表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/77

第72話 小金貸しの帳面

 焼け残った帳面の切れ端は、翌朝になっても帳場の机に置かれていた。


 いや、正確には、置かれているように見えるだけだった。


 実際には薄い板の上に乾いた布を敷き、その上へ紙片を載せ、さらに風で飛ばぬよう四隅を細い石で押さえている。灰と焦げの匂いはまだ残っていた。端は黒く縮れ、指でつまめば崩れそうなほど脆い。


 だが、そこには確かに文字があった。


 豆。

 火。

 箱。

 白石。

 鈴。

 若。


 人の名前はない。

 金額も、半分以上が焼けて読めない。


 けれど、レティシア・エーヴェルシュタインには、それが単なる落書きではないとわかっていた。


 白蔦会は、名前を残さない。

 名前を残さない代わりに、役目を残す。


 それはベルナールという名の使い方と同じだった。


「豆、火、箱……」


 ルイスは椅子に座ったまま、何度も同じ記号を見返していた。


 目の下には薄く隈がある。

 昨夜、遅くまで写しを作っていたせいだ。


 マルタが茶を置きながら、少し厳しい声を出した。


「ルイス殿、目が赤うございます」


「すみません」


「謝るより飲んでくださいませ。紙は逃げませんが、人の目は壊れます」


 その言い方が妙にもっともで、ルイスは素直に茶を受け取った。


 レティシアは紙片を見下ろしたまま、リュカへ視線を向ける。


「読めるところからでいいわ」


 リュカは緊張した顔で頷いた。


 彼は帳場へ呼ばれてから、ずっと落ち着かない様子だった。白蔦会の帳面。焼け残った記号。それは、彼にとって見たくない過去そのものなのだろう。


 それでも、逃げなかった。


「豆は……たぶん、市場です」


「豆売りさんだけを指すのではなく?」


「はい。豆売りの人を指すこともあるかもしれません。でも、白蔦会では“豆”って、この町の食料の流れをまとめて呼ぶことがありました」


 ルイスが筆を走らせる。


「豆=市場、食料流通、町内供給……」


「火は中継小屋ね?」


 レティシアが問うと、リュカは頷いた。


「はい。火は、中継小屋か夜番です。最近は、三つの火のことも指しているかもしれません」


 ディルク・ヴァルゼンの顔がわずかに険しくなった。


「つまり、こちらが夜火を分けたことも知られている」


「たぶん……」


 リュカは申し訳なさそうに言った。


「でも、いつ知られたかはわかりません。空箱を送ってきたなら、見ている人間はいると思います」


 帳場の空気が少し重くなる。


 レティシアはその重さを感じながらも、声を荒げなかった。


「続けて」


「箱は、証拠棚の箱か、香木箱です。文脈で変わります」


「今回は?」


 ルイスが焼け残った帳面を覗き込む。


 焦げた紙片の端には、かろうじてこう読める箇所があった。


 箱 夜 剥


 ルイスが唇を引き結んだ。


「封印箱を夜に剥がす、でしょうか」


「たぶん、昨日のニコの件ですね」


 リュカの声は小さかった。


 ディルクが低く言う。


「では、この帳面は最近まで使われていた」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「燃やしたのは、逃げる直前でしょうね」


 豆売りの女主人が腕を組み、紙片を睨んだ。


「人の名前じゃなくて、豆だの火だの箱だの。気に食わないね」


「名前を残さないためでしょう」


「わかってるよ。だから余計に腹が立つんだ。うちらの暮らしを、符丁にして持ち歩いてたってことだろ」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 その通りだった。


 白蔦会は鉱石だけを見ていたのではない。

 市場を見ていた。

 中継小屋を見ていた。

 証拠棚を見ていた。

 町の腹と火と箱を、記号にしていた。


 レティシアは静かに言った。


「白石は?」


 リュカは少し迷った。


「白い石そのものを指すこともあります。でも、たぶん今回は連絡役です」


「指輪の連絡役、と前に言っていたわね」


「はい。白っぽい石がついた指輪を合図に使う人がいて……末端は名前を知らなくても、その指輪を見たら従うように言われていました」


 ディルクが即座に反応した。


「その指輪を見たことは?」


「遠目に、一度だけ」


「顔は」


「覚えていません。顔を見ないようにしろと言われていました」


「男か女か」


「たぶん男です。でも、外套を深くかぶっていて」


 ディルクは不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。


 レティシアは次の記号を見た。


「鈴」


「山羊の鈴亭です。受け渡し場所」


「若は」


 リュカは答える前に、少し息を吸った。


「若君、です」


 部屋の空気が、また少し冷える。


 ヴァイスナー家。

 白蔦の若君。

 ベルナール。

 青脈鉱石。

 銀狐商会。


 言葉にしなくても、皆が同じ線を見ていた。


 ルイスは焦げ残った紙片のさらに下を読もうと、体をかがめた。


「ここ、少し残っています。若……戻……石……」


「若へ戻す石、かしら」


 レティシアが呟く。


「ベルナールの証言と繋がりますね」


 ルイスが顔を上げた。


「“箱は若君へ戻した”」


「ええ」


 レティシアは焼け残った帳面を見た。


「小金貸しの帳面に“若”があるなら、辺境の末端網と王都側の若君は、少なくとも同じ符丁の中にいる」


 ディルクが頷いた。


「王都へ送りますか」


「送るわ。ただし、原本はここに残す」


「写しを?」


「ええ。焦げ跡も含めて」


 ルイスはもう、新しい紙を用意していた。


「写しを取ります」


「急ぎすぎないで。焦げた部分は、読めないなら読めないと書いて」


「はい」


「推測は別欄に」


「承知しました」


 以前なら、ルイスは読めない箇所を無理に補おうとしたかもしれない。

 だが今は違う。


 読めないものを読めないまま残すことも、記録の誠実さだとわかり始めている。


 午前の終わり頃、もう一つの報告が届いた。


 ディルクが外へ出ていた兵から紙片を受け取り、帳場へ戻ってくる。


「細目の質屋の足取りです」


 レティシアは顔を上げた。


「見つかった?」


「本人はまだです。ただ、西小道から次の宿場へ向かった形跡があります。途中の農家で、細い目の旅人が馬を替えたという証言がありました」


「馬を?」


「ええ。金を払ったのではなく、古い銀の留め具を置いていったと」


 リュカが顔を強張らせる。


「銀の留め具……」


「知っているの?」


「白蔦会の連絡役が、支払いの代わりに使うことがあります。あとで金に換えられる印です」


「つまり、逃げる先にも仲間がいる」


 レティシアが言うと、ディルクは短く頷いた。


「追っています。ただ、相手も慣れています」


「深追いしすぎないで」


「承知しています」


 ここで兵を失うわけにはいかない。

 細目の質屋は重要だが、彼自身が本体ではない。

 末端網の一部だ。


 捕まえれば大きい。

 だが、今は残された帳面からでもかなりのことが見える。


 昼過ぎ、北口中継場で小さな騒ぎが起きた。


 豆の札を新しい形に替えたことで、初日はうまく回った。

 だが今度は、丸札の外向け豆をわざと町内用の荷に紛れ込ませた者がいた。


 犯人探しになる前に、豆売りの女主人が大声で言った。


「待ちな。これは間違いじゃないよ。丸札の紐の結びが違う」


 ヨハンが豆袋を確認する。


「ほんとだ。紐だけ付け替えてる」


 ガレスが顔をしかめる。


「誰が」


 その報告を受けたレティシアは、すぐ現場へ向かった。


 豆袋の前には、何人かの荷運びが不安そうに立っている。


「誰がやったか、今は置いておきます」


 レティシアが言うと、皆が一斉に顔を上げた。


「大事なのは、紐だけ替えれば札を誤魔化せるとわかったことです」


 豆売りの女主人が苦々しく言う。


「また仕事が増えるね」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「札に穴を二つ開けましょう。町内、炊事場、外向けで紐の通し方も変える。形、色、紐の通し方。三つ揃わなければ通さない」


 ヨハンが唸った。


「面倒だな」


「面倒だけれど、抜かれにくくなるわ」


 ガレスがぽつりと言う。


「証拠棚と同じだ」


 レティシアは彼を見る。


「どう同じ?」


「封印札も、たぶん札だけじゃなくて、封の仕方とか、紐とか、全部見ないと駄目なんですよね」


「その通りよ」


 ガレスは少し照れくさそうに頭をかいた。


「最近、嫌でも覚えます」


「いいことね」


 豆売りの女主人が笑う。


「昔は札なんか見向きもしなかった男がねえ」


「うるさいな」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、レティシアは内心で警戒を強めていた。


 空箱。

 証拠棚。

 借金。

 小金貸しの帳面。

 そして今、豆札への細工。


 白蔦会はまだこの町を見ている。

 直接大きく叩くのではなく、小さな誤魔化しを積んで、信頼を削ろうとしている。


 それなら、こちらも小さな手順を積むしかない。


 夕方、帳場では二つの記録が並んだ。


 一つは、小金貸しの焼け帳面の解読。

 もう一つは、豆札改ざん未遂への対応。


 ルイスは二つを見比べ、苦笑に近い顔をした。


「本当に、また豆と証拠が並びました」


「そうね」


「でも、今回は少し怖いです。豆札まで狙われるなんて」


「狙われているのは豆札ではないわ」


 レティシアは答えた。


「町の信用よ」


 ディルクが低く続ける。


「帳場の手順が面倒だ、札など信用できない、どうせ誰かが誤魔化す。そう思わせたい」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「だから、誤魔化しが見つかった時こそ、手順を増やす理由を見せる」


 ルイスはゆっくり頷いた。


「面倒になったのではなく、守りが増えた」


「そういうこと」


 夜になり、証拠棚に新しい写しが加えられた。


 封印二号の焼け帳面は、原本のそばに写しを置く。

 さらに別紙で、現時点の符丁解読一覧を添える。


 豆。市場、食料流通。

 火。中継小屋、夜火、夜番。

 箱。証拠箱、香木箱、封印対象。

 白石。指輪の連絡役。

 鈴。山羊の鈴亭、受け渡し場所。

 若。白蔦の若君、王都側上位者。


 それを見たルイスは、小さく言った。


「こうして並べると、白蔦会が見ていたものがわかりますね」


「ええ」


 レティシアは静かに答えた。


「彼らは町の全部を盗める形で見ていた」


 豆を食料ではなく符丁として見た。

 火を暖かさではなく襲撃地点として見た。

 箱を証拠ではなく壊す対象として見た。

 鈴を宿ではなく受け渡し場所として見た。


 そして若は、王都へ繋がる。


「彼らは、この町を人が暮らす場所として見ていなかったのね」


 レティシアの声は静かだった。


「だから負けないわ」


 ルイスが顔を上げる。


「閣下?」


「暮らす場所として見ている人間の方が、最後には強いもの」


 その夜の記録は長くなった。


「焼け残った小金貸し帳面の符丁照合を実施。豆、火、箱、白石、鈴、若の各記号について仮解釈を作成。白蔦会末端網は、市場、中継小屋、証拠棚、山羊の鈴亭、王都側上位者を符丁化して管理していた可能性あり。細目の質屋は西小道から逃亡、銀留め具を支払い代替に使用した証言あり。北口中継場では豆札の紐付け替えによる改ざん未遂が発生。札形状、色、紐通しの三重確認へ変更」


 ルイスが書き終えると、レティシアは少しだけ目を閉じた。


「追記」


「はい」


「敵は町を符丁で見ている。だが私たちは、そこに暮らす人の顔を知っている。だから豆は豆であり、火は火であり、箱は守るべき記録であると、何度でも書き直す。」


 窓の外では、夜番の声がした。


 証拠棚の前を兵が通り、中継小屋の方では町の夜番が火を確かめている。


 白蔦会がこの町を記号に変えようとしても、町はまだ人の声で動いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ