第82話 穴に名をつける帳場
監査二日目の朝は、雨の匂いがした。
空はまだ降っていない。
けれど、北の山並みは灰色に沈み、町の者たちは誰に言われるでもなく、荷へ布をかけ始めていた。
王太子府の監査使が来ている。
その事実は、町の空気を少し固くしていた。
それでも井戸は回る。
豆は量られる。
鍛冶場では炉に火が入る。
中継小屋では、修理途中の薪置き場に新しい屋根板が打ちつけられている。
レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓からその様子を見ていた。
昨日、ロイエン副使は言った。
――辺境で独自の権力基盤を作っているようにも見える。
火事で人が集まったことすら、そう言い換えた。
ならば今日も、彼は同じことをするだろう。
豆札を見れば、民を管理していると言う。
小口前借り制度案を見れば、私的な金融支配だと言う。
証人保護を見れば、証言を隠していると言う。
来る刃の形がわかっているなら、受ける準備はできる。
「閣下」
ルイスが紙束を抱えて入ってきた。
目の下は相変わらず薄く黒い。
けれど、昨日より顔は落ち着いている。
「豆札制度の記録、小口前借り制度案、借金聞き取り記録の公開範囲を分けました」
「見せて」
レティシアは受け取り、一枚ずつ確認する。
豆札制度は、公開可能。
改ざん未遂記録も、名前を伏せれば公開可能。
小口前借り制度案は、まだ仮案。利用者名は出さない。
借金聞き取り記録は、証言者保護のため原則非公開。概要のみ提示。
「いいわ」
レティシアは頷いた。
「穴があるところには、穴があると書いてある」
「はい。未確定、仮運用、要検討……正直、弱く見えそうで怖いですが」
「弱く見えるかもしれないわね」
「……はい」
「でも、弱点を隠していないことは強さにもなる」
ルイスは紙束を抱え直した。
「昨日、フェルナー監査官もそこを見ていました」
「ええ」
「あの方は、敵なのでしょうか」
素朴な問いだった。
レティシアは少しだけ考える。
「敵ではないかもしれない。でも味方でもない」
「では?」
「監査官よ」
ルイスが瞬きをした。
「そのままですね」
「そのままが一番難しいのよ」
そこへ、扉が叩かれた。
入ってきたのはフェルナー監査官とロイエン副使だった。
フェルナーは昨日と同じく地味な装いで、無駄な表情がない。ロイエンは柔らかな笑みを浮かべているが、その目はすでに帳場のどこかの隙を探していた。
「本日は、物資配分と領内貸付に関する記録を確認したい」
フェルナーが言った。
「準備しています」
レティシアはルイスへ視線を向ける。
ルイスは閲覧記録を差し出した。
「本日の閲覧開始時刻と対象項目の記入をお願いします」
ロイエンが小さく笑う。
「昨日から思っていましたが、ずいぶん形式にこだわる」
「昨日から同じく申し上げますが、記録保全のためです」
ルイスの声は、少し震えたが、最後まで通った。
ロイエンは筆を取り、名前を書く。
「では、その形式とやらを見せていただこう」
最初に出されたのは、豆札制度の資料だった。
四角札。
三角札。
丸札。
色分け。
紐の通し方。
町内優先、炊事場行き、外向け。
フェルナーは黙って読み進める。
「食料の町内優先量を定めているのか」
「はい」
レティシアが答える。
「外へ出せば高く売れる豆もありますが、すべて外へ流すと町内の食が細ります。荷運び、井戸番、修理作業、鍛冶場の労働に支障が出るため、一定量を町内へ回しています」
ロイエンがすぐに口を挟んだ。
「つまり、市場取引に領主が介入している」
「物資配分の調整です」
「言い方の違いでは?」
「いいえ」
レティシアは静かに返した。
「買い上げ価格、配分量、炊事場への搬入量、外向け量を記録しています。豆売り側だけに利益が偏らないよう、公開記録日でも説明しました」
「公開記録日」
ロイエンは、その言葉を拾う。
「領民に帳場を見せていると?」
「一部を、代表者に」
「領主が民の顔色をうかがっているようにも見えますな」
ルイスの指が紙の端を掴む。
レティシアは動じなかった。
「民の腹に関わる物資です。顔色を見る必要はあります」
ロイエンの笑みが薄くなる。
「ずいぶん率直だ」
「腹が空いている人間の顔色を見ずに食料配分を決める方が、私には不自然です」
フェルナーが資料から目を上げた。
「豆札改ざん未遂とある」
「はい」
「詳細を」
ルイスが別紙を差し出す。
「丸札の紐を付け替え、外向け豆を町内用に紛れ込ませようとした未遂です。発見後、札の形、色、紐通しの三重確認へ変更しました」
「犯人は?」
「特定中です。ただし、白蔦会系の混乱工作との関連を疑っています」
ロイエンが待っていたように笑う。
「便利な名ですね、白蔦会というのは。都合の悪いことをすべてそこへ押し込められる」
帳場が冷えた。
レティシアは、封印棚の方へ視線を向ける。
「白蔦会の関与は、すべて断定ではなく可能性として記録しています」
「可能性ばかりでは、監査には弱い」
「だから証拠棚があります」
レティシアは言った。
「空箱、焼け帳面、火災現場の焼印木片。証言、物証、現場記録。断定できないものは断定せず、照合中としています」
フェルナーが頷いた。
「そこは確認済みだ」
短い一言。
だが、ロイエンの追撃を一度止めるには十分だった。
次に出されたのは、小口前借り制度案だった。
この紙が出た瞬間、ロイエンの目が変わった。
「これは何ですかな」
「緊急小口前借り制度の仮案です」
レティシアは答える。
「薬代、葬儀、道具修理など、困窮により不審金貸しへ流れる者を減らすため、用途限定での小口支援を検討しています」
「領主が金を貸す?」
「正確には、賃金の前払い、または仕事による返済を前提とした緊急支援です。利子は取りません」
ロイエンは、明らかにそこを待っていた。
「利子を取らない。美しい話ですな。だが、見方を変えれば、領民を領主の借り手にする制度でもある」
ルイスが息を呑む。
レティシアは、少しだけ目を細めた。
「不審金貸しの利子で縛られ、証拠破壊を命じられた者が出ました」
「その話は昨日も聞きました」
「ならば、放置するわけにはいきません」
「それを王太子府に報告せず、独自制度として進める?」
「まだ仮案です」
「仮案という言葉が多い」
「実施していないものを実施済みとは書けません」
フェルナーが紙を見ながら問う。
「対象者の選定は?」
「帳場、町側立会人、責任者の三者確認を想定しています」
「返済不能の場合は?」
「労働能力、家族状況、病状などを見て、返済延期または一部免除も検討します。ただし、濫用防止のため記録は残します」
「制度化には、さらに詰めが必要だな」
「その通りです」
レティシアは即座に認めた。
ロイエンが口を開く前に、彼女は続ける。
「だから仮案です。未完成であることも記録しています」
フェルナーは紙へ目を戻した。
「未完成の制度を、未完成と書いている点は評価できる」
ロイエンが苛立ちを隠さず言った。
「監査官殿、甘くはありませんか。これは領主による私的な貸付網の始まりにも見えます」
「見えるかどうかではなく、記録で見る」
フェルナーは淡々と返した。
「現時点で実施されていない仮案だ。問題点は指摘するが、実施済みの不正として扱う段階ではない」
ロイエンは黙った。
だが、その目はレティシアを見ていた。
次は別の角度で来る。
そう告げる目だった。
午前の監査は、そこで一度区切られた。
フェルナーは昼食前に、町の市場を見たいと言った。
ロイエンも同行する。
市場へ出ると、空気はすぐに変わった。
町の者たちは、王都の監査使を珍しそうに見る。
けれど、前日のように完全に固まってはいない。
豆売りの女主人は、露店の前で堂々と立っていた。
「豆札を見たい」
フェルナーが言うと、女主人は顎で袋を示した。
「どうぞ。触るなら一声かけてくださいよ。札がずれると後でこっちが困るんで」
ロイエンが眉を上げる。
「監査官に向かって、ずいぶんな口の利き方だ」
女主人は少しも怯まなかった。
「豆に向かう時は、王都の方も町の者も同じです。札をずらした人がいたら困ります」
ヨハンが横で咳払いをした。
笑いをこらえている。
フェルナーは、特に気分を害した様子もなく札を見た。
「四角、三角、丸。紐の通し方も違う」
「ええ。前に紐だけ付け替えられかけたんでね」
女主人はそう言って、帳場の方を指した。
「詳しい記録は帳場です」
レティシアは内心で頷いた。
ちゃんと覚えている。
知らないこと、記録が必要なことは帳場へ。
それでいい。
ロイエンは、今度はヨハンへ視線を向けた。
「あなたは荷車屋か」
「はい」
「銀狐商会との取引で、仕事は増えたか」
ヨハンは少し緊張した。
だが、すぐに答える。
「増えた分もあります。面倒も増えました」
「面倒?」
「札を見て、帳場を通して、外の荷車と順番を合わせる。昔より手間は増えました」
「不満か?」
ロイエンの声が少し甘くなる。
誘導だ。
ヨハンは一瞬迷い、そして言った。
「不満はあります」
ルイスが遠くで顔を強張らせる。
しかしヨハンは続けた。
「だから評議で言います。帳場に記録があるんで」
ロイエンの目が細くなる。
「ここで言ってもいいのでは?」
「俺、数字まで覚えてないんで」
ヨハンは頭をかいた。
「変なこと言うより、帳場で見た方が早いです」
豆売りの女主人が横から笑った。
「珍しく賢いね」
「珍しくは余計だ」
市場に小さな笑いが起きる。
ロイエンは笑わなかった。
フェルナーは、静かにそのやり取りを見ていた。
市場視察の最後に、ガレスが声をかけられた。
「お前が荷運び組をまとめているのか」
フェルナーの問いに、ガレスは慌てて首を振った。
「まとめてるっていうか、最近そういう役を振られただけで」
「仕事はどう変わった」
「前より、考えることが増えました」
「不満は」
「あります」
ガレスも即答した。
ロイエンが少し期待した顔をする。
だがガレスは、眉を寄せながら続けた。
「でも、何が不満なのか言えるようにはなりました」
「どういう意味だ」
フェルナーが問う。
「前は、ただ何となくきついとか、損してる気がするとかでした。でも今は、札が見にくいとか、夜番の順番が偏ってるとか、荷車代が少ないとか、言い方が決まるというか」
ガレスは自分でもうまく言えないのか、少し困ったように笑った。
「穴に名前がつく感じです」
ルイスが、その言葉に反応した。
レティシアも、ガレスを見た。
フェルナーはしばらく黙っていた。
そして短く言う。
「よい表現だ」
ガレスは目を丸くした。
「え?」
「穴に名前がつけば、埋める手順を考えられる」
フェルナーはそう言って、レティシアへ視線を戻した。
「この町は、それを始めているのだな」
レティシアは静かに答えた。
「まだ始めたばかりです」
「そうだろうな」
フェルナーは頷いた。
「始めたばかりのものは、不格好だ」
ロイエンがすぐに言った。
「不格好な制度を監査官が褒めるのですか」
「褒めてはいない。見ている」
フェルナーの声は、やはり平坦だった。
「不格好であることと、不正であることは違う」
ロイエンは、それ以上言わなかった。
午後、帳場へ戻ると、ロイエンは別の資料を求めた。
「証人保護手順を確認したい」
来た、とルイスは思った。
リュカ、ニコ、マイゼル。
借金を話した者たち。
この線を崩されれば、白蔦会調査全体が揺らぐ。
レティシアは、あらかじめ用意していた概要資料を出した。
「証人名は伏せた概要です」
「名前を伏せたものでは確認になりません」
「必要がある場合は、個別申請を出してください。証人保護、聞き取り目的、質問項目、立会人を記録したうえで調整します」
ロイエンは冷たく笑った。
「ずいぶんと壁が多い」
「壁ではなく、手順です」
「手順で隠すこともできる」
「手順なしに晒すこともできます」
レティシアの声は静かだった。
「私は後者を避けたいだけです」
フェルナーは概要資料を読んだ。
「証人に脅迫や借金を抱える者が含まれるのか」
「はい」
「なら、保護手順は必要だ」
ロイエンが口を開きかけたが、フェルナーは続けた。
「ただし、監査上、証言の存在だけでは弱い。物証との照合表を出せ」
「準備しています」
ルイスがすぐに差し出した。
空箱。
焼け帳面。
白蔦焼印木片。
油布片。
豆札改ざん未遂。
小金貸し聞き取り概要。
証言と物証が、どこで重なるかを示す表だった。
フェルナーはそれを見て、初めてわずかに眉を上げた。
「よく作ったな」
ルイスは、思わず背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
ロイエンは、面白くなさそうに表を見る。
「見事に整いすぎている」
「整えていなければ、雑だとおっしゃるのでは?」
レティシアが言うと、ロイエンは彼女を見た。
「あなたは、本当に言葉を選ばない」
「選んでいます」
「これで?」
「ええ。かなり」
帳場の空気が、一瞬だけ妙に緩みかけた。
ルイスが咳払いでごまかす。
マルタは、いつもの静かな顔のまま茶を置いた。
監査二日目が終わる頃、ロイエンは明らかに苛立っていた。
彼は穴を探している。
穴はある。
だが、その穴にはすでに名前がついている。
未確定。
仮案。
要照合。
証人保護。
立会い必須。
改善中。
穴を不正に変えるには、もう一段強い力が要る。
その力を、ロイエンはまだ出していない。
夜、監査使たちが部屋へ下がったあと、帳場には疲れた空気が残った。
ルイスは椅子に座り込み、深く息を吐いた。
「今日は……昨日より疲れました」
「よく耐えたわ」
レティシアが言うと、彼は少しだけ笑った。
「市場の皆の方が、ずっと強かったです」
「ええ」
ディルクが低く言う。
「ロイエンは、次に証人へ直接触れようとするでしょう」
「そうね」
「あるいは、証拠の真正性を崩しに来る」
「どちらも準備するわ」
レティシアは今日の記録を見た。
フェルナーが見たもの。
ロイエンが言ったこと。
市場の者たちの答え。
ガレスの言葉。
穴に名前がつく感じ。
それは、この町の今をよく表していた。
完璧ではない。
穴だらけだ。
でも、もう穴を穴のまま放置しない。
名をつけ、記録し、次の仕事にする。
レティシアは、最後の一文を口述した。
「追記」
ルイスが筆を取る。
不正とは、穴があることではない。穴を隠し、誰かの都合で別の名に変えることである。穴に正しい名をつけられる町は、まだ弱くとも、簡単には奪われない。
外では、三つの火が静かに揺れていた。
監査はまだ終わらない。
だが二日目、帳場は少しだけ王都の圧に慣れ始めていた。




