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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第64話 ベルナールという名

 ベルナールという名は、帳場の空気を変えた。


 ヴァイスナー侯爵家。

 ランベール香房。

 銀狐商会。

 商務院。

 北方旧所領。

 香木の小箱と、鉱石の見本箱。


 それぞれはまだ、細い糸だった。


 だが《山羊の鈴亭》の宿帳に残っていたその名は、糸の結び目のように見えた。


 王都の貴族本人ではない。

 商人でもない。

 けれど、貴族の言葉遣いを知り、夜に代官所へ出入りし、香木の箱と鉱石見本を扱う者。


 調達役。

 使い走り。

 あるいは、表に出ない家付きの手足。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、朝の帳場で宿帳の写しを見つめていた。


 ベルナール。

 従者一名。

 馬一頭。

 小箱三。


 短い記録だった。

 短いからこそ、余計な言い訳がない。


「ベルナールという名だけでは、王都に照会しても候補が多すぎますね」


 ルイスが言った。


 彼の前には、昨夜作った写しが三枚並んでいる。

 一枚は宿帳の該当頁。

 一枚は旧代官所の鉱石見本箱の移動控え。

 一枚はランベール香房の香木請求書。


「ええ。ただの名だけならね」


 レティシアは頷いた。


「でも、条件をつければ絞れるわ」


「条件、ですか」


「王都貴族家の調達役、または従僕。ヴァイスナー家かその分家筋と関係がある者。ランベール香房、あるいは香料商の荷を扱った記録がある者。北方旧所領の旧代官所へ来訪した可能性がある者」


 ルイスはすぐに書き留める。


「ベルナール、王都貴族家調達役、ヴァイスナー家関係、ランベール香房、北方旧所領来訪……」


 ディルク・ヴァルゼンが窓際から口を開いた。


「従者一名も忘れない方がいい」


「ええ」


 レティシアは宿帳の写しへ視線を落とす。


「ベルナール本人より、従者の方が口を滑らせている場合もあるわ」


「名は残っていませんが」


「宿帳にはね。でも町の誰かが覚えているかもしれない」


 そこで、帳場の隅にいたロッソが鼻を鳴らした。


 昨日、古い宿帳を持ってきた元宿屋の主人だ。宿帳を返す前に、もう一度聞き取りをしたいと頼み、朝から来てもらっていた。


「従者の方は、顔を覚えていますよ」


 全員の視線が向く。


 ロッソは少し居心地悪そうに肩をすくめた。


「いや、名前は知りません。ただ、変な男だったんで」


「変?」


 レティシアが問う。


「ああ。従者にしちゃ、手が綺麗すぎた」


 ディルクの眉が動く。


「働く者の手ではなかった?」


「ええ。荷を運ぶ時も、手袋を外さなかった。宿屋ってのは、客の手をよく見るもんです。金を払う手、荷を持つ手、剣を抜く手。あいつは荷を持つ手じゃなかった」


「護衛?」


「それも違う。腰に剣はあったが、立ち方が硬い。剣を使うってより、剣を持つ身分のふりをしてる感じでしたな」


 レティシアは静かに聞いていた。


 従者ではない。

 護衛でもない。

 荷運びでもない。


 なら、何か。


「監視役かもしれないわね」


 そう言うと、ルイスが顔を上げた。


「ベルナールを、ですか?」


「ええ。あるいは、代官所側を」


 ディルクも頷く。


「家の意向から外れないように見張る者。もしくは、取引の証人」


 ロッソが低く笑った。


「そんな立派なもんだったかは知りませんが、宿屋の飯に文句をつける割に、味の違いはわかってねえ男でした」


「それも記録するの?」


 ルイスが真面目な顔で聞いたので、ロッソはぎょっとした。


「いや、そこまでは」


 レティシアは少しだけ笑った。


「味の話は要らないわ。でも、手袋を外さなかったこと、荷を持つ手ではなかったこと、剣に慣れていない様子だったことは記録して」


「はい」


 ルイスが書き始める。


 ロッソはその様子を見て、ぽつりと呟いた。


「本当に、何でも残すんですな」


「何でもではないわ」


 レティシアは答えた。


「あとで意味を持つかもしれないことだけ」


「それがわかるのがすごい」


「わからないから残すのよ」


 ロッソはしばらく黙り、それから少しだけ笑った。


「なるほど。宿帳と同じだ」


「そうね」


 レティシアは宿帳へ目を落とした。


「宿帳は、泊まった時にはただの名前でも、後になって道を示すことがある」


 ロッソはその言葉を聞き、少し誇らしげに顎を上げた。


「なら、捨てなくてよかった」


「ええ。本当に」


 午前のうちに、王立書庫へ送る新しい照会の骨子が整った。


 ベルナールという名。

 従者一名の特徴。

 《山羊の鈴亭》の宿帳写し。

 香木小箱二、鉱石見本箱一の同日移動。

 鉱石見本箱が夜間に代官所へ運ばれ、戻らなかったこと。

 翌朝、香木小箱二のみ北へ出立したこと。


 ただし、レティシアはすぐに封をしなかった。


「まだ何か足りませんか」


 ルイスが問う。


「こちら側で、もう一つ確認してから送る」


「何を?」


「鉱石見本箱が代官所に残ったなら、その後どこへ行ったか」


 ディルクが低く言った。


「北倉庫か、王都行きの荷か」


「ええ。香木は北へ戻った。でも鉱石見本は代官所へ入ったまま戻っていない。なら、その先の記録があるはず」


 ハルトマンが古帳簿をめくりながら答えた。


「鉱石見本箱の保管控え、あるいは王都送付控えですな」


「探しましょう」


 その作業は、昼過ぎまで続いた。


 旧代官所の倉庫記録。

 鉱山の採掘控え。

 王都への送付目録。

 商務院宛の封箱控え。


 ひとつひとつをめくる。


 古い紙は乾き、端が欠け、時々くしゃみが出るほど埃っぽい。

 マイゼルは黙々と箱を開け、ハルトマンは日付を読み上げ、ルイスはそれを表にしていく。


 レティシアは、その様子を見ながら思った。


 王都にいた頃、自分はこういう作業をずっとしていた。

 ただ、あの頃はそれを誰も仕事だとは思っていなかった。


 綺麗なドレスを着て、王太子の隣に立つ。

 社交の場で微笑む。

 贈答品を選び、席次を整える。


 人の目に映るのは、そういう部分だけだ。


 けれど本当は、その裏にこうした埃まみれの紙がある。

 何年も前の控えを探し、誰が何を運び、どこで止まり、なぜその金が動いたのかを見続ける時間がある。


 それを軽んじた結果、王都は今、綻びを見せている。


「閣下」


 マイゼルが声を上げた。


「これを」


 差し出されたのは、小さな送付控えだった。


 日付は、ベルナールが宿へ泊まった翌日からさらに二日後。


 宛先は王都商務院。

 名目は、鉱石品質確認資料。

 内容物は、青脈鉱石見本、小箱一。


 そして、添え書き。


 ――ヴァイスナー家後援案件につき、優先照合願う。


 帳場の空気が止まった。


 ルイスの筆が、紙の上で動かなくなる。


 ディルクの目が細くなった。


 レティシアは、その控えを静かに受け取った。


 文字は薄い。

 だが読める。


 ヴァイスナー家後援案件。


 これまでの中で、最もはっきりした言葉だった。


「……出たわね」


 レティシアの声は、驚くほど静かだった。


 ルイスは震える息を吐いた。


「これを送れば」


「ええ。かなり進む」


 ディルクが言った。


「原本管理を厳重に」


「もちろん」


 レティシアは控えを机に置いた。


「この写しを王立書庫へ送る。ベルナールの照会と一緒に」


 マイゼルは、少し震えていた。


「私が移した箱の中に、こんなものが……」


「あなたが今、見つけた」


 レティシアは彼を見た。


「それも記録に残すわ」


 マイゼルは目を伏せた。


「はい」


 午後遅く、レティシアは外へ出た。


 帳場の中に長くいると、思考が硬くなる。

 こういう時こそ、町の音を聞く必要があった。


 北口中継場では、豆の札が少し変わっていた。


 町内優先・余剰確認後に出荷検討


 ヨハンが得意げに胸を張っている。


「短くなりました」


「まだ長いわ」


 レティシアが言うと、ガレスが横で笑った。


「でも、“まだ売るな”よりは品があります」


 豆売りの女主人が満足そうに頷く。


「これなら許すよ」


 ヨハンが小声で言う。


「結局、豆売りさんの許可が一番大事なんじゃないか?」


「そうね」


 レティシアは頷いた。


「その豆を一番知っている人だから」


 ヨハンは少し驚いた顔をした。


「そういう意味で言ったわけじゃ」


「でも、そういうことよ」


 レティシアは豆袋を見た。


「何を外へ出すか決める時、持ち主や扱う人を抜きにしたら、また誰かに奪われる形になる」


 ガレスが静かに頷いた。


「鉱石も同じですか」


「ええ」


「だから、山に合わせる」


「そう」


 ヨハンは頭を掻いた。


「豆の話してたのに、鉱石の話になるの、閣下っぽいですね」


「どちらも荷よ」


「まあ、そうですけど」


 そのやり取りに、レティシアは少しだけ肩の力が抜けた。


 帳場ではヴァイスナー家後援案件の文字が出た。

 王都へ送れば、また何かが動くだろう。


 でもここでは、豆の札ひとつで人が真剣に話している。


 その両方が、この物語の今なのだ。


 夕方、王立書庫への新しい封書が整った。


 レティシアは文面を最後に確認する。


 ――《山羊の鈴亭》宿帳写しを添付。

 ――ベルナールと名乗る人物および従者一名が、香木小箱二、鉱石見本箱一を持ち込んだ記録あり。

 ――同日夜、鉱石見本箱が旧代官所へ移動し、宿へ戻らず。

 ――二日後、王都商務院宛てに青脈鉱石見本小箱一を送付した控えを確認。

 ――同控えに「ヴァイスナー家後援案件につき、優先照合願う」との記載あり。

 ――ベルナールなる人物について、ヴァイスナー家、同分家、関連商会、香料商および商務院関係者名簿との照合を願う。


 ルイスが読み終えると、部屋はしばらく静かだった。


「これで、王都側もかなり動かざるを得ませんね」


 ディルクが言った。


「ええ」


 レティシアは封蝋を押した。


「でも、まだ断罪ではない。あくまで照合よ」


「怒るのは、逃げ道を塞いでから」


 ルイスがぽつりと言った。


 レティシアは少しだけ彼を見る。


「覚えたのね」


「はい。何度も聞きましたから」


 マルタが静かに笑う。


「お嬢様の帳場では、皆さま少しずつ口癖が似てまいりますね」


「それは困るわ」


「いえ、よろしいことかと」


 その夜、記録にはこう残された。


 ベルナールと名乗る人物の宿泊記録。

 従者一名の特徴。

 香木小箱二、鉱石見本箱一。

 鉱石見本箱の夜間移動。

 王都商務院宛ての青脈鉱石見本送付控え。

 ヴァイスナー家後援案件の記載。


 レティシアは、最後に静かに口述した。


 名前だけでは弱い。荷だけでも弱い。だが名と荷と日付が揃った時、帳簿は初めて刃になる。


 ルイスがその一文を書き終えた時、外では北口中継場の火が揺れていた。


 その火は小さい。


 けれど、もう簡単には消えない。

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