第80話 監査使、辺境へ入る
王太子府の監査使が来るまでの三日間、辺境の町は不思議なほど忙しかった。
忙しい、というより、忙しくしていなければ落ち着かなかったのかもしれない。
中継小屋では、三つに分けた薪置き場の屋根がようやく形になり始めていた。焦げた西側の壁は仮板から少し厚い板へ替えられ、床下の油染みも削り取られた。
井戸のそばでは、新しい桶置き場の石が半分ほど土に埋められ、蹴っても動きにくくなっている。豆札は、形と色と紐の通し方を変えたせいで、最初こそ混乱したが、二日目には荷運びたちも慣れ始めていた。
帳場では、ルイスがほとんど紙に埋もれていた。
「銀狐商会試験取引、第一便……写し一、写し二……配分表……町荷車屋参加記録……」
彼はぶつぶつ言いながら紙束を分ける。
マルタが横から茶を置いた。
「ルイス殿、紙の数より呼吸の数を増やしてくださいませ」
「はい……あ、ありがとうございます」
「礼より茶です」
ルイスは素直に茶碗を持ち、ひと口飲んだ。
レティシア・エーヴェルシュタインは、その向かいで監査対応一覧に目を通していた。
銀狐商会との契約条件。
鉱山収益記録。
王立書庫との照合文。
証拠棚封印一号から三号。
中継小屋火災記録。
豆札制度。
小口前借り制度案。
証人保護手順。
どれも、完璧ではない。
欠落もある。
未確定もある。
仮措置もある。
けれど、そのすべてに名前がついていた。
穴を隠していない。
直している途中だと書いている。
それが、今この土地にある一番の強さだった。
ディルク・ヴァルゼンが入ってきた。
「監査使一行、南道の宿場を出たそうです。予定通りなら、今日の夕刻前に到着します」
ルイスの手が止まった。
止まった拍子に、積んでいた紙束が少し崩れる。
「あっ」
彼は慌てて押さえた。
マルタがため息をつく。
「監査使より先に紙が崩れてどうなさいます」
「すみません……」
レティシアは、少しだけ笑った。
「大丈夫。紙は直せるわ」
そう言ってから、彼女はディルクを見る。
「町の様子は?」
「表面上は落ち着いています。ただ、王都の者が来るというだけで、どうしても皆、身構えています」
「当然ね」
「中継小屋の作業は止めません。豆の配分も通常通り。鍛冶場もいつも通りに炉を入れています」
「見栄は張らない」
「ええ。いつも通りに、と伝えています」
その言葉を聞いて、レティシアは小さく頷いた。
王都の監査使が来る。
それは確かに大きなことだ。
だが、そのために町の日常を止めたら、相手の思うつぼでもある。
この土地は混乱している。
王都の監査が来るだけで仕事が止まる。
そう見られてはならない。
いや、それ以前に。
この町は、王都に見せるために動いているのではない。
ここで暮らす人間が明日も火を使い、豆を煮て、荷を運ぶために動いている。
昼過ぎ、豆売りの女主人が帳場へ顔を出した。
「閣下。監査使ってのは、豆の袋まで見るんですかね」
「見るかもしれないわ」
「じゃあ、見せますよ。見てもらった方が早い」
「緊張していないの?」
「してますよ」
女主人はあっさり言った。
「でも、緊張したからって豆の数は増えませんしね」
それを聞いて、ルイスが小さく笑った。
女主人は彼を見る。
「笑う余裕があるなら、ちゃんと記録しとくれよ。こっちは数字が命なんだから」
「はい」
「それと、監査使に何か聞かれたら、余計なことは言わず帳場へ案内する。そうでしたよね」
「ええ」
レティシアが答える。
「知らないことは知らない。記録が必要なことは帳場へ。証人や証拠に関わることは、勝手に話さない」
「わかりました」
女主人は頷くと、少し声を落とした。
「町の連中、怖がってますよ。でも、逃げ腰ってわけじゃない」
「そう」
「火を燃やされた時よりは、ましです。あの時は煙が見えた。今回は、まだ相手の顔が見えるだけですから」
その言い方に、ディルクがわずかに目を細めた。
「相手の顔が見える方が、戦いやすいか」
「戦とかは知りませんよ。ただ、陰で箱を送ってくる奴より、正面から偉そうに来る奴の方が、まだ文句は言いやすいです」
レティシアは思わず小さく笑った。
「確かにそうね」
夕刻前。
南道の先に、王太子府の旗が見えた。
最初に気づいたのは、井戸番の兵だった。
「来たぞ」
その声は、すぐに町へ広がった。
荷運びたちが手を止めそうになり、ガレスがすぐに怒鳴った。
「見るなとは言わねえけど、手を止めるな! 薪は勝手に積み上がらねえ!」
ヨハンが横で笑う。
「ディルク様みたいなこと言うようになったな」
「うるさい。真似したわけじゃない」
「似てるぞ」
「似てない!」
そんな声が聞こえる中、王太子府の一行は町へ入ってきた。
監査官ユリウス・フェルナーは、想像よりも地味な男だった。
年は四十を少し越えたくらい。
髪はきっちり撫でつけられ、服装は質がよいが派手ではない。目つきは鋭い。相手を威圧するというより、余計なものを削ぎ落として見る目だった。
一方、副使バルド・ロイエンは違った。
年は三十代半ば。
整った顔立ちに、やや過剰な笑み。
王都で磨かれた物腰をまとっているが、目の奥には品定めするような光がある。
後ろには書記官三名、随行兵六名、荷役二名。
王都の空気を、そのまま辺境へ運び込んできたような一団だった。
レティシアは砦前で彼らを迎えた。
ディルクが一歩後ろに控え、ルイスは帳面を抱えて立っている。マルタはさらに後ろで、静かに全体を見ていた。
フェルナー監査官が一礼する。
「王太子府監査官、ユリウス・フェルナーです。通達に基づき、北方旧所領の監査に参りました」
レティシアも礼を返した。
「レティシア・エーヴェルシュタインです。遠路、お疲れさまでした」
ロイエンが、にこやかに口を挟む。
「想像以上に……質素な場所ですね」
初手からそれか、とルイスの表情がわずかに強張った。
レティシアは表情を変えない。
「火災後の修理中ですので、整えきれていない場所もあります。質素であることは否定しません」
「なるほど。王太子府の監査使を迎えるには、いささか準備不足では?」
「この土地では、見栄の準備より中継小屋の復旧を優先しています」
ロイエンの笑みが、一瞬だけ止まった。
フェルナーが横目で彼を制し、淡々と言う。
「監査対象の資料は?」
「帳場に準備しています。銀狐商会との試験取引、鉱山収益、王立書庫照合文、火災記録、物資配分表。確認可能なものから順にご覧いただけます」
「証拠保全品は?」
「封印棚に保全しています。閲覧には、こちらの記録官と責任者の立会いをお願いします」
フェルナーは眉を少し動かした。
「理由は?」
「証人保護および進行中調査のためです。また、証拠品の状態変化を防ぐため、閲覧者、時刻、目的を記録します」
フェルナーは少しの間、レティシアを見た。
その視線は、敵意ではない。
計っている。
やがて彼は短く頷いた。
「妥当です」
ロイエンの口元がわずかに引きつった。
「随分と、監査を受け慣れておいでのようだ」
「受け慣れてはいません」
レティシアは答えた。
「ただ、記録を守る手順は決めています」
その時、中継小屋の方から槌音が響いた。
王都の一行が、そちらへ視線を向ける。
ガレスたちが薪置き場の屋根を作っている音だった。
ロイエンが言う。
「監査使到着時にも作業を続けるのですか」
「はい」
「監査の妨げになるのでは?」
「中継小屋の復旧を止める方が、領地運営の妨げになります」
レティシアの声は静かだった。
「必要であれば、作業現場もご覧いただけます。火災記録と照合できますので」
フェルナーが反応した。
「火災現場を見られるのか」
「はい。修理中ですが、油布片の発見地点、白蔦焼印木片の発見地点、種火付近の小火跡は記録済みです。現場図もあります」
「後で確認する」
「承知しました」
ロイエンは、少し面白くなさそうに目を細めた。
彼は、おそらく別の反応を期待していたのだろう。
王太子府の名に慌てる。
火災現場を隠そうとする。
証拠棚の閲覧を拒んで怪しさを出す。
あるいは、過剰に媚びて自ら手順を崩す。
そのどれも、レティシアは選ばなかった。
帳場へ案内すると、監査使たちは少し驚いたようだった。
狭い。
古い。
けれど、整っている。
紙束には札がつき、棚には封印があり、机には閲覧用の記録欄が用意されている。壁には中継小屋の現場図と、豆札の形状一覧まで貼られていた。
ロイエンが、その豆札一覧を見て笑った。
「豆の札まで監査資料ですか」
「はい」
レティシアは即答した。
「豆の町内優先制度に関する噂が出たため、公開記録日に説明した資料です。物資配分の透明性に関わります」
ロイエンの笑みが薄くなる。
フェルナーは逆に、豆札一覧へ近づいた。
「形、色、紐通しを分けているのか」
「誤認と改ざん防止のためです」
「改ざんがあった?」
「未遂がありました。記録があります」
「後で見る」
フェルナーの声に、初めて少しだけ興味が混じった。
ロイエンは、明らかに想定と違う展開に苛立ちを隠しきれていない。
ルイスはその様子を見て、少しだけ落ち着きを取り戻した。
恐ろしい相手だと思っていた。
実際、恐ろしい。
だが、帳場には帳場の武器がある。
紙。
札。
手順。
立会い。
名前のついた穴。
それらは派手ではないが、王都の肩書きに対しても折れない。
フェルナーは椅子へ座り、最初の資料を求めた。
「銀狐商会との試験取引記録から確認する」
「ルイス」
「はい」
ルイスは紙束を整え、一礼して差し出した。
「銀狐商会試験取引第一便の契約条件、数量、対価、配分表、町荷車屋参加記録です。閲覧記録に、お名前と時刻をお願いします」
言い終えたあと、ルイス自身が少し驚いたような顔をした。
声が震えなかった。
フェルナーは黙って筆を取り、閲覧記録に名を書いた。
ユリウス・フェルナー。
続いてロイエンも、少し遅れて名を書く。
バルド・ロイエン。
その名前が帳場の閲覧記録に残った瞬間、レティシアは静かに思った。
監査は始まった。
だが、同時にこちらの記録も始まっている。
見られるだけではない。
こちらもまた、見ている。
窓の外では、中継小屋の方から槌音が響いていた。
町は止まっていない。
帳場の灯りも消えていない。
王太子府の監査使は、ついに辺境へ入った。




