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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第78話 エドガル、動く

 エドガル・ヴァイスナーは、王都で最も嫌う音がある。


 怒号ではない。

 剣戟でもない。

 民衆のざわめきでもない。


 紙をめくる音だ。


 薄い紙が一枚、また一枚とめくられていく音。

 書庫の奥で、誰かが古い記録を掘り返している音。


 それは、彼にとって剣より厄介だった。


 剣なら防げる。

 怒号なら受け流せる。

 噂なら別の噂で塗り潰せる。


 だが、紙は違う。


 古い紙は、黙って待つ。

 誰かが見つけるまで、息を殺して残っている。

 そして一度見つかれば、過去の言い訳を今日の机の上へ引きずり出してくる。


 王都ヴァイスナー家分邸の書斎で、エドガルは報告書を握り潰しかけていた。


 白蔦会の仮倉庫。


 北方旧所領の地図。

 香油瓶。

 王都紙。

 白蔦の小印。

 中継火に関する紙片。

 そして――


 エドガル様確認済。


 馬鹿な。


 彼は声には出さなかった。


 誰がそんな紙片を残した。

 誰が、そんな杜撰な言葉を書いた。


 あれは自筆ではない。

 もちろん、自筆であるはずがない。

 だが問題はそこではなかった。


 自筆ではないから無罪、などという甘い話ではない。

 第二王子ルシアンは、そういう男ではない。


 あの地味な王子は、紙片一枚で人を斬らない。

 紙片の周囲にある記録を集め、物の流れを並べ、関わった人間の足跡を拾い、最後に逃げ道を塞ぐ。


 そういう相手だ。


 そして厄介なことに、辺境にも同じことをする女がいる。


 レティシア・エーヴェルシュタイン。


 王太子の婚約者だった女。

 切り捨てられ、北方旧所領へ送られたはずの女。

 王都の誰もが、彼女はそのまま沈むと思っていた。


 少なくとも、エドガルはそう思っていた。


 だが彼女は沈まなかった。


 むしろ、泥の中から帳場を作り、町を動かし、銀狐商会を規則で縛り、白蔦会の符丁を拾い、王都へ証拠を送り続けている。


 あの女は、恨みで叫ばない。

 泣き言も言わない。

 ただ、記録を整える。


 それが、腹立たしいほど厄介だった。


「エドガル様」


 古参書記が控えめに声をかけた。


 エドガルは報告書を机に置く。


「ベルナールは」


「まだ追跡中です。西へ向かった馬車が有力ですが、途中で足取りが分かれました」


「逃がすな」


「はい」


「ただし、死なせるな」


「承知しております」


 古参書記の声は固い。


 エドガルは窓際へ歩いた。

 庭には、よく手入れされた白い蔦が壁を這っている。ヴァイスナー家の古い意匠に合わせ、庭師が季節ごとに整えているものだ。


 その白さが、今日ばかりは妙に目障りだった。


「王立書庫は、どこまで掴んでいる」


「確かなところは。ただ、仮倉庫は押さえられました。書庫側の衛士が出入りを封じています」


「商務院は?」


「一部の記録が保全されています。閲覧制限もかけられました」


「……遅い」


 エドガルは低く吐き捨てた。


 遅い。


 こちらの動きが遅い。

 相手の動きが早い。


 それが一番まずい。


 時間を与えれば、ルシアンは紙を積む。

 レティシアは辺境から次の写しを送る。

 銀狐商会は利益を嗅いで距離を取る。

 白蔦会の末端は、自分だけ助かろうとして喋り出す。


 なら、場を変えるしかない。


 紙の上で戦っていては、こちらが不利になる。


「王太子殿下にお目通りを願う」


 古参書記が顔を上げた。


「今から、でございますか」


「今だ」


「しかし、まだ材料が」


「材料が揃ってからでは遅い」


 エドガルは振り返った。


「相手が記録で来るなら、こちらは権限で動く」


 王太子アルベルトは、その日、朝から機嫌が悪かった。


 春季祭礼後の処理はまだ尾を引いている。

 商会への調整、貴族家からの遠回しな抗議、王妃付きからの改善要求。

 それらが王太子府の机に積み上がっていた。


 どれも、アルベルトが直接手を動かすには細かすぎる。

 だが、無視すれば面倒になるものばかりだった。


「またか」


 アルベルトは、側近が持ち込んだ書類の束を見て顔をしかめた。


「どいつもこいつも、些細なことを大事のように持ってくる」


 エドガルは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「殿下のお立場が重くなった証でございます」


「慰めにもならん」


「失礼いたしました」


 エドガルは恭しく頭を下げた。


 ここで急いではならない。


 アルベルトは単純な男ではない。

 だが、己の誇りに触れられると判断を急ぐ癖がある。


 そこへ、慎重に言葉を置けばいい。


「実は、少々気がかりな件がございます」


「何だ」


「第二王子殿下の動きです」


 アルベルトの眉が動いた。


「ルシアン?」


「はい」


「また書庫か」


「書庫だけで済めばよろしいのですが」


 エドガルは声を落とした。


「最近、王立書庫の名で商務院記録に深く手が入っております。北方旧所領、鉱山収益、山越え交易商会、銀狐商会。その周辺を、かなり広く」


 アルベルトは椅子の背にもたれた。


「記録整理だろう」


「表向きは」


「何が言いたい」


「王太子府の管轄に関わる商務記録まで、第二王子殿下の名で保全され始めております」


 アルベルトの目つきが変わった。


 王太子府の管轄。

 その言葉は効く。


「ルシアンが、俺の権限に手を入れていると?」


「そこまで明言するには、まだ材料が足りません」


 エドガルはあえて一歩引いた。


「ですが、周囲にはそう見える可能性がございます」


 直接断定しない。

 相手に想像させる。


 セラフィナほど艶やかな声ではない。

 だが、エドガルもまた、相手の弱いところへ言葉を置く術を知っていた。


 アルベルトは不機嫌そうに指で机を叩いた。


「ルシアンは、昔から余計なところを覗きたがる」


「殿下をお支えしたい一心かもしれません」


「お前はそう思うのか」


「いえ」


 エドガルは静かに答えた。


「私は、殿下の御名の下で動くべきことが、殿下を通さず進んでいる点を危惧しております」


 アルベルトは黙った。


 その沈黙を見て、エドガルは次の刃を出す。


「さらに、辺境の件もございます」


「辺境?」


「レティシア嬢です」


 その名を聞いた瞬間、アルベルトの表情がわずかに歪んだ。


 苛立ち。

 気まずさ。

 そして、まだ本人も認めきれていない小さな焦り。


 エドガルは見逃さない。


「レティシアが何だ」


「彼女は現在、辺境で独自に銀狐商会と取引を行っております」


「銀狐商会……北方の商会か」


「はい。鉱石の試験取引と称して、王都を通さない流通を作りつつあるようです」


 アルベルトの目が鋭くなる。


「王都を通さない?」


「正確には、現地帳場にて管理しているとのこと。ただ、王太子府への正式な事前報告は確認できておりません」


「それは越権ではないのか」


「辺境運営上の裁量と言われれば、一定の理屈は立ちます」


 また一歩引く。


 そして、次を置く。


「ですが、鉱石が関わるとなれば話は別です。しかも、第二王子殿下がその記録を王立書庫経由で追っている。辺境と第二王子殿下が、王太子府を迂回して繋がっているように見えかねません」


 アルベルトは椅子から身を起こした。


「レティシアとルシアンが?」


「私は、そう断定しておりません」


「では、何だと言う」


「誤解を生む前に、王太子府として正式に確認すべきかと」


 エドガルは丁寧に言った。


「銀狐商会との取引。鉱山収益。王都記録照合への協力状況。辺境側の帳場運用。これらを監査する名目で、王太子府から使者を出すのがよろしいかと存じます」


 アルベルトは机を叩いた。


 大きな音ではない。

 だが、部屋の空気を変えるには十分だった。


「辺境へ監査使を出せ」


 エドガルは、深く頭を下げた。


「御意」


「レティシアに伝えろ。王太子府は見ているとな」


「承知しました」


 アルベルトは苛立ちを隠さずに立ち上がった。


「まったく……あいつは、辺境へ行ってまで面倒を起こすのか」


 エドガルは顔を伏せたまま、静かに言った。


「有能な方ほど、時にご自身の裁量を広く見積もるものです」


「有能、か」


 アルベルトは嫌そうにその言葉を繰り返した。


「お前まで、そう言うのか」


「事務処理においては、という意味でございます」


「ふん」


 アルベルトは窓の外へ目を向けた。


 彼の中で、レティシアはまだ定まっていない。


 捨てた女。

 役に立った女。

 妹の方がふさわしいと判断したはずの婚約者。

 だが、いなくなった途端に王都の細かな綻びが目につき始めた。


 その現実を、彼はまだ認めたくなかった。


 だから、怒る。


 怒りは、認めたくないものに蓋をするには便利だった。


 その頃、王太子府の奥では、エミリアが侍女から噂を聞いていた。


「お姉様が……銀狐商会と?」


 彼女の声は不安定だった。


 以前より少し痩せたように見える。

 春季祭礼以降、エミリアは笑顔を保つのが下手になっていた。


 王太子妃になるはずの自分。

 姉に代わって選ばれた自分。

 皆に愛され、華やかな場に立つはずだった自分。


 けれど、現実は思ったより重かった。


 席次。

 商会への挨拶。

 女官長の視線。

 王妃からの遠回しな忠告。

 そして、何かあるたびに誰かが飲み込む言葉。


 ――レティシア様なら。


 実際に口にする者は少ない。

 だが、言葉になる前の空気は伝わってくる。


 エミリアは、扇を握る手に力を込めた。


「お姉様が、また何かしたの?」


 侍女は慌てて首を振る。


「いえ、詳しいことは。ただ、辺境で独自に帳場を整えていらっしゃるとか、王立書庫と何かやり取りを……」


「王立書庫?」


「はい。第二王子殿下のお名前も」


 エミリアの顔色が変わった。


 姉と第二王子。

 王太子府を通さないやり取り。

 辺境での成功らしき噂。


 それは、彼女にとって恐怖に近かった。


 姉は、もう王都にいないはずだった。

 いなくなったから、自分がここに立てたはずだった。


 なのに、姉の名前は消えない。


 むしろ、以前より強く戻ってくる。


「……どうして」


 エミリアは小さく呟いた。


「どうして、お姉様はいつも……」


 最後まで言えなかった。


 いつも何なのか。


 自分より先に正解を持っている。

 自分が触れたくない現実を、先に片づけてしまう。

 自分が華やかに見せたい場所の裏側で、黙って手を動かしている。


 そう言ってしまえば、自分の負けを認めるようで嫌だった。


 侍女は何も言えず、ただ頭を下げていた。


 王立書庫では、ルシアンが王太子府の動きを知った。


 知らせを持ってきたカイルは、顔を曇らせている。


「王太子府が、辺境へ監査使を出す準備を始めたようです」


 ルシアンは静かに目を上げた。


「早いな」


「エドガル・ヴァイスナーが進言したとのことです」


「だろうな」


 ルシアンは驚かなかった。


 むしろ、想定よりわかりやすい動きだった。


 追い詰められた者は、記録の場から権限の場へ戦場を移す。

 エドガルは、それを選んだのだ。


「監査名目は?」


「銀狐商会との取引確認、鉱山収益の適正管理、王都記録照合への協力状況調査。表向きはもっともらしいです」


「もっともらしいものほど、厄介だ」


 ルシアンは机の上に置かれた白蔦会仮倉庫の報告書を見た。


 まだ、これを表へ出すには足りない。


 エドガルの名は紙片に出た。

 だが筆跡は本人ではない。

 ベルナールは移送された。

 白蔦会の部屋は押さえたが、王太子府を止める公式な理由としては弱い。


「止めますか」


 カイルが問う。


「止められない」


 ルシアンは答えた。


「王太子府には、辺境を監査する名目がある。兄上が命じたなら、正面から止めれば王族内の権限争いになる」


「では」


「警告を送る」


「レティシア様へ?」


「ええ。正式な照会文ではない。短く、監査使が向かう可能性を伝える」


「王太子府に知られれば」


「知られないように送る」


 カイルは少しだけ苦笑した。


「難しい仕事が増えますね」


「いつもすまない」


「謝られると、かえって調子が狂います」


 ルシアンは薄く笑った。


「では、頼む」


「承知しました」


 辺境では、その日も中継小屋の修理が続いていた。


 レティシアは王都からの続報を待ちながら、火災記録の清書と、公開記録日の後処理を進めていた。


 町は疲れている。

 だが、動いている。


 豆札の三重確認も、少しずつ慣れてきた。

 薪置き場の三分散も、形になり始めている。

 証拠棚には、封印一号から三号までが並び、夜番の巡回も見直された。


 火は消えなかった。


 だが、次に何が来るかはわからない。


 夕暮れ前、南道から一人の早馬が入った。


 王立書庫の印はない。

 だが、封の内側にだけ小さな印が押されていた。


 ルシアンが使う、個人的な蔵書印。


 レティシアはそれを見て、すぐに封を切った。


 文は短かった。


 ――王太子府、北方旧所領への監査使派遣を準備中。

 ――名目は銀狐商会取引、鉱山収益、王都記録照合。

 ――エドガル・ヴァイスナーが進言した模様。

 ――到着時期未確定。備えられたし。


 レティシアは、しばらくその文を見つめていた。


 ディルクが横から問う。


「王都からですか」


「ええ」


「何と?」


 レティシアは紙を渡した。


 ディルクは読み終えると、短く息を吐いた。


「来ますね」


「ええ」


 ルイスが青ざめる。


「監査使……王太子府から?」


「そう」


「こちらに不備はありません。少なくとも、記録上は」


「だから来るのよ」


 レティシアは静かに言った。


「不備があるから来るのではない。不備を作るために来る可能性がある」


 帳場の空気が冷えた。


 だが、レティシアの声に怯えはなかった。


 むしろ、どこか澄んでいた。


「準備しましょう」


 ディルクが頷く。


「帳場記録、証拠棚、銀狐商会との取引、鉱山収益。すべて確認します」


「町にも、必要な範囲で伝えるわ」


「動揺します」


「隠せばもっと動揺する」


 ルイスは必死に筆を取った。


「監査使対応準備、ですね」


「ええ」


 レティシアは窓の外を見た。


 中継小屋には、三つの火が灯っている。


 白蔦会は火を消そうとした。

 消えなかった。


 だから今度は、王都の名を掲げて来る。


「ようやく」


 レティシアは小さく言った。


 ディルクが彼女を見る。


「ようやく?」


「ええ」


 レティシアは、静かに微笑んだ。


「向こうから表へ出てきた」


 その笑みを見て、ルイスは少しだけ震えた。


 怖いと思った。

 けれど同時に、頼もしいとも思った。


 逃げるのではない。

 隠れるのでもない。

 迎えるつもりなのだ。


 その夜の記録に、レティシアはこう口述した。


 紙の影に隠れていた者たちは、ついに王都の名を掲げて来る。ならば、こちらも帳場の灯りを消さずに迎えればよい。


 窓の外では、三つの火が揺れていた。


 次に来るのは、火ではない。

 書簡でもない。


 王都そのものの顔をした圧力だった。

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