No.12 計り知れぬ人(後編)
それから二週間ほど過ぎた頃だった。
ユウの携帯電話が鳴った。
相手は友部の夫だった。
「妻が買い物に出かけています。どうしてもお聞きしたいことがあります。
今から来ていただけませんか」 切羽詰まった声だった。
ユウはすぐに友部の家へ向かった。
玄関のドアは、呼び鈴を押す間もなく開いた。
「突然お呼び立てして申し訳ありません」
そう言って頭を下げた彼は、以前よりやつれたように見えた。
ユウは玄関先で動かなかった。 彼はためらいがちに口を開いた。
「最近、妻の様子がおかしいのです。」
少し間を置き、苦しそうに続けた。
「まるで別人になってしまった。何を話しかけても冷たい返事しか返ってきません。」
彼はユウを真っ直ぐ見つめた。
「妻にとって、あなたが一番信頼している友人だと思っています。何か相談を受けていませんか。
私に原因があるなら、どんなことでも改めます。」
その真剣な眼差しに、ユウは胸が痛んだ。
だが、約束を破ることはできなかった。
「……申し訳ありません。何も伺っていません。」
「そんなはずはありません。」 彼は身を乗り出した。
「どんな小さなことでも構いません。どうか教えてください。」
「本当に分からないのです。」
しばらく沈黙が続いた。 やがて彼は深く息を吐いた。
「妻に理由を尋ねても、『あなたのすべてが嫌になった』としか言わないんです。
それでは、何を改めればいいのか分かりません。」
その言葉は、自分を責め続けている人間の悲鳴のように聞こえた。
ユウは何も答えられなかった。……
帰り道、足は自然と友部を探していた。
夕暮れの商店街で、買い物袋を提げた友部を見つけた。
夫とのやり取りを話し、「もう一度だけ、ご主人と向き合ってみたら」と静かに伝えた。
友部は黙って聞いていた。 返事はなかった。
ただ、一度だけ小さく頷いたように見えた。
それが、ユウが友部を見た最後の姿になった。
一週間後、何度電話をかけても留守番電話につながるばかりだった。
気になって家を訪ねると、平屋の借家は改修工事の最中だった。
大家は言った。
「急にご主人の転勤が決まってね。慌ただしく引っ越して行かれましたよ。」
腑に落ちなかった。
携帯電話も、二度とつながることはなかった。
それから十数年の歳月が流れた。
ある日の午後、一本の電話が鳴った。
「ユウ……久しぶり。」
聞き覚えのある声だった。 友部だった。
「連絡もしないで引っ越して、ごめんなさい。」
懐かしさよりも、その静かな口調が印象に残った。
「実はね、あのあと離婚を決心したの。でも主人は最後まで納得しなかった。」
友部は淡々と語った。
「結局、別居という形になってしまったの。主人と息子が一緒に暮らして、私は一人で。」
十年以上の歳月が、その短い言葉に込められていた。
そして、少しだけ声を落とした。
「主人が三日前に亡くなったの。」 ユウは息をのんだ。
夢の中で見た病室。
脳裏をよぎった光景が鮮やかによみがえった。
「あの人は余命一か月と宣告されて、最後に一度だけ見舞いに来てほしいと言った。
でも……私は行けなかった。」
責めるような口調ではない。
言い訳でもなかった。
長い年月を生き抜いた人だけが持つ強さが見えた。
「お墓は作らず散骨にしたの。私もいつか同じようにしてほしいと息子に頼んであるの。」
少し笑う気配がした。
「これで終わったわ。私の人生、本当に終わった。」
その言葉に、不思議な暗さはなかった。
長い旅を終えた人が、ようやく荷物を下ろしたような穏やかさだけがあった。
「ユウ。あなたが、私のたった一人の親友だった。」 しばらく沈黙が続いた。
「もしボケなかったら、また電話するわ。」
それだけ言うと電話は静かに切れた。
受話器を置いたあとも、ユウはしばらく動くことができなかった。
夢の中で泣いていた友部。
誰にも見送られない病室。
あの日見た光景は、未来を告げていたのか、それとも友部の心を映していただけだったのか。
ユウには、今も分からない。
人は、ときに自分自身の心さえ計ることができない。
まして、人の心など――計り知れない。




