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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第85話 記録に残らない場所

 雨上がりの朝は、町の匂いが濃くなる。


 湿った土。

 乾ききらない薪。

 井戸端にこぼれた水。

 炊事場から流れてくる豆と根菜の湯気。

 鍛冶場の炉が吐く、鉄の熱い匂い。


 王都の者なら顔をしかめるかもしれない。

 けれど、レティシア・エーヴェルシュタインにとっては、今のこの土地が生きている証のように感じられた。


 監査四日目。


 王太子府の一行は、まだ辺境にいる。


 フェルナー監査官は、昨日指摘した保全不備について、朝から追加確認を求めてきた。

 証拠棚登録日のずれ。

 豆札改ざん未遂時の紐の保管漏れ。

 証人聞き取りの時間記録の書式違い。


 細かい。

 容赦ない。

 だが、フェルナーの指摘には筋があった。


 だからこそ、帳場は受け入れた。


「証拠棚登録が翌朝になった理由は、火災直後の現場確認を優先したため。今後は仮登録欄を作り、現場発見時点で仮番号を付与する」


 ルイスが読み上げる。


 フェルナーは頷いた。


「よい。現場と帳場の間に時間差があるのは仕方ない。問題は、その時間差をどう記録するかだ」


「はい」


 ルイスの返事は、昨日より少し強かった。


 責められているのではなく、鍛えられている。

 少なくともフェルナーについては、そう感じ始めていた。


 だが、ロイエン副使は違う。


 彼は朝から妙に静かだった。


 椅子に座り、時折紙をめくる。

 質問もする。

 だが、昨日のように正面から噛みついてこない。


 その沈黙の方が、レティシアには不気味だった。


 ロイエンは諦めたわけではない。

 彼は、記録に残る場で攻めることを少し控え始めている。


 ならば次に狙うのは、記録に残らない場所だ。


 昼前、監査は一度休憩に入った。


 フェルナーは書記官とともに帳場に残り、午前の確認事項をまとめている。

 ロイエンは「少し外の空気を」と言って席を立った。


 ディルクがすぐに視線を動かす。


 レティシアも、わずかに頷いた。


 ひとりにはしない。


 ただし、露骨につけ回せば口実を与える。


 帳場の外へ出たロイエンは、砦の中庭をゆっくり歩いた。


 雨上がりの石畳はまだ濡れている。

 中庭の端では、荷運びの若者たちが中継小屋へ運ぶ板を積み直していた。


 ガレスもそこにいた。


 彼はロイエンに気づき、少し緊張した顔をした。

 だが、すぐに作業へ戻ろうとする。


「少しよろしいかな」


 ロイエンが声をかけた。


 ガレスの手が止まる。


「ええと……何か」


「昨日の話が気になってね」


「昨日?」


「穴に名前がつく、と言っていただろう。なかなか面白い言い方だった」


 ロイエンの声は柔らかかった。


 帳場での刺すような言葉とは違う。

 むしろ、少し年上の文官が若者を褒めるような口調だった。


 ガレスは困ったように頭をかいた。


「別に、深い意味で言ったわけじゃないです」


「そうかな。ああいう言葉は、現場の者でなければ出ない」


「はあ」


「君は、この町で随分信頼されているようだね」


 ガレスはますます困った顔になる。


「いや、そんなことは」


「謙遜しなくていい。火災の時も種火を守った。荷運び組にも顔が利く。レティシア様も君の意見をよく聞くようだ」


 言葉は褒めている。


 けれど、少しずつ別の方向へ押している。


 ガレスは、それをうまく言葉にできない。

 ただ、居心地の悪さだけは感じていた。


「どうだろう」


 ロイエンは一歩近づいた。


「君から見て、この町の帳場は本当に公平か」


 ガレスは息を呑んだ。


 その時、横から声が入った。


「その質問は、帳場で記録をつけてお願いします」


 ヨハンだった。


 肩に板を担いだまま、何食わぬ顔で立っている。


 ロイエンはゆっくり振り返った。


「君には聞いていない」


「俺には聞いてなくても、そいつは荷運び中なんで」


 ヨハンは板を下ろしながら言った。


「仕事止めて話すなら、帳場に通した方がいいです。前にそう言われました」


 ガレスは、はっとした顔をした。


 そうだ。


 知らないことは帳場へ。

 記録が必要なことは帳場へ。

 証人や証拠に関わる話は勝手にしない。


 何度も言われていた。


「すみません」


 ガレスはロイエンへ頭を下げた。


「俺、そういうの勝手に答えないことになってます」


 ロイエンの目元が冷える。


「ただの雑談だ」


「雑談でも、あとで俺が困るやつです」


 ガレスは正直に言った。


「俺、頭よくないんで。ちゃんと記録つけてもらわないと、何言ったか間違えます」


 ヨハンが隣で頷く。


「こいつ、本当に間違えます」


「そこは余計だろ」


「事実だろ」


 ふたりのやり取りに、周囲の若者が小さく笑った。


 ロイエンは笑わなかった。


 だが、それ以上追うこともできなかった。


 なぜなら、少し離れた場所にディルクが立っていたからだ。


 偶然のような顔をしている。

 だが、偶然ではない。


「……よろしい」


 ロイエンは柔らかく微笑んだ。


「勤勉なのはよいことだ」


 そう言って歩き出す。


 彼の背が遠ざかったあと、ガレスは大きく息を吐いた。


「助かった」


 ヨハンが肩をすくめる。


「お前、途中から目が泳いでたぞ」


「泳ぐだろ、あんなの」


「まあな」


 ガレスは額の汗を拭った。


「帳場へ、って言えばいいんだな」


「そう言われてただろ」


「言われてても、いざ来ると忘れるんだよ」


 ヨハンは板を担ぎ直した。


「じゃあ、次は忘れんな」


 その短いやり取りも、後で記録に残ることになった。


 ディルクが帳場へ戻り、淡々と報告したからだ。


「ロイエン副使が休憩中、ガレスに非公式接触。帳場の公平性について質問を試みる。ヨハンが介入し、帳場での記録付き質問を求める。ガレスも同意。接触は中断」


 ルイスはすぐに書き留めた。


「非公式接触……と書いていいのでしょうか」


「事実よ」


 レティシアは答えた。


「責める言葉ではなく、起きたことを書けばいい」


 フェルナーは、その報告を聞いて顔を上げた。


「ロイエン副使が?」


 声は平坦だった。


 だが、少し低かった。


 ロイエンは戻ってきたばかりだった。


「休憩中に軽く話をしただけです」


「証人または関係者への非公式接触は避けるよう、昨日確認したはずだ」


「証人ではありません。ただの荷運びです」


 フェルナーは資料を一枚めくった。


「ガレス。中継小屋火災時の種火移動者。荷運び組の町側立会人。監査対象の一部だ」


 ロイエンは沈黙した。


 フェルナーはそれ以上責めなかった。


 ただ、ルイスに向かって言った。


「記録に残せ」


「はい」


 ルイスの筆が、紙の上を走る。


 ロイエンの横顔は、静かだった。

 だが、その静けさの下に怒りがあることは、誰の目にも明らかだった。


 午後の監査は、王立書庫との照合文へ移った。


 これが一番繊細な部分だった。


 正式照会文。

 返書。

 後援印の照合依頼。

 ベルナールの名。

 ただし、ルシアン個人の私信に近い警告文は別保管してある。


 出せるものと出せないもの。


 その境界を、慎重に踏む必要がある。


 フェルナーは王立書庫からの正式文を読み、少しだけ眉を寄せた。


「第二王子殿下の確認済みとある」


「はい」


 レティシアは答える。


「王立書庫側の記録整理として、第二王子殿下の許可のもと照合が行われたものです」


 ロイエンがすかさず言った。


「つまり、第二王子殿下と直接連絡を?」


「王立書庫を通じた正式照会です」


「それ以外は?」


 帳場の空気が細くなる。


 レティシアは、ロイエンを見た。


「監査対象を具体化してください」


「具体化?」


「“それ以外”では、何を指すのか不明です。王立書庫照会以外の、どの記録、どの期間、どの形式の連絡を確認されたいのですか」


 ロイエンの目が鋭くなった。


「第二王子殿下との私的連絡の有無です」


 ルイスの筆が止まりかける。


 レティシアは静かに言った。


「その質問は、王太子府監査の範囲に含まれますか」


「辺境運営に影響するなら、含まれます」


「では、根拠を記録してください」


「根拠?」


「第二王子殿下との私的連絡が辺境運営に影響していると疑う根拠です」


 ロイエンは、ほんの一瞬だけ詰まった。


 そこへ、フェルナーが口を開く。


「王立書庫照会文以外に、第二王子殿下との私的連絡があるという情報を、王太子府は持っているのか」


 ロイエンは答えなかった。


 フェルナーは続ける。


「持っているなら監査対象にできる。持っていないなら、現時点では範囲外だ」


「しかし、王立書庫の動き自体が」


「王立書庫の正式照会は確認する。私的連絡の有無を無根拠に求めるのは別だ」


 ロイエンの口元が固くなる。


 レティシアは、胸の奥で静かに息を吐いた。


 ルシアンからの警告文は、出していない。

 そして、今の段階では出すべきではない。


 もしここでロイエンがその存在を知っているような素振りを見せれば、逆に情報漏れの線が見える。


 だが、彼は知らない。

 少なくとも確証は持っていない。


 ならば、まだ守れる。


 フェルナーは正式照会文へ戻った。


「後援印の照合結果、ヴァイスナー侯爵家分家印に類似。断定ではなく候補、とある」


「はい」


「この時点で、王太子府へ報告しなかった理由は」


「候補であり、断定ではなかったためです。また、王立書庫側でも追加照合中でした」


「王太子府に関わる可能性がある情報を、王太子府へ伏せたとも言える」


 フェルナーの問いは鋭い。


 ロイエンのように悪意で曲げてはいない。

 だが、甘くもない。


 レティシアは、少し間を置いた。


「王太子府内に関係者がいる可能性を考慮しました」


 帳場が静まる。


 ルイスが顔を上げる。


 ロイエンが、低く言った。


「それは、王太子府を疑っていたということですか」


「王太子府全体ではありません」


「では誰を」


「当時は不明でした」


「だから報告しなかった」


「はい」


 レティシアは逃げなかった。


「候補段階の家名を、関係者がいる可能性のある場所へ無防備に送れば、証拠が消える恐れがありました」


 フェルナーは、じっと彼女を見た。


「重大な判断だ」


「はい」


「独断だ」


「はい」


 ルイスの顔が青くなる。


 だがレティシアは続けた。


「その責任は私にあります」


 ロイエンが待っていたように言った。


「認めましたね。王太子府への報告を意図的に遅らせたと」


「はい」


 レティシアは、再び認めた。


「ただし、理由は記録保全と証拠隠滅防止です。その判断が妥当だったかは、監査でご確認ください」


 ロイエンの目が光る。


 だが、フェルナーが先に言った。


「その判断の根拠となる記録を出せ」


「ルイス」


「はい」


 ルイスは、用意していた紙束を差し出した。


 王都側で商務院記録の一部が抜かれていたこと。

 辺境側でも旧代官所記録が分離保管されていたこと。

 細目の質屋の帳面が焼かれていたこと。

 ベルナールが移送されたことを示す王立書庫からの一部報告。

 白蔦会仮倉庫の発見報告。


 フェルナーは、一枚ずつ確認した。


「証拠隠滅の恐れがある、と判断する材料はある」


 ロイエンが口を挟む。


「しかし、それでも王太子府を通すべきでした」


「それは監査所見に入れる」


 フェルナーは淡々と言った。


「だが、報告遅延の動機を私的反抗と断じるには足りない。記録保全上の判断として扱う」


 ロイエンは、強く唇を結んだ。


 この日、彼は何度も攻めた。


 非公式接触。

 私的連絡疑惑。

 報告遅延。

 どれも、危ういところまで踏み込んだ。


 だが、そのたびに記録が立ちはだかった。


 完璧な防壁ではない。

 傷はある。

 だが、崩れない。


 夕方、監査が終わる頃、フェルナーは一つだけ言った。


「明日は、監査所見の仮まとめに入る」


 ルイスが息を呑んだ。


「仮まとめ……」


「まだ結論ではない。不足資料があれば求める」


 ロイエンは横で黙っていた。


 その沈黙が、かえって不穏だった。


 夜、帳場では今日の記録を整理した。


 ロイエンのガレスへの非公式接触。

 王立書庫照会以外の私的連絡の確認要求。

 後援印候補情報を王太子府へ即時報告しなかった判断。

 フェルナーの「重大な判断」「独断」という指摘。

 その根拠資料として出した証拠隠滅関連記録。


 ルイスは書き終え、深く息を吐いた。


「今日は、何度も心臓が止まりそうでした」


「止まっていないなら大丈夫よ」


「閣下……」


 彼が情けない顔をすると、マルタが静かに茶を置いた。


「心臓が止まっていないうちにお茶をどうぞ」


「はい……」


 少しだけ笑いが起きる。


 レティシアは、窓の外を見た。


 雨は止んでいる。

 三つの火は、今夜も灯っている。


「追記を」


 ルイスが筆を取る。


 レティシアは静かに口述した。


 記録に残らない場所こそ、人は本音を滑らせ、刃を隠す。だからこそ、廊下の一言も、休憩中の問いも、誰が何を求めたのかを残す。帳場の外に出た言葉も、領地を揺らすなら記録の内側へ戻さねばならない。


 ルイスは丁寧に書いた。


 監査は、明日ひとつの形を取る。


 その前夜、帳場の灯りは遅くまで消えなかった。

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