第84話 食い違いを隠さない
雨は、朝になっても細く降り続いていた。
激しい雨ではない。
けれど、土を柔らかくし、屋根を叩き、火の周りに白い湿り気をまとわせる雨だった。
北口中継小屋の三つの火は、昨夜より小さくなっていた。
それでも消えてはいない。
夜番たちは、薪を濡らさないよう布をかけ、火の周りの石を積み直している。ガレスは雨除けの板を押さえ、ヨハンは荷車の幌を確認していた。
「火ってのは、雨の日の方が面倒だな」
ヨハンが言うと、ガレスは濡れた髪を手で払いながら答えた。
「燃やされた時も面倒だっただろ」
「そりゃそうだ」
「じゃあ、いつでも面倒なんだよ」
「身も蓋もねえな」
そんなやり取りが雨音に混ざっている。
レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓からそれを見ていた。
昨日、マイゼルとニコの聞き取りが終わった。
弱い証人たちだった。
保身があり、恐怖があり、後悔がある。
だが、それでも彼らは話した。
ロイエン副使は、その弱さを突いた。
今日も必ず突いてくる。
それも、もっと細かく。
「閣下」
ルイスが紙束を持ってきた。
「証言照合表、できました」
「ありがとう」
受け取った紙には、いくつもの項目が並んでいた。
マイゼルの証言。
ニコの証言。
リュカの証言。
豆札改ざん未遂。
空箱。
焼け帳面。
中継小屋火災。
白蔦焼印木片。
旧書記長の下書き。
王都からの照会結果。
そして、それぞれに三つの欄があった。
一致点。
未確認点。
食い違い・記憶曖昧点。
レティシアは、その表を見て頷いた。
「いいわ」
ルイスは少し不安そうだった。
「食い違いの欄、かなり目立ちます」
「目立っていいのよ」
「監査使に、弱点として見られませんか」
「見られるわ」
「それでも出すのですね」
「隠した食い違いは、弱点になる。出した食い違いは、確認すべき項目になる」
ルイスは、その言葉を飲み込むように少し黙った。
「……穴に名前をつける、ですね」
「そう」
その時、扉が叩かれた。
今日も、監査は始まる。
入ってきたフェルナー監査官は、濡れた外套を従者に預けてから席に着いた。ロイエン副使は、雨のせいで少し機嫌が悪いのか、笑みはあるものの目元が冷えている。
「本日は、昨日の証言の照合を確認したい」
フェルナーが言った。
「準備しています」
レティシアが頷くと、ルイスは証言照合表を差し出した。
フェルナーは一枚目を受け取り、目を通す。
しばらく、紙をめくる音だけが帳場に響いた。
やがて、ロイエンが口を開いた。
「これは、ずいぶん正直な表ですな」
「ありがとうございます」
ルイスが思わず返すと、ロイエンは薄く笑った。
「褒めたわけではありません。食い違いが多い、と申し上げたのです」
ルイスの肩がわずかに固くなる。
レティシアは静かに答えた。
「証言ですので」
「証言だから食い違ってもよいと?」
「いいえ。食い違っているから、照合します」
ロイエンは一枚の表を指で叩いた。
「ここです。マイゼルは“白蔦の若君”を旧書記長の部屋で見たとは言っていない。似た香りと紙刀を見た、と言っている。一方、リュカは白蔦会の符丁として“若”を語っている。これは直接繋がっていない」
「その通りです」
レティシアは認めた。
ロイエンは、少しだけ目を細める。
「認めるのですか」
「ええ。ですから、“直接証言ではなく符丁および周辺物証による関連推定”と記しています」
フェルナーがその欄を見る。
「確かに、そう書いてある」
ロイエンは、次の欄を突く。
「ニコの証言では、細目の質屋は封印を剥がせと命じた。リュカの証言では、空箱の符丁は“箱は見ている”。しかし、細目の質屋が白蔦会の正式な指示を受けた証拠はない」
「ありません」
「また認める」
「はい。だから“白蔦会末端網の可能性”としています。断定はしていません」
「便利ですな。都合の悪いところは可能性にして逃げられる」
ディルクの視線が鋭くなった。
しかし、レティシアは揺れなかった。
「断定できないものを断定する方が、監査にとっては危険ではありませんか」
フェルナーが、短く言った。
「その通りだ」
ロイエンは、少し強く紙を置いた。
「では、何一つ断定できていないではありませんか」
帳場の空気が張りつめる。
ロイエンは続けた。
「白蔦会。若君。細目の質屋。空箱。火災。すべて可能性、推定、照合中。これでは、レティシア様が都合よく影を作り上げているようにも見える」
ルイスは息を呑んだ。
それが、ロイエンの狙いだった。
断定すれば、根拠不足と言う。
断定しなければ、何もないと言う。
どちらに転んでも、こちらの記録を弱く見せるための問いだ。
レティシアは、机の上の証言表に手を置いた。
「ロイエン副使」
「何でしょう」
「火災現場に油布片がありました」
「ええ」
「白蔦焼印木片もありました」
「それが白蔦会のものと断定はできない」
「その通りです。ですが、同時に焼け帳面には“次、火を消す”とありました」
「偶然かもしれない」
「偶然かもしれません。さらに、空箱には香木残香と符丁と思しき傷がありました」
「それも推定」
「ええ。さらに、借金で証拠棚を攪乱させようとした者が出ました」
「それは細目の質屋の問題で、白蔦会との直結ではない」
「そうです」
レティシアは一つずつ認めた。
認めながら、並べた。
「だから、この表があります」
彼女は証言照合表を指した。
「ひとつひとつは断定に足りない。だから、個別に断定せず、並べて照合しています。偶然か、同じ線かを見極めるために」
ロイエンは黙った。
フェルナーは、表を見たまま言った。
「未確定を未確定として並べることは、監査上、必要だ」
ロイエンがフェルナーを見る。
「監査官殿は、このような曖昧な記録を認めるのですか」
「曖昧なものを曖昧と書いた記録は認める」
フェルナーは淡々と返した。
「問題は、曖昧なものを確定のように扱うこと、あるいは曖昧さを隠すことだ」
ロイエンは口を閉じた。
その表情には、はっきり苛立ちが浮かんでいた。
午前の監査は、証言照合表の確認に費やされた。
フェルナーは容赦なく細部を見た。
マイゼルの証言日時。
ニコの借金額。
リュカの符丁記憶。
空箱の傷の写し。
豆札改ざん未遂の発見者。
中継小屋火災時の現場配置。
厳しい。
だが、悪意ではない。
彼は本当に、記録が成り立つかを見ている。
昼前、フェルナーが一箇所を指した。
「ここ。ニコの証言では細目の質屋は“封印札を剥がせ”と言った。一方、実際にニコが持っていた道具は薄刃だったな」
「はい」
「道具は誰が用意した」
ルイスが紙を探す。
「ニコ本人の証言では、質屋から渡されたものです。ただし、裏付けはまだありません」
「道具そのものは証拠棚に?」
「封印一号の関連物として別包みにしています」
「見せてくれ」
ディルクが鍵を出し、ルイスが手袋をつけて薄刃を取り出す。
フェルナーは触れずに見た。
「封印札を剥がすには向いている。だが、箱を壊すには弱い」
「はい」
レティシアが答える。
「目的は証拠の破壊ではなく、状態攪乱と見ています」
「妥当だ」
ロイエンが、すぐに言った。
「あるいは、証拠を大げさに見せるために、わざと弱い道具を用意したとも考えられる」
「誰が?」
フェルナーが問う。
ロイエンは一瞬だけ止まる。
「……この領地側が」
帳場の空気が、冷えた。
ルイスの顔色が変わる。
ディルクの手がわずかに動いた。
マルタの目が細くなる。
レティシアだけが静かだった。
「つまり、こちらがニコに薄刃を持たせ、証拠棚へ近づかせ、捕まえさせたと?」
ロイエンは微笑む。
「可能性の話です。皆さまが好んで使う言葉でしょう」
嫌な言い方だった。
可能性という言葉そのものを汚そうとしている。
レティシアは、少しだけ息を吸った。
「なら、その可能性も記録します」
ロイエンの笑みが止まった。
「何?」
「“ロイエン副使より、領地側が証拠棚接触未遂を自作した可能性について指摘あり”と」
ルイスが顔を上げる。
フェルナーも、わずかに眉を動かした。
レティシアは続ける。
「そして、その可能性を検証するために、夜番の巡回記録、ニコの勤務記録、証拠棚前の発見時刻、薄刃の出所、ニコの母親の薬代記録、借金聞き取りを再照合します」
ロイエンは冷たく言う。
「皮肉のつもりですか」
「いいえ。可能性を提示されたなら、記録して検証します」
レティシアの声は、どこまでも静かだった。
「ただし、検証にはご発言者の名も残します」
その瞬間、ロイエンの顔から完全に笑みが消えた。
フェルナーが低く言った。
「記録しろ」
ルイスは一瞬だけ迷い、それから筆を取った。
「ロイエン副使より、証拠棚接触未遂について領地側自作の可能性を指摘。要検証……」
筆の音が、帳場に響いた。
ロイエンは何も言わなかった。
言えば言うほど、記録に残る。
そのことを、彼も理解したのだろう。
午後、ロイエンは口数を減らした。
代わりにフェルナーが中心となり、記録の整合を確認していった。
厳しい監査だった。
甘くはない。
フェルナーは不備を見逃さなかった。
「この日付、聞き取り記録と証拠棚登録日が一日ずれている」
「証拠棚登録が翌朝になったためです」
「理由を記載すること」
「はい」
「豆札改ざん未遂の現物は?」
「札は保全していますが、紐は当時のものではありません」
「なぜ替えた」
「現場で誤って外されました」
「それは保全不備だ」
「はい。記録に追記します」
フェルナーは容赦ない。
だが、その指摘は痛いだけではなかった。
次に直す場所を示している。
ルイスは、何度も「追記」「要改善」「保全手順見直し」と書いた。
以前なら、それだけで落ち込んだかもしれない。
今は違う。
穴に名がついた。
だから次の仕事になる。
夕方、雨は上がった。
窓の外には、濡れた町が光っている。
中継小屋の三つの火は、湿った空気の中で白く煙りながら燃えていた。
監査使たちが部屋へ戻った後、帳場には深い疲労が残った。
ルイスは机に両手をつき、ぐったりとした声で言った。
「今日は……可能性という言葉が嫌いになりそうでした」
レティシアは少しだけ笑った。
「嫌いにならなくていいわ」
「でも、あんなふうに使われると」
「だからこそ、正しく使うのよ」
ディルクが低く言った。
「ロイエンは、自分の発言が記録されることを嫌がりましたね」
「ええ」
「今後、彼は記録に残らない場を狙うかもしれません」
「でしょうね」
マルタが静かに茶を置いた。
「では、皆さま、お一人で動かれませぬよう」
その声は穏やかだったが、有無を言わせなかった。
レティシアは頷いた。
「徹底しましょう」
その夜の記録は、いつもより長くなった。
証言照合表の確認。
食い違いの扱い。
ロイエン副使の自作可能性発言。
フェルナー監査官の保全不備指摘。
証拠棚登録日ずれの追記。
豆札保全手順の見直し。
最後に、レティシアはこう口述した。
可能性という言葉は、影を広げるためにも使える。だが、正しく記録すれば、影に輪郭を与えることもできる。誰が、何を、どの根拠で可能性と呼んだのか。それを残す限り、言葉は煙にはならない。
ルイスは、一文字ずつ丁寧に書いた。
外では雨上がりの空気の中で、三つの火が揺れている。
ロイエンは、まだ諦めていない。
だが帳場もまた、彼の言葉を逃がさない方法を覚え始めていた。




