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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第62話 白蔦会の名

 白蔦会。


 その名が帳場に残された夜、砦の空気は深く沈んでいた。


 誰かが声を荒らしたわけではない。

 兵が走り回ったわけでもない。

 それでも、そこにいた者たちは皆、同じことを理解していた。


 ようやく、影に名前がついたのだ。


 名がつけば、追える。

 追えるということは、相手もまた逃げ方を変える。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、夜の帳場でリュカの供述記録を読み返していた。


 王都商会、白蔦会。

 連絡役、バルマン。

 封印箱の原本確認。

 可能なら封の写し。

 不可なら番人名。


 短い言葉ばかりだった。


 だが、その短さがかえって不気味だった。

 余計なことを知らせず、末端には必要な作業だけを渡す。

 典型的な切り離し方だ。


 リュカは、自分が大きな不正の全体像を知っているとは言わなかった。

 むしろ知らないのだろう。


 知っていれば、もっと言葉の選び方が違ったはずだ。

 彼は白蔦会の名を出した時、怯えていた。裏切った怯えではない。自分がどれほど替えの利く駒だったか、ようやく気づき始めた者の怯えだった。


「お嬢様」


 マルタが茶を置いた。


 湯気が細く上がる。

 その香りは、帳場に残る古紙と蝋の匂いを少しだけ和らげた。


「もうお休みになられては」


「あと少しだけ」


「その“あと少し”は、たいてい夜明けまででございます」


 レティシアは苦笑した。


「今日は本当に少しよ」


「信じたいところでございます」


 マルタはそう言いながらも、それ以上は責めなかった。

 彼女もまた、今夜の記録が軽いものではないとわかっている。


 帳場の隅では、ルイスが写しを整えていた。

 目元には疲れがあるが、筆先は乱れていない。


 彼は一枚書き終えると、慎重に砂を振り、乾きを待った。


「閣下」


「なに?」


「“白蔦会”という名、王都へそのまま送りますか」


「送るわ」


「断定として?」


「いいえ。リュカの供述として」


 ルイスは頷き、すぐに文面を書き直した。


 レティシアはその様子を見ていた。


 以前のルイスなら、こうした違いに怯えたかもしれない。

 今は違う。


 断定できること。

 供述として残すこと。

 反応として記すこと。

 推測として分けること。


 それらを、少しずつ使い分けられるようになっている。


 帳場もまた育っているのだ。


 ディルク・ヴァルゼンが部屋へ入ってきたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。


「リュカの拘束場所を移しました」


「どこへ?」


「砦内の東塔下です。見張りは二名。食事を運ぶ者も固定します」


「ありがとう」


「本人は?」


「消耗しています。ただ、口を割ったことで少し楽になったようにも見えます」


 レティシアは静かに頷いた。


「人は、黙っている方が楽な時もあるけれど、長く抱えるには重すぎる沈黙もあるもの」


 ディルクは少しだけ視線を落とした。


「白蔦会について、兵の古参に聞きました」


「何かわかった?」


「直接の名を知る者はいません。ただ、王都から来る小商人の中に、白い蔦の印を隠し持つ連中がいるという噂は昔からあったようです」


「何を扱うの?」


「香油、紙、装飾品、薬種。いずれも小さく、高く、隠しやすいものです」


「情報を運ぶには都合がいいわね」


「ええ」


 ディルクは机の上に小さな紙片を置いた。


「それと、テオに渡された銀貨ですが、王都の通常貨ではあります。ただ、縁に細工があります」


「細工?」


「目印のような小さな傷です。同じ傷が二枚ともにある」


 レティシアは銀貨を受け取らず、布の上に置かれたまま見る。


 たしかに、縁にごく小さな切り込みがあった。

 偶然とは思いにくい。


「白蔦会の支払い印?」


「可能性があります」


「それも記録して」


「すでに」


 ディルクが短く答えた。


 その声に、レティシアは少しだけ笑った。


「最近、あなたも帳場の人みたいね」


「不本意です」


「そう?」


「私は兵です」


「ええ。でも、記録できる兵は強いわ」


 ディルクは返答に困ったように一瞬だけ黙り、それから低く言った。


「……そういうことにしておきます」


 翌朝、白蔦会の名は限られた者たちにだけ共有された。


 全員ではない。

 だが、町の目として頼れる者には伝える必要があった。


 豆売りの女主人。

 パン屋の娘。

 ヨハン。

 ガレス。

 鍛冶屋の親父。

 蹄鉄屋の主人。


 砦の小会議室に集められた彼らは、最初こそ少し緊張していたが、白蔦会という名を聞くと、互いに顔を見合わせた。


「白い蔦ねえ」


 豆売りの女主人が腕を組む。


「香油売りの袋についてた、あの模様ですか」


「ええ」


 レティシアは頷いた。


「王都から来る商人の中に、その印を持つ者がいる可能性があるわ」


 パン屋の娘が小さく手を上げる。


「白い蔦の印を見たら、すぐ知らせればいいんですか?」


「ええ。ただし、無理に捕まえようとしないで」


 ヨハンが眉を上げる。


「前は捕まえましたけど」


「あれは、相手が逃げたからよ」


「そうでした」


「次も同じとは限らない。相手が複数かもしれないし、武器を持っているかもしれない。だから、まず見る。覚える。知らせる」


 ガレスが真剣に頷いた。


「靴、匂い、指輪、荷の重さ、買ったもの」


「そう」


 レティシアは彼を見る。


「あなたたちは、兵とは違うものが見える。それが必要なの」


 鍛冶屋の親父が鼻を鳴らした。


「つまり、町全体で胡散臭い王都男を見張れって話だな」


「乱暴に言えば、そうね」


 豆売りの女主人がすかさず言った。


「では、王都風の男は豆三袋から」


「それはやめなさい」


「まだ何も言ってませんよ」


「言ったわ」


 小さな笑いが起きた。


 重い話の中でも、この町は妙にしぶとい。


 そのしぶとさに、レティシアは何度も救われている。


「それから」


 彼女は少し声を落とした。


「この話は、町に広めすぎないで」


 豆売りの女主人も、今度は真面目な顔で頷いた。


「わかってます。騒ぎにしたら、相手が来なくなる」


「ええ」


「でも、必要な人には伝えておきます。見る目がある人にだけ」


「お願い」


 会議が終わると、彼らはそれぞれの持ち場へ戻っていった。


 何事もなかったように。


 豆売りは豆を売る。

 パン屋はパンを並べる。

 荷車屋は車輪を見る。

 流民組は石を運ぶ。


 けれど、その目は昨日までより少し鋭い。


 町が、静かに網を張り始めた。


 昼過ぎ、王都へ送る報告書が完成した。


 宛先は二つ。

 王立書庫。

 そして第二王子ルシアン。


 王立書庫への文には、リュカの供述を整理して入れた。


 ――捕縛対象リュカ、三度目の聴取にて“白蔦会”なる王都商会名を供述。

 ――封印箱確認指示の連絡役として“バルマン”の名を挙げる。

 ――当該名は貴都側で浮上した商務院関係者名と一致する可能性あり。

 ――白蔦意匠、白石指輪、香油袋、王都銀貨の細工について写しおよび記録を添付する。


 第二王子への文は、さらに短くした。


 ――辺境にて浮上した“白蔦会”および“バルマン”の名が、王都側調査と交差する可能性あり。

 ――貴殿下におかれては、記録保全に加え、関係者の安全にもご配慮願いたい。

 ――末端の者は切られる恐れあり。


 ルイスが読み上げたあと、少しだけ不安そうに言った。


「“末端の者は切られる恐れあり”は、かなり直接的では」


「直接的に書く必要があるわ」


 レティシアは答えた。


「王都でバルマンという人が浮かんでいるなら、その人が消されるかもしれない」


 ディルクが頷く。


「エドガル側が焦っているなら、なおさら」


「ええ」


 まだエドガル本人の名は文には書かない。

 だが、白蔦会とバルマンが繋がった時点で、相手がどう動くかは想像できる。


 証拠を消す。

 記録を疑わせる。

 そして、人を切る。


 だから先に警告を入れる。


 それが今できる、数少ない手だった。


 同じ頃、王都ではバルマンが怯えていた。


 商務院の下級吏。

 彼は決して大物ではない。


 書類の受け渡しをし、目録の隙間を知り、誰に何を見せればいいかを理解している程度の男だった。

 だからこそ使われた。


 偉すぎる者は目立つ。

 小さすぎる者は鍵に届かない。

 バルマンは、その間にいた。


 彼は小さな自室で、荷をまとめていた。


 服を二枚。

 銀貨を少し。

 古い帳面。

 そして、白蔦の印が押された小さな札。


 札を手に取った時、彼の指が震えた。


 もう持っていてはいけない。

 だが捨てても危ない。

 燃やせば煙が出る。

 隠せば見つかる。


 扉が叩かれた。


 バルマンは飛び上がるように振り返った。


「誰だ」


「私です」


 聞き慣れた声だった。

 商務院の同僚ではない。

 ヴァイスナー家に出入りしている連絡係の男だ。


 バルマンは扉を少しだけ開けた。


「何の用だ」


「エドガル卿より」


 それだけで、バルマンの顔はさらに青くなった。


「私は、もう何も」


「落ち着いてください。逃げる必要はありません」


「嘘を言うな。王立書庫に私の名が出た。もう終わりだ」


 連絡係は穏やかに笑った。


「だからこそ、少し身を隠す場所をご用意しました」


「……どこに」


「郊外の小さな屋敷です。数日だけ」


 バルマンは迷った。


 逃げれば怪しい。

 だが残れば捕まる。


 彼には、自分で判断する力がなかった。


 いや、判断する力を持たないからこそ、今まで使われてきた。


「本当に、数日だけか」


「もちろん」


 連絡係は微笑む。


 その笑顔は、白い布のように薄かった。


 バルマンは荷を取った。


 机の上に置いた白蔦の札をどうするか、一瞬迷う。


「それもお持ちください」


 連絡係が言った。


「なぜ」


「ここに残せば危険です」


 バルマンは頷き、札を懐に入れた。


 その動きを、窓の外から見ている者がいた。


 ルシアンの近習だった。


 彼は書庫番長エルザの手配した下働きに混じり、バルマンの動向を見ていたのだ。


 近習は、バルマンが連絡係と共に裏口から出るのを確認すると、すぐにその場を離れた。


 王立書庫へ戻る道中、彼は一度だけ振り返った。


 バルマンは、まだ自分が逃げていると思っている。

 だが実際には、追い込まれている。


 その違いに気づくには、もう少し時間がかかるだろう。


 夜、辺境では報告書の封が閉じられた。


 レティシアは封蝋を見つめながら、静かに言った。


「王都が間に合えばいいのだけれど」


 ルイスが問う。


「バルマン、という人ですか」


「ええ」


「敵ですよね」


「おそらくは」


「それでも?」


 レティシアは少しだけ考えた。


「敵でも、消されていい証人ではないわ」


 ルイスはその言葉を受け止め、ゆっくり頷いた。


 その日の記録の最後に、レティシアはこう口述した。


 影の組織は、主犯より先に末端を消す。だからこそ、末端の名が出た時、時間との戦いが始まる。


 外では、中継小屋の三つの火が揺れていた。


 遠く王都では、別の火が静かに動き始めている。

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