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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第73話 火を消すという予告

 朝の帳場は、墨の匂いから始まった。


 ルイスが、昨夜から乾かしていた写しを一枚ずつ確かめている。

 焼け残った小金貸しの帳面は、焦げた端が崩れないよう薄布の上に置かれ、窓からの風を避けるため衝立まで立てられていた。


 豆。

 火。

 箱。

 白石。

 鈴。

 若。


 それぞれの仮解釈は、すでに別紙へまとめられている。


 豆は市場と食料流通。

 火は中継小屋と夜火、あるいは夜番。

 箱は香木箱、証拠箱、封印対象。

 白石は指輪の連絡役。

 鈴は山羊の鈴亭。

 若は白蔦の若君。


 記号だけ見れば、まるで子供の遊びのようだ。

 だが、それが示しているのは、この町の腹と道と火と記録が、長い間、誰かの手の中で符丁に変えられていたという事実だった。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、机に置かれた焼け帳面を見下ろしていた。


「まだ読めるところはありそう?」


 問いかけると、ルイスは目を細めたまま答える。


「はい。ただ、表面はかなり焦げています。裏側に墨が移っている箇所があって……」


 彼は慎重に紙片の角度を変えた。


 焦げた紙は、光の当て方で読める文字が変わる。正面からはただの黒い汚れに見える部分も、斜めから見ると、墨の盛り上がりだけが微かに残っていることがある。


 ルイスは息を止めるようにして、そこを見つめた。


「……閣下」


 声が変わった。


 レティシアはすぐに顔を上げる。


「何か読めたの?」


「完全ではありません。でも……」


 ルイスは紙へ目を落としたまま、ゆっくり読んだ。


「次、火を消す」


 帳場の中が、静かになった。


 それは長い文章ではなかった。

 むしろ、短すぎるほど短い。


 けれど短いからこそ、刃物のように残った。


 火を消す。


 ディルク・ヴァルゼンが、無言で一歩近づいた。


「どの火だ」


 低い声だった。


 ルイスは青ざめた顔で首を振る。


「そこまでは……周囲が焼けていて、他の文字は読めません」


 レティシアは、焦げた紙片をじっと見た。


 火。

 白蔦会の符丁では、中継小屋や夜火を指す可能性が高い。


 けれど、それだけではない。


 この町で“火”と呼べるものは増えている。


 中継小屋の三つの火。

 鉱山の再始動。

 鍛冶場の炉。

 炊事場の湯気。

 そして、町の者たちが自分で仕事を作り始めた、その勢い。


 白蔦会が狙う火は、ひとつとは限らない。


「中継小屋の警備を増やします」


 ディルクが即座に言った。


「ええ。でも、それだけでは足りないわ」


「他にも?」


「火を消す、という言葉をそのまま受け取るとは限らないもの」


 ディルクは目を細める。


「町の動きを止める、という意味ですか」


「ええ」


 レティシアは焼けた帳面から目を離さなかった。


「中継小屋を燃やすこともできる。鍛冶場を止めることもできる。けれど、もっと簡単なのは、人の気持ちを冷やすことよ」


 ルイスが小さく息を呑む。


「噂、ですか」


「おそらくね」


 答えた時、まるでそれを待っていたかのように、帳場の外が少し騒がしくなった。


 扉を叩く音。


「入って」


 現れたのはガレスだった。


 朝から荷運びの振り分けをしていたはずなのに、顔が険しい。


「閣下、少し……変な話が出ています」


「何?」


 ガレスは言いにくそうに一度口を閉じ、それから思い切ったように言った。


「銀狐商会との取引で入った銭を、帳場が隠してるって」


 ルイスの顔が強張った。


 ディルクの目つきが変わる。


 レティシアは表情を動かさず、続きを促した。


「誰が言っていたの?」


「荷運びの若いのが、井戸のところで聞いたって。誰が最初かは、まだ。ただ……」


「ただ?」


「豆の町内優先も、豆売りさんにだけ得させるためだって話も一緒に出ています」


 ルイスが思わず声を上げる。


「そんな、違います!」


 その反応は自然だった。

 帳場でどれほど細かく記録し、何に使うかを分け、誰が損をしないよう気を配っているか、彼は誰より近くで見ている。


 だからこそ、悔しかったのだろう。


 レティシアは静かに言った。


「ルイス、座って」


「ですが」


「怒るのは後でいいわ。今は、噂がどこを狙っているかを見る」


 ルイスは唇を噛み、それでも椅子へ戻った。


 ディルクが低く言う。


「銀狐商会の収支、豆の優先制度。つまり帳場への不信ですね」


「ええ」


 ガレスが続けた。


「それと、証拠棚を守ってる兵に特別手当が出てるって話も」


 ディルクの眉が動いた。


「出ていない」


「わかってます。でも、そう言ってる奴がいるみたいで」


 レティシアは、焼け帳面の文字をもう一度見た。


 次、火を消す。


 なるほど、と内心で呟く。


 火を消すとは、薪に水をかけることだけではない。

 人の間に疑いを置くことも、火を消す方法だ。


 銀狐商会との取引で得た銭が隠されている。

 豆の優先制度は一部の者だけを儲けさせるためだ。

 証拠棚を守る兵だけが得をしている。


 どれも、絶妙に町の不満へ届く噂だった。


 完全な嘘ほど、人はすぐ見抜く。

 だが、少しだけ本当の近くを通る嘘は厄介だ。


 銀狐商会との取引で銭は入った。

 豆の優先制度で豆売りの役割は増えた。

 証拠棚の警備に兵はついている。


 事実の横に、悪意を一滴垂らしている。


「上手いわね」


 レティシアが言うと、ルイスが驚いたように顔を上げた。


「上手い、ですか」


「ええ。嫌になるくらい」


 ディルクが腕を組む。


「噂を流した者を捕まえますか」


「捕まえるだけでは足りないわ」


「なぜです」


「噂は、叩くと増えることがあるもの」


 レティシアは席を立った。


「なら、事実を見せる」


 その日の昼前、井戸の周りには普段より人が多かった。


 水を汲む者。

 桶を戻す者。

 炊事場へ水を運ぶ者。

 その合間に、小さな囁きが交わされている。


 レティシアが近づくと、人々は慌てて口を閉じた。


 その沈黙だけで十分だった。


 噂は回っている。


 豆売りの女主人は、露店の前で眉間に皺を寄せていた。


「聞きましたか」


 レティシアが声をかけると、彼女は鼻を鳴らした。


「聞いたも何も、朝から三回も遠回しに聞かれたよ。あたしだけ豆で儲けてるのかってね」


「実際は?」


「儲かるどころか、町内優先分は外へ出すより安いよ」


「ええ」


「でも、説明しないとわからないんだろうね」


 女主人は腕を組んだ。


「腹立つけど、まあ、そうだ。あたしだって他人の商いなら細かいところまで知らない」


 その言い方に、レティシアは少しだけ感心した。


 怒っている。

 だが、怒りだけで終わっていない。


 何が見えていないから噂になるのか、彼女なりに理解し始めている。


「帳場の一部を開く日を作ろうと思います」


 レティシアが言うと、豆売りの女主人は目を丸くした。


「帳場を?」


「ええ。全部ではないわ。王都関係や証拠は伏せる。でも、町の皆に関わる銭と物の流れは、代表者に見せる」


「そんなことしていいんですかい」


「しないと、噂が帳場の代わりに数字を作るわ」


 女主人は、しばらく黙った。


 それから、にやりと笑う。


「いいですね。見せてやりゃいい。豆がどこへ行ってるか、あたしもその場で言いますよ」


「お願いするわ」


 次に、レティシアは荷捌き場へ向かった。


 ヨハンは荷車の横で、若い荷運びと言い合っていた。


「だから、銀狐の荷が増えたからって俺らの仕事が減ったわけじゃねえって言ってんだろ」


「でも、北の馬車の方が大きいじゃないですか」


「大きい馬車が入れる道ばっかりじゃねえんだよ。この前も沈みかけただろうが」


 若い荷運びは不満そうだったが、完全に反発しているわけでもない。


 不安なのだ。


 外の大きな商会が来て、自分たちの仕事が奪われるのではないか。

 それを誰かが利用している。


 レティシアが近づくと、二人とも口を閉じた。


「続けていいわ」


 そう言うと、ヨハンが気まずそうに頭をかいた。


「いや、その……」


「仕事が減るかもしれないと心配するのは、悪いことではないわ」


 若い荷運びが恐る恐る顔を上げる。


「そうなんですか」


「ええ。心配なら、確認すればいい」


「誰に」


「帳場に」


 レティシアは答えた。


「銀狐商会との取引で、町の荷車屋と荷運びがどれだけ使われたか。今後どれだけ必要か。記録があるわ」


 ヨハンが、はっとした顔をした。


「そうか。俺たちの名前も載ってる」


「ええ」


「なら、見ればいいのか」


「そういうこと」


 若い荷運びは少し戸惑ったようだった。


「見せてもらえるんですか」


「代表者を通してね。全部を誰にでも見せるわけではないけれど、あなたたちの仕事に関わるところは見せる」


 ヨハンは、少しだけ口元を緩めた。


「噂より帳場か」


「ええ」


「最近、なんでも帳場ですね」


「そうね」


 レティシアは少し笑った。


「でも、噂よりは役に立つでしょう?」


「まあ、噂は荷を運びませんからね」


 その言葉に、若い荷運びが小さく笑った。


 午後、証拠棚の警備についても話が出た。


 兵の間では、特別手当の噂に対して怒りがあった。


「出てもいない手当で睨まれるのは、さすがに腹が立ちます」


 井戸番も兼ねている若い兵が、珍しく不満を口にした。


 ディルクは厳しい顔だったが、レティシアはその兵に向き直った。


「腹が立つのは当然よ」


 兵は驚いたように背筋を伸ばした。


「ですが……」


「でも、怒鳴って否定しても、相手は“隠しているから怒る”と言うでしょうね」


 兵は悔しそうに黙った。


「だから、手当の有無も公開記録に入れるわ」


「そこまで?」


「ええ。証拠棚の警備に特別手当は出ていない。その代わり、夜番全体の負担が増えていることは記録する。必要なら、今後の夜番配分を見直す」


 ディルクが頷いた。


「兵の不満も、そこで扱えます」


「ええ。噂に対してただ否定するのではなく、実際の負担も見る」


 兵は少しだけ表情を緩めた。


「……ありがとうございます」


「礼は、手順を守ってからでいいわ」


「はい」


 夕刻、帳場で小さな評議が開かれた。


 出席したのは、ディルク、ルイス、ハルトマン、豆売りの女主人、ヨハン、ガレス、鍛冶屋の親父、炊事長、井戸番の兵二人。


 議題は一つ。


 公開記録日。


「全部を開くわけではありません」


 レティシアは最初にそう言った。


「王都との照合、白蔦会の証拠、証人の名前。これらは伏せます。出せば、証人が危ないからです」


 皆、真剣に頷いた。


「公開するのは、町の生活と仕事に関わる範囲」


 ルイスが項目を読み上げる。


「銀狐商会との試験取引収支。塩、燃料、馬具材料の配分。豆の町内優先制度の理由と数量。井戸、馬小屋跡、中継小屋への支出。証拠棚警備への特別手当の有無。夜番負担の実態」


 鍛冶屋の親父が腕を組む。


「そんなもん見せる領主、聞いたことねえな」


「でしょうね」


 レティシアは淡々と答えた。


「でも、見せないことで火が消えるなら、見せる方がいい」


 炊事長が低く笑った。


「火を消されるくらいなら、台所の帳面でも何でも見せますよ。もっとも、見たところで芋の数ばかりですがね」


 豆売りの女主人が返す。


「芋の数を誤魔化したら、汁が薄くなるんだよ」


「それは困る」


 場に小さな笑いが起きた。


 だが、その笑いはすぐ真剣な空気に戻る。


 ガレスが少し迷いながら手を上げた。


「俺たち、荷運び組からも誰か出した方がいいですか」


「ええ。あなたが出て」


「俺が?」


「あなたは今、荷運び組の話を聞ける立場にいる」


 ガレスは困ったような顔をした。


「俺、そういうの得意じゃないです」


「得意でなくていいわ。見たことを、そのまま言って」


 ヨハンが横から肩を叩く。


「大丈夫だ。変なこと言ったら俺が笑ってやる」


「それ一番嫌なんだけど」


 また少し笑いが起きた。


 レティシアは、それを止めなかった。


 噂は、笑いを奪う。

 なら、少しでも笑える場を残しておくことも大事だ。


 評議の終わりに、ディルクが低く言った。


「中継小屋の警備は、今夜から増やします」


「ええ」


「ただ、噂への対応で町の目が帳場へ向くと、中継小屋が手薄になる可能性があります」


「火そのものも狙われる?」


「はい」


 レティシアは頷いた。


「なら、両方守るわ。帳場の火と、中継小屋の火」


 ディルクが少しだけ目を細める。


「忙しくなりますね」


「いつものことでしょう」


「否定はしません」


 夜、帳場の記録には新しい項目が加わった。


 白蔦会系と思しき噂の発生。

 内容は銀狐商会取引利益の隠匿疑惑、豆町内優先制度への不信、証拠棚警備手当の虚偽情報。

 目的は帳場への不信拡大と、町の自走の減速と推定。

 対応として、町代表者向けの公開記録日を設ける。


 ルイスが書き終えると、レティシアは静かに口述した。


 火を消すとは、薪に水をかけることだけではない。人の間に疑いを置き、手を止めさせることもまた、火を消すということである。ならば、こちらは事実を灯す。


 窓の外には、中継小屋の三つの火が見えた。


 いつも通りに揺れている。

 だが今夜は、その火を見つめる目が少し増えている。


 白蔦会が次にどの火を狙うのか、まだわからない。


 それでも、町はもう無防備な暗闇ではなかった。

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