知れぬ人(前編)
ユウは夢を見ることがほとんどなかった。
だが、その夜にかぎっては違っていた。
夢の中で、同年代の女性――友部が地に伏して泣いていた。
肩を震わせ、声にならない嗚咽を漏らしている。
なぜかユウも一緒になって泣いていた。
涙の熱さに我に返り、目を覚ます。
時計の針は午前三時を指していた。
まだ夜明けまでは長い。
しかし、その後はどうしても眠ることができなかった。
胸の奥に重たい石でも抱えたような、不快な疲労感だけが残った。
その日は予定もなく、静かに過ごすつもりだった。
ところが昼前、玄関のチャイムが鳴った。 「どちら様ですか」
インターホン越しに尋ねると、返ってきた声にユウは息をのんだ。
「友部です。少し、お話ししたいことがあるのですが」
夢に現れた女性だった。 慌ててドアを開けた。
友部はどこか疲れた表情を浮かべていた。
ユウはお茶を入れ、向かいに座った。
しばらく沈黙が続いたあと、友部がぽつりと話し始めた。
「私ね、主人と結婚する前に好きな人がいたの」
それは高校卒業後、勤めていた会社で出会った男性だった。
大学生だった彼とは自然に心を通わせ、将来を考えるほどの仲になった。
やがて彼は言った。
「両親に紹介したい」 嬉しかったに相違ない。
けれど、その訪問が別れになるとは思ってもみなかった。
彼の実家で待っていたのは冷たい現実だった。
「あなたは息子には不釣り合いです」
「息子には以前から良家での大卒の許嫁がおります。
息子のためを思うなら、このまま帰ってください」
容赦のない言葉だった。 友部は故郷へ戻った。
ほどなくして彼から連絡が来た。
「申し訳ない。跡取りだから親には逆らえない。でも年賀状だけは続けたい」
その言葉を最後に二人は別れた。
友部は静かに語った。
「そのあと、お見合いで今の主人と結婚したの。年賀状だけは続いたわ。今年で十年になるの」
そこで言葉が途切れた。
湯呑みに残っていたお茶を飲み干し、彼女は再び口を開いた。
「今日ね、その人が突然訪ねてきたの」
風邪で仕事を休んでいたという。
どうしても会いたいと言われ、近くの喫茶店で向かい合った。
十年ぶりの再会だった。
彼はしばらく黙っていたが、やがてこう尋ねた。
「あなたは幸せですか」 友部は苦笑した。
「当然、幸せだって答えたわ」
すると彼は安堵したように頷いた。 そして静かに言った。
「良かった。これで区切りがついた。年賀状も終わりにしましょう」
それだけ言い残して帰っていったという。
ユウはコーヒーを淹れながら首をかしげた。
「それって、どういう意味?」 友部は答えなかった。
窓の外を見つめたまま動かない。 長い沈黙だけが流れた。
やがて彼女は低い声で言った。
「本当はね、年賀状だけは続けたかったの」
カップを両手で包み込んだ。 その指先はわずかに震えていた。
「奥様に知られたそうよ。長年、自分を裏切ってきたことは許せないって。今回を最後にすべて終わらせてこいと言われたんですって」
そこまで話すと、友部は黙った。
泣かなかった。 怒りもしなかった。
ただ冷めていくコーヒーを見つめていた。
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そのときだった。
突然、ユウの脳裏に閃光が走りある光景が浮かんだ。
病院の一室。
ベッドに横たわる友部の夫。
周囲には医師と看護師だけがいる。
家族の姿はない。
誰にも見送られないまま、彼は静かに人生の終わりを迎えようとしていた。
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なぜそんな光景が見えたのか。
意味は分からなかった。
気がつくと友部が立ち上がっていた。 「聞いてくれてありがとう」
彼女は冷めきったコーヒーを一息に飲み干した。
「少し気持ちが落ち着いたわ」
そう言って微笑み、帰っていった。
玄関のドアが閉まったあとも、ユウはしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥に残るのは、夢と同じ不吉なざわめきだった。
――あの光景の意味を、ユウが知るのは十数年後のことである。




