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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第74話 帳場を開く日

 帳場を開く、と決めた翌朝。


 町は、妙に落ち着かなかった。


 祭りの前に似ている。

 けれど、誰も浮かれてはいない。


 井戸へ水を汲みに来た女たちは、いつもより声を落として話し、荷捌き場の若者たちは、豆袋を運びながら何度も砦の方を見た。鍛冶場では槌音がいつも通り響いていたが、その合間にも親父がちらちらと帳場の方へ目をやっている。


 何かが始まる。


 町全体が、そう感じていた。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、朝から帳場の机に資料を並べていた。


 銀狐商会との試験取引収支。

 塩、燃料、馬具材料の配分。

 豆の町内優先制度の数量。

 井戸、馬小屋跡、中継小屋への支出。

 証拠棚警備への特別手当の有無。

 夜番の負担表。


 もちろん、すべてを出すわけではない。


 白蔦会の符丁。

 王都との照合。

 証人の名前。

 ベルナールやヴァイスナー家に関わる情報。

 それらは伏せる。


 町の者たちに見せるべきものと、まだ守らなければならないもの。


 その線引きが、今日の一番難しい仕事だった。


「閣下」


 ルイスが、少し緊張した顔で帳面を抱えていた。


「読み上げる順番ですが、銀狐商会の収支からでよろしいでしょうか」


「ええ。噂の中心がそこだから」


「その次に豆の優先制度」


「そうね。その後に支出。最後に証拠棚警備と夜番負担」


 ルイスは頷いたが、表情はまだ硬い。


 レティシアは彼を見た。


「怖い?」


「……はい」


 正直な答えだった。


「数字を間違えたら、余計に疑われるかもしれないと思うと」


「なら、間違えないようにゆっくり読めばいいわ」


「ゆっくり、ですか」


「ええ。早く済ませる場ではないもの。皆に聞いてもらう場よ」


 ルイスは少し息を吐き、背筋を伸ばした。


「わかりました」


 ディルク・ヴァルゼンは窓際に立ち、中庭の様子を確認している。


「人は集まり始めています」


「騒ぎは?」


「今のところありません。ですが、不安そうではあります」


「当然ね」


「兵は控えめに置きます。威圧に見えると逆効果ですから」


「お願い」


 マルタは、机の端に温かい茶を置いた。


「お嬢様も、少しお飲みくださいませ。人前で倒れられては、帳場どころではございません」


「倒れないわ」


「倒れる方は皆さま、そう仰います」


 いつもの静かな小言に、ルイスが少しだけ笑った。

 そのおかげで、張りつめていた空気がほんの少し緩む。


 昼前。


 砦の中庭に、町の代表者たちが集まった。


 豆売りの女主人。

 ヨハン。

 ガレス。

 鍛冶屋の親父。

 蹄鉄屋の主人。

 炊事長。

 井戸番の兵二人。

 それから、各仕事場から数名ずつ。


 人数は多すぎない。

 けれど少なすぎもしない。


 見れば、それぞれの背後に町の生活があることがわかる顔ぶれだった。


 レティシアは、石段の上に立った。


 隣にはルイス。

 少し後ろにディルク。

 帳場の扉は開けられている。


 証拠棚は見えるが、柵の向こうにあり、封印札が貼られている。

 空箱と焼け帳面は、遠目にも“触れてはいけないもの”だとわかる位置に置かれていた。


「今日は、帳場の記録の一部を開きます」


 レティシアの声に、中庭が静まった。


「すべてではありません。人を守るために伏せる記録もあります。王都との照合や、証人に関わるものも出しません」


 最初に、そこをはっきり言う。


 全部を見せるふりはしない。

 それをすれば、あとで必ず不信になる。


「ですが、町の生活に関わる銭と物の流れは、代表者に見せます。噂ではなく、記録で確認してもらうためです」


 ルイスが一歩前へ出た。


 手は少し震えていた。

 だが、声は思ったよりよく通った。


「まず、銀狐商会との試験取引について」


 彼は、ゆっくり読み上げる。


 青脈鉱石の試験取引量。

 受け取った塩。

 燃料。

 馬具材料。

 現金の一部。

 それらがどこへ仮配分されたか。


 井戸補修分。

 馬小屋跡入口の石敷き分。

 夜火の薪分。

 鉱山道の簡易柵分。

 残りの保管分。


 ヨハンが隣のガレスへ小声で言った。


「俺らの荷車代、ちゃんと載ってるな」


「載ってる」


「少ねえけど」


 レティシアはその声を拾った。


「少ないと思うなら、次の評議で言って」


 ヨハンはぎょっとした顔をした。


「聞こえてました?」


「ええ」


「いや、文句ってほどじゃ」


「文句でいいわ。記録があるなら、話し合えるでしょう?」


 ヨハンは少し照れくさそうに頭をかいた。


「……じゃあ、あとで言います」


 中庭に小さな笑いが起きた。


 その笑いは、緊張を少しほどいた。


 次に、豆の町内優先制度の記録が読み上げられた。


 外へ出せば高く売れる豆。

 町内へ回すことで減る利益。

 その代わり、炊事場の汁物、荷運び、井戸番、鍛冶場へどれだけ回ったか。


 豆売りの女主人が、腕を組んで前へ出た。


「言っとくけどね、あたしだけが儲けてるって話は違うよ」


 声は強い。


 だが怒鳴ってはいなかった。


「町内優先分は、外へ売るより安く出してる。もちろん損してるとは言わないよ。商いだからね。でも、あたしだけが甘い汁を吸ってるってんなら、この数字を見な」


 炊事長が隣で頷く。


「豆が来なけりゃ、昼の汁は薄くなる。薄くなれば、荷運びも兵も動きが鈍る。豆売りだけの話じゃない」


 若い荷運びの一人が、小さく呟いた。


「汁が薄いのは困る」


 誰かが吹き出した。


 豆売りの女主人が振り向く。


「なら、札を見間違えるんじゃないよ」


「はい」


 今度は、はっきり笑いが広がった。


 不安は消えない。

 けれど、笑いが戻る。


 それだけで、空気はかなり変わった。


 その後、井戸、馬小屋跡、中継小屋への支出が読み上げられた。


 鍛冶屋の親父が、馬具材料の配分を聞いて低く唸る。


「完成品で入れずに材料で受けた分、うちの炉にも仕事が残ったってわけか」


「ええ」


 レティシアが答える。


「外から全部買えば早い。でも、それでは町の手が死ぬ」


 親父は鼻を鳴らした。


「炉を冷やすなってことだな」


「そう」


「なら、文句はねえ」


 蹄鉄屋の主人も頷いた。


「材料が入れば、こっちで合わせられる。北の馬具はそのままじゃ、この辺の馬には少し重い」


 銀狐商会との取引が、ただ外から物を入れるだけではなく、町の仕事を残す形になっていたことが、ようやく共有されていく。


 最後に、証拠棚警備の話になった。


 中庭の空気が少し硬くなる。


 噂の中で一番嫌な棘を持っていたのは、ここだった。


 証拠棚を守る兵に特別手当が出ている。

 夜番だけが得をしている。

 そういう話は、人の間に嫌な溝を作る。


 ルイスは少しだけ声を整えた。


「証拠棚警備に対する特別手当は、現時点でありません」


 はっきりと読み上げた。


「ただし、証拠棚設置以降、夜番および巡回負担は増加しています。そのため、今後、夜番全体の交代順と休息日を見直す予定です」


 井戸番の若い兵が、ほっとしたような顔をした。


 彼だけではない。

 兵たちにも、町の者にも、それは必要な説明だった。


 ディルクが一歩前に出る。


「証拠棚を守るのは、兵だけの仕事ではない。町の夜番も動いている。だが、負担が増えれば不満が出るのは当然だ。今後は、巡回を増やすなら休みも合わせて記録する」


 ガレスがぽつりと言った。


「夜番も、札みたいに見える方がいいんですね」


 ディルクが彼を見る。


「そうだ」


 短い肯定だった。


 ガレスは少し照れたように顔を伏せた。


 すべての読み上げが終わった時、中庭には妙な静けさが残った。


 不満が消えたわけではない。

 疑問もあるだろう。

 数字を聞いただけで、すべてが理解できたわけでもない。


 けれど、噂だけで膨らんでいたものは、確かに少ししぼんでいた。


 豆売りの女主人が、腕を組んだまま言う。


「本当に、隠してないんだね」


「隠しているものはあるわ」


 レティシアは正直に返した。


 女主人は目を丸くし、それから笑った。


「そこまで正直に言うかい」


「証人や王都関係は出せません。出せば人が危ないから」


「それは、わかるよ」


 鍛冶屋の親父が低く言った。


「全部見せろなんて言う奴は、たぶん見せたら見せたで文句を言う」


「でしょうね」


 レティシアは頷いた。


「だから、全部は見せません。でも、皆の仕事と腹に関わるものは、疑わずに済む程度には見せます」


 ヨハンが頭をかいた。


「なんか、変な感じですね」


「何が?」


「領主様に帳面見せられるって、普通はもっと怖いと思ってたんですけど」


「今は怖くない?」


「いや、怖いです」


 ヨハンは正直に答えた。


「でも、怖いの種類が違うっていうか。ごまかしてたら怖いけど、ちゃんとやってりゃ、味方になるのかなって」


 ルイスが、その言葉に小さく反応した。


 帳場が、味方になる。


 少し前なら誰も言わなかった言葉だ。


 レティシアは静かに答えた。


「そうなるようにしたいわ」


 公開記録日は、大きな混乱なく終わった。


 町の者たちは、それぞれ自分の持ち場へ戻っていく。


 豆売りの女主人は、露店へ戻るなり客に向かって言った。


「ほら、町内札はこっちだよ。今日ちゃんと帳場で聞いたからね。文句があるなら、数字見てから言いな」


 鍛冶屋の親父は、馬具材料の配分表を見たあと、弟子に言った。


「北の金具をそのまま使うなよ。うちで削る」


 ヨハンは荷車屋たちを集めて、銀狐商会との次回取引で町の荷車がどれだけ入るか話し始めた。


 ガレスは荷運び組に向かって、少しぎこちなく説明していた。


「ええと……仕事が減ったわけじゃない。むしろ、札を見て動く分、面倒は増える。でも、その面倒をやるから仕事が残る。たぶん」


「たぶんかよ」


「俺も今覚えてるんだよ」


 若者たちが笑う。


 それを見て、レティシアは少しだけ肩の力を抜いた。


 噂はまだ消えないだろう。

 だが、事実を見せる場所は作れた。


 火は、まだ消えていない。


 夕方になり、帳場で今日の記録をまとめていた時だった。


 扉が強く叩かれた。


「入って」


 飛び込んできたのは、若い兵だった。


 顔が青い。


「閣下、総司令!」


 ディルクが即座に立ち上がる。


「何だ」


「中継小屋の方から煙が!」


 帳場の空気が凍った。


 レティシアは窓の外へ走る。


 遠く、北口の向こう。


 いつも三つの火が見える方角に、黒い煙が一本、細く立ち上っていた。


 炊事の煙ではない。


 薪が湿った時の白煙でもない。


 黒い。


 焦げた煙だ。


 ルイスが掠れた声で言う。


「火を、消す……」


 焼け帳面の言葉が、全員の脳裏に蘇る。


 ディルクはすでに動いていた。


「兵を出す! 水桶、砂、毛布! 鍛冶場にも知らせろ!」


 レティシアも外套を掴む。


 マルタが止めるより早く、彼女は扉へ向かった。


「行くわ」


「お嬢様!」


「消す火と守る火を、現場で見なければならないもの」


 その言葉に、マルタは一瞬だけ唇を引き結び、すぐに厚手の手袋を差し出した。


「なら、せめてこちらを」


「ありがとう」


 外へ出ると、町の人々も煙に気づき始めていた。


 公開記録日で一度戻ったはずの人々が、今度は別の顔で北口へ走り出す。


 恐怖ではない。

 もちろん不安はある。


 だが、それ以上に、


 自分たちの火が狙われた。


 その感覚が、人を動かしていた。


 レティシアは走りながら、黒い煙を見据えた。


 白蔦会は、噂で火を消そうとした。

 それが弱まった今、今度は本当に火へ手を出したのだ。


 ならば、こちらも見せなければならない。


 この町の火は、もう一人の領主だけのものではない。

 町が自分で守る火になっているのだと。

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