第83話 証人の名は、盾の内側に
監査三日目の朝、ロイエン副使は、昨日よりも早く帳場へ現れた。
まだ町の朝仕事が完全には始まっていない時刻だった。
井戸には最初の桶が下ろされ、炊事場では火が入り、北口中継場の夜火は朝の光の中で細く揺れている。
帳場では、ルイスが昨日の監査記録を清書していた。
フェルナー監査官の質問。
ロイエン副使の発言。
豆札制度への確認。
小口前借り制度案への指摘。
市場での聞き取り。
証人保護手順への要求。
それらを一つずつ整理していたところへ、扉が叩かれた。
「朝早くから失礼」
入ってきたロイエンは、にこやかな顔をしていた。
けれど、その笑みは昨夜までとは少し違う。
柔らかい皮を一枚かぶせているだけで、内側の苛立ちは隠しきれていなかった。
「本日は、証人への聞き取りから始めたい」
ルイスの筆が止まった。
レティシア・エーヴェルシュタインは、机の向こうで静かに顔を上げる。
「フェルナー監査官は?」
「まだお支度中です。私が先に確認しておきます」
「では、フェルナー監査官がお揃いになってからにしましょう」
即答だった。
ロイエンの笑みが少し薄くなる。
「副使である私に、確認権限がないと?」
「あります」
「では」
「証人聞き取りは、監査官、副使、領内責任者、帳場記録官の立会いのもとで実施する。昨日お渡しした手順書にそう記しています」
ロイエンは、少しだけ首を傾けた。
「手順書は、そちらが作ったものです」
「はい」
「王太子府の監査手順ではありません」
「では、王太子府の証人保護手順をご提示ください。それと照合します」
帳場の中が、静かになった。
ロイエンは返答しなかった。
王太子府の監査に、一般的な聞き取り手順はある。
だが、この土地のように、証人が脅迫や借金、証拠破壊未遂に関わっている場合の具体的な保護手順までは、きっと整っていない。
少なくとも、ロイエンはそれを今ここで出せない。
レティシアは続けた。
「こちらの手順が不十分であれば、監査官立会いのもとで修正します。ですが、手順を外して証人へ直接接触することは認められません」
「認められない、ですか」
ロイエンの声が冷たくなる。
「あなたは、王太子府の監査を拒むおつもりか」
「いいえ。監査を守るために申し上げています」
「監査を守る?」
「証人が怯え、証言を変えたり、黙ったりすれば、監査そのものが歪みます」
レティシアは淡々と言った。
「証人を守ることは、こちらの都合だけではありません。監査の正確性にも関わります」
ロイエンが何か言い返そうとした、その時だった。
「その通りだ」
低い声が、帳場の入口から聞こえた。
フェルナー監査官だった。
彼は昨日と同じく無駄のない服装で、すでに身支度を終えている。
表情は相変わらず読みにくいが、少なくとも眠たげではない。
「証人聞き取りは、正式に行う。ロイエン副使、先走るな」
ロイエンは、一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに笑みを戻す。
「失礼。少しでも監査を効率的に進めたいと思いまして」
「効率より正確性だ」
フェルナーは短く返した。
その一言で、朝の小さな攻防は終わった。
けれどレティシアはわかっていた。
ロイエンは、今ので引いたわけではない。
次の角度を探すだけだ。
午前、正式な証人聞き取りが始まった。
最初に呼ばれたのは、マイゼルだった。
旧代官所で下級書記をしていた男。
王都商務院印付き書簡の分離保管を知りながら黙っていた者。
今は帳場の監視下で古記録の照合を手伝っている。
彼は部屋に入ってくるなり、ロイエンを見て顔色を悪くした。
王都の役人。
その存在だけで、かつての上役たちを思い出すのだろう。
レティシアは、彼に椅子を示した。
「座って」
マイゼルは小さく頭を下げ、椅子に腰を下ろした。
ルイスは記録官として横に座る。
ディルクは扉近くに立ち、フェルナーとロイエンは向かい側へ。
聞き取り開始時刻。
出席者。
目的。
証人名。
保護理由。
すべて記録する。
フェルナーが最初に問うた。
「旧代官所時代、商務院印付き書簡を通常記録から分けて保管したと証言しているな」
「はい」
「誰の命令だ」
「旧代官付きの書記長です」
「理由は聞いたか」
「いいえ。……ただ、“通常の鉱山記録と混ぜるな”と」
「書簡の中身を見たか」
「一部は。すべてではありません」
フェルナーの質問は短い。
答えを誘導しない。
マイゼルは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
だが、ロイエンが口を開いた瞬間、その肩がまた強張った。
「あなたは、命じられたとはいえ、不審な記録分離に関わっていた」
「……はい」
「それを今になって話したのは、レティシア様に罪を軽くしてもらうためでは?」
ルイスの筆が止まりかける。
レティシアは黙っていた。
これは、来ると思っていた問いだ。
マイゼルは唇を震わせた。
「それは……」
「保護され、帳場で仕事を与えられ、今はレティシア様の管理下にいる。ならば、彼女に都合のよい証言をする動機がある」
ロイエンは柔らかく言った。
「違いますか?」
部屋の空気が、重く沈む。
マイゼルは視線を落とした。
「……あります」
ルイスが顔を上げた。
ロイエンの口元がわずかに上がる。
だがマイゼルは続けた。
「あります。私は、罰を軽くしてほしいと思っています。怖いです。今でも」
彼の声は震えていた。
「でも、だから全部が嘘になるなら……私はもう何も話せません」
ロイエンの目が細くなる。
マイゼルは、膝の上で手を握りしめた。
「私は黙っていました。変だと思っても黙っていました。それは私の罪です。でも、私が黙っていたことと、旧書記長が書簡を分けろと命じたことは、別です」
ルイスの筆が、再び動き出した。
マイゼルは顔を上げた。
「私が自分を守りたくて話しているかどうかは、記録と照合してください。私の言葉だけで信じないでください」
その言葉に、フェルナーの目が少し動いた。
レティシアは静かに息を吐く。
よく言った、とは言わない。
ここで褒めれば、かえって証言に色がつく。
ただ、彼が自分の弱さごと証言したことは大きかった。
ロイエンは、笑みを消さないまま言った。
「つまり、あなた自身も信用できないと認めるのですね」
「はい」
マイゼルは、今度は逃げなかった。
「だから、私の記憶だけでなく、薬草箱にあった下書き、旧書記長の筆跡、封筒、商務院印と一緒に見てください」
フェルナーが短く言った。
「妥当だ」
ロイエンの頬がわずかに引きつった。
午前の聞き取りは、マイゼルだけで終わった。
時間がかかったからではない。
レティシアが、一人ずつ区切ると決めたからだ。
証人を並べて圧をかけるような聞き取りはしない。
一人の言葉を、一人分の重さで扱う。
昼前、帳場を出たマイゼルは、廊下で足を止めた。
レティシアが近づくと、彼は深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「何に対して?」
「途中で、止めずに聞かせてくださったことに」
「あなたが答える場だったからよ」
マイゼルは、少しだけ苦い顔で笑った。
「怖かったです」
「でしょうね」
「でも、話せました」
「ええ」
「……まだ、思い出せることがあれば話します」
「お願い」
彼が去ったあと、ルイスが小さく言った。
「強くなりましたね、マイゼルさん」
「強くなったというより、弱いまま逃げなかったのよ」
レティシアは答えた。
「それは、たぶん強さの一種だわ」
午後は、ニコの聞き取りだった。
証拠棚の封印を剥がそうとした若い荷運び。
彼は、部屋へ入ってくる時から顔が青かった。
ガレスが立会いとして同席する。正式な証人保護手順の中で、町側立会人として認められた形だ。
フェルナーは、その点を記録に入れた。
「町側立会人、ガレス。理由は、証人が荷運び組所属であり、聞き取り安定のため」
ロイエンは少し冷ややかに見ていたが、今朝のやり取り以降、手順そのものには強く口を出さなくなっていた。
ニコは、細目の質屋から借金をしていたことを話した。
母親の薬代。
最初は銅貨三枚。
利子で十二枚。
証拠棚の封印札を剥がせば帳消しにすると言われたこと。
失敗すれば母の寝台と毛布を持っていくと脅されたこと。
ロイエンが問う。
「あなたは、金で動いた」
ニコは俯いた。
「……はい」
「では、また金を積まれれば動くのでは?」
ガレスの拳が膝の上で固まる。
ニコは、唇を噛んだ。
「わかりません」
その答えに、ロイエンの目が光る。
「わからない?」
「はい」
ニコは震える声で続けた。
「怖いです。母さんをまた脅されたら、絶対に大丈夫だって言い切れません」
ルイスは、思わず顔を上げた。
ニコは逃げなかった。
言い切れない自分を、隠さなかった。
「でも」
ニコは顔を上げる。
「だから今は、ひとりで荷を触らないことになっています。証拠棚にも近づけません。賃金の一部は帳場で母の薬代に回してもらっています」
「つまり、管理されている」
ロイエンが言う。
「はい」
ニコは頷いた。
「今の俺は、管理されていた方がましです。ひとりで隠してた時より」
その言葉は、部屋に静かに落ちた。
フェルナーは、しばらくニコを見ていた。
「細目の質屋の顔は覚えているか」
「はい。全部は無理です。でも、目と声は」
「後で似顔と特徴記録を確認する」
「はい」
ロイエンはなおも食い下がる。
「あなたは、レティシア様に救われた恩がある。だから、彼女に都合のよい話をする可能性がある」
ニコは、少し戸惑った顔をした。
それから、正直に答える。
「閣下に恩はあります。でも、俺が封印を剥がそうとしたのは本当です」
「……」
「それがなかったことにはなってません。帳場にも残ってます」
ニコは膝の上の手を握った。
「俺に都合のいい嘘なら、そこを消してほしいです」
ロイエンは、何も返さなかった。
フェルナーが淡々と言う。
「証言と記録が一致している。次」
その短い言葉で、ニコの聞き取りは終わった。
帳場の外へ出たニコは、壁にもたれて大きく息を吐いた。
ガレスが横に立つ。
「よく言ったな」
「膝、震えてる」
「見りゃわかる」
「笑うなよ」
「笑わねえよ」
少しの沈黙。
ニコが小さく言った。
「俺、まだ信用されてないよな」
「当たり前だろ」
ガレスは即答した。
ニコは顔を伏せた。
だがガレスは続ける。
「でも、戻れる道はあるってことだろ。なかったら、今ここにいねえ」
ニコは何も言わなかった。
ただ、何度も頷いた。
夕方、フェルナーはその日の聞き取りを終えると言った。
ロイエンは不満そうだったが、強く反対はしなかった。
彼の攻め口は二度、証人自身の言葉でかわされた。
完璧な証人ではない。
むしろ、二人とも弱い。
だが、その弱さを隠さないことで、逆に証言の輪郭が見えた。
夜、帳場でレティシアたちは聞き取り記録を整理した。
ルイスは、いつもより少しだけ手が重そうだった。
「今日は、胸が痛くなる監査でした」
「ええ」
レティシアは頷いた。
マイゼルの弱さ。
ニコの恐怖。
どちらも、きれいな話ではない。
だが、きれいな証言だけを並べたら、それこそ嘘になる。
ディルクが低く言った。
「ロイエンは、証人の動機を攻めてきました」
「ええ。予想通りね」
「次は、証人同士の食い違いを突くかもしれません」
「準備しましょう」
ルイスが顔を上げる。
「証言の食い違い表を作りますか」
「ええ。一致点だけではなく、食い違いもまとめて」
「食い違いも出すのですか?」
「隠せば、そこを突かれるわ」
レティシアは静かに言った。
「人の記憶は完全ではない。それを前提に、どこが一致し、どこが曖昧かを分けるの」
ルイスは深く頷いた。
「わかりました」
その日の記録の最後に、レティシアは口述した。
弱い証人は、弱いまま証言する。恐れ、保身、後悔、恩義。そうした揺れを消してしまえば、証言はきれいになる代わりに、人間ではなくなる。守るべきは、完璧な言葉ではない。揺れながらも嘘から離れようとする声である。
ルイスは、その一文を書きながら、少しだけ目を伏せた。
外では雨が降り始めていた。
中継小屋の三つの火は、雨の中で小さく揺れている。
それでも、火は消えていなかった。




