第69話 空箱を帳場に並べる
差出人不明の空箱が届いた翌朝、町には薄い不安が漂っていた。
誰かが大声で騒いだわけではない。
泣き出す者がいたわけでも、荷が止まったわけでもない。
井戸はいつも通り回った。
炊事場からは湯気が上がった。
北口中継場では、豆袋につける札の形を間違えないよう、ガレスが若い荷運びたちへ何度も説明していた。
それでも、人の視線は時折、帳場の方へ流れる。
白蔦会。
その名を、町の者全員が正確に知っているわけではない。
だが、差出人のない空箱が届いたこと、箱に香木の匂いが残っていたこと、そしてその箱がすぐ帳場へ運び込まれたことは、もう広まっていた。
不気味な荷だった。
中身がないからこそ、かえって怖い。
レティシア・エーヴェルシュタインは、その空気を帳場の窓越しに感じていた。
机の上には、例の空箱が置かれている。
すでに布で包み直され、箱底の傷の位置も写し取られていた。香木の残り香を逃がさないよう、ルイスが乾いた薄布を別に用意している。
ルイスは、朝から何度もその箱を見ていた。
「気になりますか」
レティシアが声をかけると、彼は少し恥じたように顔を上げた。
「はい。中身がないのに、こんなに重く感じる箱は初めてです」
「そうね」
「何も入っていないのに」
「何も入っていないことに意味があるのでしょう」
ルイスは小さく息を呑んだ。
空箱は、ただ空なのではない。
“こちらは見ている”という脅し。
“証拠を持っていると思うな”という挑発。
あるいは、“箱を扱う者の側にまだ手が届く”という示威。
どれにせよ、隠せば不安は濃くなる。
だからレティシアは、隠さないことにした。
「ルイス」
「はい」
「この箱を、帳場の証拠棚に並べます」
ルイスは驚いて目を見開いた。
「人目につく場所に、ですか」
「ええ。ただし、触れられないように」
「町の方々が不安になりませんか」
「隠した方がもっと不安になるわ」
そう言ったところで、ディルク・ヴァルゼンが入ってきた。
「証拠棚に出すと聞きました」
「早いわね」
「兵から聞きました」
「反対?」
「いいえ」
ディルクは机の上の箱を見た。
「隠せば、向こうは“怯えた”と見るでしょう。見えるところに置けば、“受け取ったうえで管理している”と示せる」
「同じ考えね」
「ただし、夜番は増やします」
「お願い」
ディルクは短く頷き、それから低く言った。
「町の者にも、見せるのですか」
「全部は説明しないわ。白蔦会の符丁の細部も、王都との線もまだ伏せる。でも、差出人不明の不審荷が届き、帳場で記録して保全していることは伝える」
「十分でしょう」
「ええ」
しばらくして、帳場の前に小さな人だかりができた。
大げさなものではない。
豆売りの女主人、ヨハン、ガレス、鍛冶屋の親父、蹄鉄屋の主人、炊事長。
それから、たまたま近くにいた若い荷運びや井戸番の兵たち。
皆、落ち着かない顔をしている。
レティシアは、箱を布に包んだまま机の上へ置いた。
「昨日、北口中継場に差出人不明の荷が届きました」
ざわめきが起きる前に、彼女は続ける。
「中身は空です。ただし、香木の残り香と、箱底に意図的につけられた傷がありました。不審荷として、帳場で正式に記録し、証拠棚で保全します」
豆売りの女主人が、腕を組んで眉をひそめた。
「気味が悪いね」
「ええ」
レティシアは素直に頷いた。
「気味が悪いものは、気味が悪いまま隠してはいけないと思っています」
「隠したら、もっと気味が悪い」
豆売りの女主人は、ぽつりと言った。
その言葉に、何人かが小さく頷いた。
ヨハンも箱を見ながら言う。
「変な荷ほど、見えるところに置いた方がいい。荷札もつけずに倉庫へ突っ込むから、あとで誰の荷かわからなくなるんだ」
「今回は、荷札ではなく封印札をつけます」
レティシアが答えると、ヨハンは真面目な顔で頷いた。
「そっちの方がいい」
ガレスが少し不安そうに問う。
「これ、俺たちが触ったらまずいやつですよね」
「ええ。触らないで」
「ですよね」
彼はすぐ若い荷運びたちへ振り返った。
「聞いたな。証拠棚のものは触るなよ。好奇心で触ったら、俺が怒られる」
「ガレスさんが怒るんじゃないんですか」
「俺も怒る。でも先に閣下が困る」
妙に素直な言い方で、場に少しだけ笑いが生まれた。
その笑いは小さい。
だが、大事だった。
脅しの箱を前にしても、町が完全には縮こまっていない。
レティシアはルイスへ視線を向ける。
「記録を」
「はい」
ルイスは帳面を開き、読み上げた。
「不審荷記録第一号。北口中継場にて発見。差出人不明。空箱。香木残香あり。箱底に意図的な線傷あり。現地証言により、白蔦会系符丁の可能性。目的は脅迫、監視示唆、または証拠攪乱と推定。ただし現時点で断定せず。帳場証拠棚に封印保全」
読み上げが終わると、周囲はしばらく静かだった。
鍛冶屋の親父が、低く言う。
「不審荷記録第一号、か」
「ええ」
「第二号が来ねえことを祈るばかりだな」
豆売りの女主人がすぐに返した。
「来たら来たで、また札をつけるしかないだろう」
「肝が据わってるな」
「あんたに言われたくないね」
今度は、少し大きな笑いが起きた。
レティシアはその空気を見ながら、内心で静かに息を吐いた。
町は怯えている。
それは当然だ。
だが、怯えたまま止まってはいない。
これなら、まだ進める。
空箱は、帳場の証拠棚へ移された。
棚はこれまで古い帳簿や封書の写しを置く場所だったが、今日から少し形を変えることになった。
ディルクの指示で棚の前に細い柵を作り、兵が夜番の巡回に入る。
ルイスは封印札へ番号を書き込んだ。
証拠棚・封印一号。差出人不明空箱。
その札が貼られた瞬間、空箱はただの不気味な荷ではなくなった。
記録された証拠になった。
午後、リュカが帳場へ呼ばれた。
彼は証拠棚に置かれた空箱を見るなり、顔を強張らせた。
「大丈夫?」
レティシアが問うと、リュカは少し遅れて頷いた。
「……はい。ただ、見えるところにあると、変な感じです」
「隠した方がよかった?」
「いえ」
リュカは小さく首を横に振った。
「隠されたら、たぶんもっと怖かったです。白蔦会は、見えないところで物が動くのを好むので」
「でしょうね」
「見えるところに置かれるのは、向こうにとって嫌だと思います」
「なら、正解ね」
リュカは箱を見つめながら、ぽつりと言った。
「白蔦会は、箱を使うのが好きでした」
「香木箱?」
「それだけじゃありません。空箱も、封筒も、札も。中身が大事な時もありますけど、中身がないことで意味を持たせる時もあります」
「今回のように?」
「はい」
ルイスがすぐに書き留める。
リュカは、しばらく考えてから続けた。
「“箱は見ている”は、ただの脅しじゃないです。たぶん、“帳場の中にも目がある”って意味もあります」
ルイスの筆が止まった。
ディルクの表情が変わる。
「内通者を示唆しているのか」
「本当にいるかはわかりません。でも、そう思わせるために使うこともあります」
レティシアは静かに目を伏せた。
敵は箱を送った。
中身はない。
けれど、疑いを入れてきた。
誰が見ているのか。
帳場の中に目があるのではないか。
町の中に裏切り者がいるのではないか。
そう思わせれば、人の信頼は鈍る。
「よくできた嫌がらせね」
レティシアが言うと、リュカは苦い顔で頷いた。
「はい」
「でも、全員を疑って仕事を止めるわけにはいかない」
ディルクが低く言った。
「内側の警戒は強めます。ただし表には出しすぎない」
「お願い」
レティシアは証拠棚を見た。
「疑いを撒かれた時ほど、手順を守る。誰かの勘で責めない。記録で見る」
ルイスが、少しだけ強い声で答えた。
「はい」
その日の夕方、町はいつも通りに動いていた。
空箱の話は広がったが、荷は止まらなかった。
豆札の形は新しくなり、三角札の炊事場行き豆が、間違えずに運ばれるようになった。馬小屋跡では、ヨハンとガレスが石敷きの端を直している。
ただ、帳場の前を通る人は、少しだけ証拠棚の方を見る。
見る。
そして、通り過ぎる。
それでいいのだとレティシアは思った。
怖いものがあると知って、それでも仕事へ戻る。
その繰り返しが、町を少しずつ強くしていく。
夜になった。
帳場の灯りが落とされ、証拠棚の前には封印札が白く浮かんでいる。
夜番の兵が一度巡回し、次に町の夜番が中継小屋へ向かった。
風は弱い。
三つの火は穏やかに燃えている。
その夜半過ぎ。
証拠棚のある帳場裏の廊下で、かすかな音がした。
木が軋むような、ほんの小さな音。
廊下の陰に、人影が一つ。
ゆっくりと棚へ近づいていく。
手には、小さな金具のようなものが握られていた。
封印札へ触れようとした、その瞬間。
「そこまで」
低い声が響いた。
影がびくりと止まる。
物陰から出てきたのは、夜番の兵だった。
さらに反対側の戸口から、町の夜番も顔を出す。
中継小屋の夜火分散以降、見回りの経路は少し変えられていた。帳場裏を完全な死角にしないよう、町側の夜番と兵の巡回が交差する形になっている。
その仕組みが、今夜は効いた。
「何してる」
兵が問う。
影は後ずさろうとした。
だが、背後からガレスの声がした。
「逃げるな」
若い荷運びの一人だった。
顔は青ざめ、手は震えている。
握っていた金具が床に落ちた。
封印札を剥がすための、薄い刃だった。
兵が近づく。
若者はその場に崩れるように膝をついた。
「違う……俺、壊すつもりじゃ……」
ガレスが息を呑む。
「お前、昼間も石運んでたやつじゃないか」
若者は、顔を上げられなかった。
夜番の兵が彼を押さえ、証拠棚から離す。
騒ぎはすぐ、帳場へ伝えられた。
しばらくして、外套を羽織ったレティシアが現れた。
眠っていたはずなのに、その目は冴えていた。
ディルクもすでに来ている。
レティシアは床に膝をつく若者を見た。
「名前は」
若者は震える声で答えた。
「……ニコ」
「誰に頼まれたの」
ニコは唇を噛んだ。
「言えません」
ディルクが一歩前へ出る。
だがレティシアは、静かに手を上げて止めた。
「言えないのは、怖いから?」
ニコの肩が震えた。
「母が……借金を」
それだけで、場の空気が変わった。
ガレスの顔色が悪くなる。
豆売りの女主人がいれば、きっと黙ってはいなかっただろう。
レティシアは、少しだけ目を細めた。
白蔦会は、箱だけを送ってきたのではない。
町の弱いところにも、手を入れていた。
「あなたがしたことは罪よ」
レティシアは静かに言った。
ニコはうつむいたまま、ぎゅっと目を閉じた。
「でも、今ほしいのはあなたを罰することだけではない」
彼が恐る恐る顔を上げる。
「あなたを買った相手を見つけることよ」
夜の帳場に、沈黙が落ちた。
証拠棚には、封印一号の空箱がそのまま残っている。
箱は見ている。
だが、帳場も見ていた。




