第79話 王太子府の監査使
王都からの正式な先触れが届いたのは、翌日の昼過ぎだった。
その時、レティシア・エーヴェルシュタインは中継小屋にいた。
火災から数日。
焦げた西側の壁は仮板に替えられ、薪置き場は三つに分けられつつある。まだ完全ではないが、少なくとも昨夜は三つの火が並んで灯った。
弱い火だった。
けれど、三つあった。
その事実だけで、町の者たちの表情は少し違っていた。
「そこ、薪を積みすぎるな。上までぎっしり積んだら、また燃えた時に逃げ道がねえ」
ガレスが若い荷運びに声を飛ばす。
「でも、少ないと夜に足りませんよ」
「だから三つに分けるんだろ。ひとつに詰め込むな」
横でヨハンがにやりと笑った。
「お前、もう完全に火の番頭だな」
「うるさい」
「いいじゃねえか。出世だぞ」
「火事で出世したくねえよ」
二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。
レティシアは、その笑いを聞きながら修理状況を確認していた。
油の染みた土は削り取った。
焼けた木片も、証拠として一部を保全した。
白蔦焼印の木片は、すでに封印三号として帳場の証拠棚に置かれている。
あとは、新しい薪置き場の屋根と、馬を落ち着かせるための柵。
少しずつ、元に戻っている。
いや、戻しているのではない。
作り直している。
そう思った時だった。
南道の方から、馬の蹄音が聞こえた。
速い。
町の者たちが顔を上げる。
やがて、砦の兵が一人、息を切らせて駆けてきた。
「閣下!」
「何?」
「王都から正式な先触れです。王太子府の印があります」
中継小屋の周囲から、さっと音が引いた。
さっきまで冗談を言っていたヨハンも、薪を抱えたまま固まっている。
ガレスは無意識に手を拭った。
豆売りの女主人は、離れた場所で大鍋の蓋を持ったまま、じっとこちらを見ている。
王太子府。
その名は、この土地にとってまだ重かった。
レティシアは一拍だけ置き、頷いた。
「帳場へ戻ります」
ディルク・ヴァルゼンはすでに動いていた。
「中継小屋の作業は続けろ。火の周りの手順は変えるな。王都の使者が来たからといって、薪は勝手に積み上がらない」
その言葉に、張りつめた空気が少しだけ戻る。
ヨハンが小さく息を吐いた。
「そりゃそうだ」
ガレスも頷く。
「続けます」
レティシアは彼らを見た。
「お願い。火を止めないで」
その一言で、彼らは再び手を動かし始めた。
帳場へ戻ると、王太子府の使者はすでに待っていた。
若い文官だった。
旅装の上から王太子府の紋章入りの肩掛けをしている。顔には疲れがあったが、それ以上に、王都から来た者特有の硬さがある。
彼はレティシアを見ると、深く一礼した。
「レティシア・エーヴェルシュタイン様。王太子府より、正式な監査通達をお届けに参りました」
ルイスの顔が青くなる。
マルタは静かに立っているが、目だけが厳しい。
ディルクは一歩下がった場所で、使者の持つ筒を見ていた。
レティシアは椅子に座らず、立ったまま応じた。
「受け取ります」
封筒は厚かった。
封蝋には、王太子府の正式印。
そこに、別の小さな副印が重ねられている。
監査局の印だ。
封を切り、文面を開く。
最初の数行を読んだだけで、内容はほぼ予想通りだった。
――北方旧所領における鉱山収益管理について。
――銀狐商会との試験取引について。
――王立書庫および商務院記録照合への協力状況について。
――領内帳場による物資配分および証拠保全状況について。
王太子府は、監査使を派遣する。
到着予定は三日後。
監査使の筆頭は、王太子府監査官ユリウス・フェルナー。
副使として、バルド・ロイエン。
その名を見た時、ディルクの目がわずかに細くなった。
「ロイエン……」
レティシアは顔を上げる。
「知っているの?」
「ヴァイスナー家と近い文官です。表向きは王太子府所属ですが、エドガル卿の周辺で何度か名を聞いたことがあります」
やはり。
ルイスが紙を覗き込み、声をこわばらせる。
「つまり、監査使の中に……」
「ええ」
レティシアは静かに言った。
「向こうの目が入っている可能性が高いわ」
王太子府の使者は、居心地悪そうに視線を落としていた。
彼は、おそらく中身の重さを知らない。
ただ命じられて運んできただけだ。
レティシアは使者へ向き直る。
「到着予定は三日後で間違いありませんか」
「はい。天候に大きな乱れがなければ」
「人数は?」
「監査官二名、書記官三名、随行兵六名、荷役二名の予定です」
「宿泊は砦内を希望?」
「通達では、領主館相当の施設にて受け入れを、と」
ルイスが一瞬だけ顔を引きつらせた。
この辺境に、王都の者が想像するような領主館などない。
砦の一角を整えて使っているだけだ。
だが、レティシアは表情を変えなかった。
「受け入れます。ただし、中継小屋火災の修理中につき、宿泊設備は簡素になります。その旨、先にお伝えください」
使者は少し驚いたように顔を上げた。
「よろしいのですか」
「何が?」
「その……王太子府の監査使を、簡素な設備で」
「今この土地にあるもの以上は出せません。虚飾で飾れば、監査の意味が歪みます」
使者は返す言葉を失ったようだった。
マルタが、横でほんのわずかに頷いた。
こういう時の彼女は頼もしい。
王都式の見栄に合わせて無理に部屋を整えれば、その分、修理や炊事場や夜番にしわ寄せがいく。
レティシアはそれをしない。
「返書を出します」
レティシアはルイスへ視線を向けた。
「はい」
「監査使の到着を受け入れること。現在、中継小屋火災後の応急修理中であること。監査対象の帳簿、銀狐商会取引記録、鉱山収益記録、王立書庫照合関連記録は、確認可能な形で準備すること。ただし、証人保護および進行中の不正調査に関わるものは、必要な手続きに従って開示範囲を判断すること」
ルイスの筆が走る。
使者は、その文面を聞いて少し困惑していた。
おそらく、もっと狼狽すると思っていたのだろう。
王太子府の名を出されれば、辺境側が慌てて媚びるか、あるいは反発するか。
どちらかを想像していたのかもしれない。
だがレティシアは、どちらもしない。
受け入れる。
ただし、こちらの手順で。
「使者殿」
「はい」
「お疲れでしょう。休憩を取ってから戻られますか」
「よろしいのですか」
「もちろん。炊事場に温かい汁があります」
使者は一瞬戸惑い、それから深く頭を下げた。
「ありがたく」
彼が退いたあと、帳場には張りつめた沈黙が残った。
最初に口を開いたのはルイスだった。
「本当に来るのですね」
「ええ」
「三日後……三日で足りますか」
「足りるように準備するわ」
ディルクが低く言う。
「監査官ユリウス・フェルナーは、堅物で知られています。少なくとも、表向きは手順を重んじる男です」
「なら、まだ話ができる可能性はある」
「問題は副使のロイエンです」
「エドガルの息がかかっているなら、こちらの揚げ足を探すでしょうね」
「あるいは、揚げ足を作る」
レティシアは頷いた。
「だから、こちらの手順を徹底する」
彼女は机の上に監査通達を置いた。
「まず、監査対応の一覧を作ります」
ルイスがすぐ筆を構える。
「項目をお願いします」
「一つ目。銀狐商会との試験取引記録。契約条件、数量、対価、配分、町荷車屋の参加記録」
「はい」
「二つ目。鉱山収益記録。過去記録との照合中であること、欠落分、不一致分、現在の採掘量」
「はい」
「三つ目。王立書庫とのやり取り。正式照会文と返書。ただし、第二王子殿下の私信に近いものは別保管」
「別保管ですね」
「四つ目。証拠棚。封印一号から三号まで。空箱、焼け帳面、火災証拠。見せる場合は、必ず立会人をつける」
ディルクが頷く。
「私か、指定した兵を置きます」
「五つ目。証人保護。リュカ、ニコ、マイゼル、借金聞き取りの者たち。監査使が直接接触する場合は、こちらの立会いなしでは認めない」
ルイスが顔を上げる。
「拒めますか」
「拒むのではなく、手続きを求めるのよ」
レティシアは答えた。
「証人保護のため、聞き取りは帳場記録官および領内責任者の立会いのもとで実施する。そう書けばいい」
ディルクが少しだけ笑った。
「監査官相手に、手続きで返すわけですね」
「手続きで来るなら、手続きで迎えるわ」
その言葉に、ルイスの背筋が少し伸びた。
怖さは残っている。
けれど、やるべきことが見えれば、人は動ける。
午後には、町の代表者を集めた。
豆売りの女主人、ヨハン、ガレス、鍛冶屋の親父、炊事長、井戸番の兵、蹄鉄屋の主人。
中継小屋火災の修理で疲れている顔ぶれだ。
それでも、呼ばれれば来た。
レティシアは隠さなかった。
「三日後、王太子府から監査使が来ます」
ざわめきが起きた。
豆売りの女主人が眉をひそめる。
「王太子府って……つまり、王都のお偉い方が、ここへ?」
「ええ」
「何を見に?」
「銀狐商会との取引、鉱山収益、帳場記録、王都との照合状況」
ヨハンが不安げに言う。
「俺たち、何かまずいことしましたか」
「いいえ」
レティシアは即答した。
「だからこそ、記録を整えるの」
鍛冶屋の親父が低く笑う。
「まずいことがなくても、まずいことにされるかもしれねえって顔だな」
「ええ」
その正直な肯定に、場が少し沈む。
けれど、レティシアは続けた。
「監査使には、必要なものを見せます。ただし、見せてはいけないものは見せません。皆にも協力してほしい」
「何をすればいい?」
ガレスが問う。
「普段通りに仕事をして」
彼は拍子抜けしたような顔をした。
「普段通り、ですか」
「ええ。王都の監査使が来たからといって、急に見栄を張らない。隠さない。変に喋りすぎない。聞かれたことに、知っている範囲で答える。知らないことは知らないと言う」
豆売りの女主人が腕を組む。
「そりゃ、簡単なようで難しいね」
「だから今言っているの」
ヨハンが頭をかいた。
「俺、緊張して変なこと言いそうです」
「なら、“帳場に聞いてください”と言えばいいわ」
「それでいいんですか」
「いいの。無理に答えようとして間違えるよりずっといい」
ガレスが小さく頷いた。
「知らないことは帳場へ」
「ええ」
豆売りの女主人が、ふっと笑った。
「最近、本当に何でも帳場だね」
「不満?」
「いいや。昔は、何でも誰かの懐に消えてたからね。帳場に行くなら、まだましさ」
鍛冶屋の親父も頷く。
「王都の奴が来るなら、炉もいつも通りにしておく。わざと綺麗にしたら、かえって気味が悪い」
「ええ。いつも通りで」
レティシアは皆を見た。
「ただし、証拠棚や借金聞き取り、白蔦会に関わる話は、勝手に話さないで。相手が聞いてきたら、帳場へ案内すること」
場の空気が引き締まる。
「誰かを守るためです」
その一言で、皆は頷いた。
リュカ。
ニコ。
マイゼル。
借金を打ち明けた者たち。
名前を出さなくても、守るべき人の存在は伝わっている。
夕方、王都へ返書が出された。
王太子府の監査使を受け入れる。
資料は準備する。
宿泊は簡素だが対応可能。
証人保護および進行中調査については、領内手続きに基づく立会いを求める。
同時に、王立書庫へも短い報告を送った。
王太子府監査使の到着予定。
副使バルド・ロイエンの名。
証拠棚および証人保護体制の準備。
ルシアンへの直接の返書は、出さなかった。
今は、下手に動かせない。
彼が警告をくれたことは感謝している。
だが、その線を相手に見せてはならない。
夜、帳場には遅くまで灯りが残った。
ルイスは資料束を分類し、マルタは来客用の寝具を確認し、ディルクは警備配置を見直している。
レティシアは、監査対応一覧の最後に目を通した。
銀狐商会取引記録。
鉱山収益記録。
王立書庫照合文。
証拠棚封印一号から三号。
証人保護手順。
中継小屋火災記録。
公開記録日議事録。
豆札制度。
小口前借り制度案。
並べると、この土地が歩いてきた道が見えた。
どれも完璧ではない。
むしろ、穴だらけだった。
けれど、その穴を隠さず、埋めようとしてきた記録だった。
ルイスが低く言う。
「閣下」
「なに?」
「監査使は、この記録をどう見るでしょうか」
「人によるわ」
「フェルナー監査官は?」
「手順を見るでしょうね」
「ロイエン副使は?」
「穴を見るでしょう」
ルイスの顔が強張る。
レティシアは静かに続けた。
「でも、穴を見られること自体は怖くないわ。問題は、穴を利用して嘘を作られること」
「だから、先にこちらで穴に名前をつける」
「そう」
ルイスは手元の資料を見た。
欠落。
照合中。
未確定。
仮措置。
要改善。
以前なら弱点に見えた言葉たちが、今は盾にもなっている。
隠していない、という盾だ。
その夜の記録に、レティシアはこう口述した。
監査とは、完全な土地を見せる場ではない。何が欠け、何を直し、誰を守りながら進んでいるのかを示す場である。穴を隠せば罠になる。穴に名をつければ、次の仕事になる。
窓の外には、三つの火が見えた。
まだ仮の火だ。
風が強ければ揺れる。
けれど、消えていない。
王太子府の監査使は三日後に来る。
白蔦会が火で消せなかったものを、今度は王都の名で消しに来るかもしれない。
それでもレティシアは、帳場の灯りを落とさなかった。




