第68話 療養院の男
王都外れの療養院は、静かな場所だった。
静かすぎる、とカイルは思った。
王都の中心から馬車で半刻ほど離れただけで、通りの音は薄くなり、石畳も古びる。貴族街の整えられた庭園とは違い、このあたりの木々は枝を伸ばすままに任され、壁際には冬を越した枯れ草がまだ残っていた。
療養院は、古い修道院を改装した建物だという。
白い壁はところどころ剥がれ、尖った屋根の下には小さな鐘が吊られている。かつては祈りの音を響かせていたのだろうが、今は風が吹いた時に、かすかに揺れるだけだった。
カイルは、王立書庫の下級調査員という名目で門を通された。
もちろん本当の身分は出していない。
第二王子ルシアンの近習であることも、この場では伏せている。
受付にいた年配の女は、カイルの差し出した書庫印を見るなり、少し困った顔をした。
「記録確認、でございますか」
「はい。三年前の療養者名簿と、外部支援記録の照合です」
嘘ではない。
ただし、本当に見たいのは名簿ではなく、一人の男だった。
「ベルナール・ロック様についても確認が必要です」
その名を出した瞬間、女の目がわずかに揺れた。
「ベルナール様は……ご体調が優れませんので」
「面会ではありません。療養記録の確認です。必要なら、ご本人には短くお尋ねします」
「ですが、あの方はヴァイスナー家より……」
そこまで言って、女は口を閉じた。
カイルは穏やかに微笑んだ。
「王立書庫は、療養院の運営に干渉するために来たわけではありません。ただ、記録上の齟齬を確認したいだけです」
最近、何度も聞いた言い回しだった。
ルシアンが辺境に送った書簡にも、似たような文があった。
干渉ではない。
記録整理だ。
その言葉は、時に剣より便利だった。
女は迷った末に、奥へ案内した。
廊下は冷えていた。
壁には古い聖句が残り、窓から差し込む光は薄い。部屋の前を通るたび、薬草と湿った布の匂いがした。どこかで誰かが咳をしている。足音を殺して歩く療養院の者たちの顔には、疲れと慣れが混じっていた。
そして、廊下の突き当たりに、ひとりの男が立っていた。
療養院の者ではない。
服装は地味だが、姿勢が違う。
剣は見えない。けれど、腰の重心が明らかに護衛のものだった。
見張りだ。
「ベルナール様のお部屋です」
案内役の女が小さく言う。
見張りの男が、カイルを値踏みするように見た。
「面会は許可されていない」
「面会ではありません。王立書庫の記録確認です」
「聞いていない」
「今、聞きましたね」
カイルは穏やかに返した。
男の眉が動く。
面倒な相手だと思ったのだろう。
「ヴァイスナー家の許可が要る」
「療養院の記録確認に、貴家の許可は不要です」
声は荒げない。
だが、引かない。
男は一瞬、迷った。
その迷いが答えだった。
彼は正規の権限でこの部屋を守っているのではない。誰かの命で、非公式に“見ている”だけだ。
カイルは畳んだ書類を差し出した。
「必要であれば、王立書庫へ正式に抗議を。対応は後ほどいたします」
見張りの男は、しばらくカイルを睨んだ。
やがて、舌打ちを飲み込むように顔をそむけた。
「短くしろ」
「もちろんです」
扉が開いた。
部屋の中は、思ったより狭かった。
窓際に寝台。
古い机。
水差し。
薬湯の器。
そして、膝に毛布をかけて座る痩せた男。
ベルナール・ロックは、こちらを見ていた。
年は五十前後だろう。
頬はこけ、髪は薄く、右手がかすかに震えている。だが、目だけはぼやけていなかった。
病人の目ではない。
何かを長く恐れてきた者の目だった。
「……王立書庫?」
かすれた声。
「はい。カイルと申します」
「書庫が、今さら私に何の用だ」
「三年前の北方旧所領に関する記録を確認しています」
ベルナールの指が、毛布の上で小さく動いた。
見張りの男が扉の近くで腕を組む。
カイルはそれを横目で確認し、あえて気にしないふりをした。
「ベルナール・ロック様。あなたはかつて、ヴァイスナー家の臨時調達係でしたね」
「……昔の話だ」
「三年前、《山羊の鈴亭》という宿をご存じですか」
その瞬間、ベルナールの喉が鳴った。
答える前に、身体が答えていた。
カイルは続ける。
「香木小箱二つ。鉱石見本箱一つ。従者一名」
ベルナールは目を閉じた。
「やめろ」
「青脈鉱石」
「やめろと言った」
声は弱い。
だが、震えていた。
恐怖だけではない。
長く蓋をしていたものが、今にもこぼれそうな震えだった。
見張りの男が一歩動く。
「調査員殿、そこまでだ」
「まだ質問は始まったばかりです」
「病人に負担をかけるな」
カイルはゆっくり振り返った。
「では、あなたが答えますか」
男は黙った。
「三年前、ベルナール・ロック氏の名で北方旧所領に関する記録が動いています。あなたはその内容をご存じですか」
「……俺は関係ない」
「なら、黙っていてください」
穏やかな口調だった。
だが、部屋の空気は明らかに硬くなった。
ベルナールが小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「若いのに、よく喋る」
「書庫の者ですから」
「書庫の者は、そんな目をしない」
ベルナールはカイルを見た。
「あんた、誰の使いだ」
「記録の使いです」
「ふ……」
ベルナールはまた笑った。
今度は少しだけ、苦い笑いだった。
「記録か。嫌なものだ。紙は死んだふりをするが、腐らない」
「腐らない紙が出てきました」
カイルは懐から写しを取り出した。
原本ではない。
辺境から送られた《山羊の鈴亭》宿帳写しの一部。
それを見せた瞬間、ベルナールの顔から血の気が引いた。
「……まだ、あったのか」
「ご存じなのですね」
「知らない」
「今、まだあったのか、と」
ベルナールは口を閉じた。
見張りの男が険しい声を出す。
「もう十分だ」
カイルは無視した。
「あなたが運んだのですか」
「私は……」
ベルナールの右手が震える。
「私は、箱を運んだだけだ」
言った。
ついに。
カイルは声を落とす。
「中身は?」
「知らない。いや……見てはいない」
「見てはいないが、知っていた」
ベルナールは苦しげに息を吸った。
「青い石だと、聞いた」
「誰から」
「……」
「誰から聞いたのですか」
沈黙。
窓の外で、枯れ枝が風に揺れていた。
ベルナールは唇を噛んだ。
「私は、決めていない」
「では、誰が決めた」
「私は箱を運んだだけだ。宿へ行けと言われた。箱を受け取り、王都へ戻せと。従者は見張りだった。私の従者ではない」
見張りの男が強く言った。
「黙れ」
ベルナールがびくりと肩を震わせる。
カイルは、その一瞬を見逃さなかった。
「誰の従者ですか」
「知らない」
「白蔦の若君?」
ベルナールの目が大きく開いた。
答えはそれで十分だった。
「白蔦の若君とは、エドガル・ヴァイスナー卿ですか」
「違う」
即答だった。
早すぎた。
カイルは静かに見つめる。
「では、誰です」
「言えない」
「言えば、あなたが殺されるから?」
「……」
「それとも、もう誰かを売ったことになるから?」
ベルナールは顔を歪めた。
見張りの男が、今度は本当にカイルへ近づいた。
「出ろ」
その瞬間、廊下の向こうから別の足音がした。
療養院の女の声が慌てて響く。
「お待ちください、今は――」
次に、落ち着いた男の声。
「ヴァイスナー家より迎えに参った」
カイルは扉へ目を向けた。
来た。
早すぎる。
いや、こちらの訪問が伝わっていたのだ。
ベルナールの顔が引きつった。
「……いやだ」
小さな声だった。
「私は、まだ……」
カイルは即座に判断した。
このままでは移される。
移されたら、次に会える保証はない。
だが、ここで強引に連れ出す権限もない。
カイルは机の上の水差しを見た。
そして、ベルナールへ近づき、記録確認用の紙片を一枚置いた。
「書けますか」
ベルナールは彼を見る。
「何を」
「あなたが今、言えることを一行だけ」
見張りの男が怒鳴る。
「勝手なことを――」
カイルは低く言った。
「療養記録の確認署名です」
男が一瞬詰まる。
ベルナールは震える右手で筆を取った。
うまく動かない。
墨が滲む。
それでも、彼は短く書いた。
箱は若君へ戻した。私は中身を決めていない。
その下に、震えた字で名。
ベルナール・ロック。
カイルは紙を乾かす間も惜しみ、素早く挟み紙で押さえて懐へしまった。
次の瞬間、扉が開いた。
ヴァイスナー家の使いと思われる男が二人、部屋へ入ってきた。
丁寧な服装。
だが、目は笑っていない。
「ベルナール殿、療養先を移します」
ベルナールは答えなかった。
カイルは穏やかに言う。
「王立書庫の確認は終わっていません」
「後日、正式に」
「どちらへ移すのですか」
「家の手配です。部外者に申し上げる必要はございません」
「そうですか」
カイルはそれ以上、食い下がらなかった。
今は紙を持ち帰る方が大事だ。
去り際、ベルナールがカイルを見た。
その目は、助けを求めているようにも、諦めているようにも見えた。
廊下へ出ると、療養院の空気はさっきより冷たく感じられた。
カイルは歩きながら、懐の紙片を押さえた。
短い一文。
だが、ベルナール本人の署名がある。
これで、箱がベルナールの手を通ったことは確定する。
そして“若君”へ戻したことも。
まだ名はない。
だが、刃はまた少し鞘から出た。
その頃、辺境では北口中継場に不審な荷が届いていた。
差出人は空欄。
荷札は古く、誰の手でつけられたのかも曖昧だった。
ヨハンが眉をひそめる。
「こんなの、通していいのか?」
ガレスが荷札を見る。
「札が変だな。外向けでも町内でもない」
「帳場へ持っていくか」
「そうしよう」
以前なら、誰かが中を開けてしまったかもしれない。
だが今は違う。
わからない荷は帳場へ。
その習慣が、少しずつ根づいていた。
帳場へ運ばれた小箱を見た瞬間、レティシアの表情が変わった。
箱は空だった。
だが、内側に香木の匂いが残っている。
ルイスが息を呑む。
「これ……」
「ええ」
レティシアは箱の底を見た。
細い傷がある。
リュカを呼ぶと、彼はそれを見て顔を青くした。
「これは……“箱は見ている”」
「どういう意味?」
「監視されています、という意味です。白蔦会の脅しです」
部屋の空気が冷えた。
ディルクが低く言う。
「挑発か」
レティシアは箱から目を離さなかった。
「挑発でしょうね」
「どうします」
「記録するわ」
即答だった。
ルイスが顔を上げる。
「隠さないのですか」
「隠したら、向こうの思うつぼよ」
レティシアは静かに言った。
「見られていると脅すなら、こちらも見える場所へ置く。何が届き、どう記録され、どう封じられたか。全部残す」
ヨハンが横からぼそりと言った。
「荷と同じだな」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「変な荷ほど、隠さず札をつけるの」
その夜、王都ではカイルがルシアンへ紙片を差し出していた。
ルシアンはベルナールの震える字を読んだ。
箱は若君へ戻した。私は中身を決めていない。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、静かに呟く。
「……生きていてくれたか」
カイルは頷く。
「ですが、ヴァイスナー家の者が移しました」
「行き先は?」
「不明です。追わせています」
「急げ。ただし、また言うが走るな」
「承知しています」
ルシアンは紙片を丁寧に封じた。
その同じ夜、辺境の帳場では、空箱に封印札がつけられていた。
レティシアは今日の記録を口述する。
「差出人不明の香木残香付き空箱が北口中継場へ到着。箱底に白蔦会符丁と思しき傷あり。リュカ証言では“箱は見ている”を意味する監視・脅迫の符丁。挑発または証拠攪乱の可能性あり。隠匿せず、帳場にて正式登録、封印保全とする」
ルイスが書き終える。
レティシアは少しだけ間を置いた。
「追記」
「はい」
「見られていると脅す者には、こちらが見返していると記録で答えればいい。箱が見ているなら、帳場もまた箱を見ている。」
窓の外では、三つの火が今日も揺れていた。
王都ではベルナールが消されかけ、辺境には空箱が届いた。
白蔦会は、確かにこちらを見ている。
だがこちらも、もう見られるだけの土地ではなかった。




