第63話 逃げる者を追う者
王都の夜は、辺境の夜より明るい。
通りには灯りがあり、馬車の音があり、どこかの屋敷からは楽の音まで漏れてくる。
けれど、その明るさのせいで、かえって闇が濃く見える場所もあった。
商務院下級吏バルマンは、外套の襟を立てて裏通りを歩いていた。
隣には、ヴァイスナー家に出入りする連絡係の男がいる。
名は聞いていない。聞こうとも思わなかった。
いや、本当は聞くべきだったのだ。
けれど、バルマンはそういう男だった。
言われたことをし、見ないふりをし、深く考えずに済む場所へ逃げる。
そうやって、今まで王都の小さな役人として生きてきた。
「本当に、数日だけなんだな」
バルマンは同じ問いをまた繰り返した。
連絡係の男は、少しも苛立たずに答える。
「もちろんです。王立書庫の騒ぎが落ち着くまで、身を隠すだけです」
「私は何もしていない」
「存じております」
「本当に、私は頁を抜いていない。ただ、箱を……少し見せただけだ」
「ええ」
連絡係の声は優しい。
優しすぎるほどだった。
バルマンの足が、ほんの少し鈍る。
「なあ」
「はい」
「私は、戻れるんだろうな」
連絡係は振り返り、穏やかに笑った。
「もちろん。貴方はただ、少し疲れて休んでいただけです」
その言葉を聞いて、バルマンは少し安心しかけた。
だからこそ、自分の後ろを歩く足音に気づかなかった。
ルシアンの近習であるカイルは、少し距離を置いて二人を追っていた。
王都の裏通りは、道を知る者にとっては都合がいい。
建物の影、荷運びの抜け道、夜の商人が使う横道。うまく歩けば、相手に姿を見せずについていける。
ただし、相手もそれを知っていれば話は別だ。
連絡係の男は、たまに足を止める。
窓に映る後ろを見ている。
水たまりの反射を使って、追跡がないか確かめている。
素人ではない。
カイルは無理に距離を詰めなかった。
今ここで捕まえることもできる。
だが、ルシアンの命は違った。
バルマンを守れ。
そして、どこへ連れて行かれるのか見ろ。
主犯を捕まえるには、逃げる者の行き先が必要だった。
二人は、王都西側の職人街を抜け、さらに貴族街の外れへ向かった。
そこには、大貴族の本邸ではなく、使用人や下級管理人が出入りする小さな別邸がいくつもある。
派手ではない。
だが、目立たず人を隠すには向いている。
連絡係は、一軒の古い屋敷の前で止まった。
門灯は消えている。
窓にも明かりはない。
バルマンが不安そうに言う。
「ここか」
「ええ。中でお休みください」
「人がいないように見えるが」
「その方が安全です」
連絡係は門を開けた。
軋む音が夜に細く響く。
カイルは路地の影に身を沈め、屋敷の位置を覚えた。
だが、その時だった。
屋敷の裏手から、もう一人の男が現れた。
黒い外套。
手には小さな革袋。
カイルの背筋に冷たいものが走った。
あれは、隠れ家に迎える者の動きではない。
始末する者の動きだ。
バルマンも、さすがに何かを感じたらしい。
「待て」
彼は足を止めた。
「中に誰かいるのか」
「護衛です」
「護衛なら、なぜ裏から来る」
連絡係の笑みが、そこで初めて消えた。
「バルマン殿」
声が低くなる。
「余計なことを考えない方がよろしい」
バルマンは一歩退いた。
その瞬間、裏手から来た男が早足になる。
カイルは迷わなかった。
「そこまでだ!」
声と同時に飛び出す。
連絡係の男が振り返る。
裏手の男は革袋を落とし、懐へ手を入れた。
刃物。
カイルは短剣を抜き、先に踏み込んだ。
金属音が鳴る。
狭い門前で、刃が交わる。
連絡係の男はすぐ逃げようとしたが、通りの反対側からもう二人、ルシアンの手の者が現れた。
待機させていた兵ではない。
王立書庫付きの警護役だ。地味だが、動きは確かだった。
バルマンは腰を抜かして、その場に座り込んだ。
「ひっ……」
裏手の男は抵抗した。
だが、三人に囲まれ、すぐに腕を取られる。
落ちた革袋から、小さな瓶が転がった。
カイルはそれを拾い上げ、匂いを嗅がずに布で包んだ。
「毒か?」
警護役が問う。
「たぶん」
カイルは短く答えた。
「バルマン殿」
呼ばれたバルマンは、震えながら顔を上げた。
「貴方は今、“休ませる”ために連れて来られたと思っていましたか」
バルマンは答えなかった。
答えられなかった。
カイルは静かに言う。
「貴方は、消されるところでした」
その言葉で、バルマンの顔から完全に血の気が引いた。
王立書庫に戻されたバルマンは、夜明け前まで震えていた。
ルシアンは、彼をすぐには責めなかった。
小さな部屋に座らせ、温い茶を出させ、逃げ道を塞いだ上で、ただ待った。
バルマンは、茶器を持つ手を震わせていた。
「私は……私は、頁など抜いていません」
最初に出た言葉はそれだった。
ルシアンは静かに答える。
「では、誰が抜いた」
「知りません」
「バルマン」
名を呼ばれただけで、男は肩を震わせた。
「あなたが頁を抜いたかどうかは、今ここで決めることではない。だが、あなたが箱に触れた。ノルドを席から外させた。そこまではわかっている」
バルマンは唇を噛んだ。
「命じられたんです」
「誰に」
「白蔦会です」
その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
カイルが視線を上げる。
書庫番長エルザは、記録係として静かに筆を走らせていた。
ルシアンは表情を変えない。
「白蔦会とは」
「商会です。表には出ません。香油や紙、薬種、装飾品を扱う小商人たちの寄合のように見せていますが、本当は……」
「本当は?」
「貴族家の使い走りです」
バルマンの声はかすれていた。
「誰の?」
沈黙。
長い沈黙だった。
ルシアンは急かさない。
やがてバルマンは、吐き出すように言った。
「ヴァイスナー家の……分家筋です。少なくとも、私に命じていたのは分家の者です。本家の若君がどこまで知っていたかは、私は……」
「エドガル・ヴァイスナーの名を聞いたことは?」
バルマンは目を伏せた。
答えは、それだけで半分出ていた。
「あります」
「どこで」
「白蔦会の集まりで、直接ではありません。ただ、“若君のご意向”と」
エルザの筆が止まらない。
ルシアンは、静かに息を吐いた。
若君。
辺境のマイゼルの証言と同じ呼び方だ。
離れた場所で、同じ言葉が出た。
「抜かれた頁はどこへ行った」
「私は、箱を開けられるようにしただけです。頁を抜いたのは白蔦会の者で……」
「名は」
「リュカ」
カイルが思わずルシアンを見た。
辺境で捕まった香油売りと同じ名。
ルシアンはそこで初めて、ほんのわずかに目を細めた。
「リュカは今、辺境で捕らえられている」
バルマンは目を見開いた。
「捕まった……?」
「そうだ」
「では、私は……」
「だから消されかけた」
バルマンは机に突っ伏すように肩を落とした。
泣いたわけではない。
だが、何かが折れた音がしたようだった。
「全部話します」
彼は言った。
「知っていることは、全部」
その頃、辺境では朝が来ていた。
王都でバルマンが口を開いたことを、レティシアたちはまだ知らない。
けれど、帳場はいつもより早く動いていた。
リュカの供述整理。
白蔦会の名。
王都へ送った追加報告の控え。
封印箱の警備記録。
ルイスは、昨日より少し眠たげな顔をしていたが、筆の動きは確かだった。
「閣下、リュカの供述のうち、“白蔦会は王都の小商人の寄合を装っている”という箇所ですが、これはまだ推測扱いでしょうか」
「リュカの供述として書いて。こちらの推測とは分けて」
「はい」
マイゼルが隣で言った。
「旧代官所に来ていた商人風の男も、小商人の寄合だと言っていました。紙と香油を扱うと」
レティシアは顔を上げる。
「それも追加して」
「はい」
「マイゼルの記憶として。断定はしない」
もう何度も繰り返した言葉だ。
けれど、それが大事だった。
断定しないことは、弱さではない。
間違った断定を避けることは、後で相手に逃げ道を与えないための強さでもある。
昼近く、リュカの取り調べが再開された。
彼は昨日よりさらに疲れていた。
だが、その目には諦めに似た色がある。
「王都で、白蔦会の者はバルマンと接触していたのね」
レティシアが問うと、リュカはしばらく黙ってから頷いた。
「はい」
「あなたも会った?」
「一度だけ」
「どこで?」
「商務院の裏手です。夜でした」
「目的は」
「記録箱の中から、抜くべき頁の場所を確認するため」
ルイスの筆が速くなる。
「抜いたのは誰?」
「私ではありません」
「では誰」
「白蔦会の男です。名は……たぶん、オルフェ」
「たぶん?」
「偽名かもしれません」
「顔は?」
「覚えています」
その言葉で、ディルクが動いた。
「描けるか」
「私は絵が下手です」
「特徴を言え」
リュカは少し考えた。
「左耳に傷。髪は薄い茶。声が低い。薬草の匂いがしました」
「薬種商か」
ディルクが呟く。
レティシアは頷いた。
「白蔦会は香油、紙、薬種、装飾品を扱う。繋がるわね」
リュカは顔を伏せた。
「私は、ただ運ぶだけでした」
「そうでしょうね」
レティシアは冷たくも優しくもない声で言った。
「でも、運ぶだけの人間がいなければ、嘘は遠くまで行けない」
リュカは何も言わなかった。
その言葉は、彼に届いたようだった。
夕方、王都から早馬が来た。
驚くほど早かった。
使者は疲れ切っていたが、封書だけはしっかりと守っていた。
封蝋は王立書庫。
添え紙には、第二王子ルシアンの確認済み。
レティシアは封を切った。
そこには、短いが重い文があった。
――商務院下級吏バルマン、保護下に置く。
――同人、白蔦会およびヴァイスナー家分家筋との接触を供述。
――辺境にて捕縛されたリュカの名も、王都側供述に現れる。
――今後、王都側にて白蔦会関係者の保全および聴取を進める。
――貴地におけるリュカの身柄保全を願う。
レティシアは読み終え、静かに息を吐いた。
「繋がったわ」
ルイスが顔を上げる。
「王都でも、リュカの名が?」
「ええ。バルマンが話した」
ディルクは短く頷いた。
「間に合ったのですね」
「そうね」
レティシアは手紙を机へ置いた。
「少なくとも、バルマンは消されずに済んだ」
その言葉に、帳場の空気がわずかに緩んだ。
敵だったかもしれない男。
だが、証人として生き残った。
それは大きい。
夜、帳場では王都からの報告と辺境側のリュカ供述が並べられた。
白蔦会。
バルマン。
リュカ。
ヴァイスナー家分家筋。
王都と辺境、二つの場所で同じ名が重なる。
ルイスは、その並びを見て呟いた。
「本当に、同じ線だったんですね」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「でも、ここからが難しいわ」
「なぜです」
「線が見えれば、相手は切りに来る」
ディルクが低く言った。
「エドガル・ヴァイスナー」
「まだ名を出すには早い」
「ですが、近い」
「ええ。近いわ」
レティシアは窓の外を見た。
中継小屋の火は、今日も三つに分かれている。
その光は小さい。けれど消えずにいる。
王都の闇は深い。
だが、こちらの火ももう、簡単には消えない。
最後に、彼女は今日の記録を口述した。
二つの場所で同じ名が語られた時、影は初めて形を持つ。形を持った影は、もうただの噂ではいられない。
ルイスが書き終えた時、帳場の誰もがしばらく黙っていた。
沈黙は重かった。
けれど、それは怯えだけではなかった。
いよいよ、本当の相手が見え始めていた。




