第61話 書庫番の署名
王立書庫に流れた噂は、思ったより早く広がった。
商務院から移送された北方旧所領関連の控えに欠落があった。
その欠落は、もともと商務院にあった時からのものではなく、王立書庫へ移された後に生じたのではないか。
つまり、書庫の管理に不備があったのではないか。
声高に言う者はいない。
だが、王都という場所では、声高でない噂ほど厄介だった。
廊下の端で交わされる短い会話。
茶器を置く侍女の沈黙。
書庫番を見る商務院役人の妙に丁寧な目。
それらが、紙に書かれない形で空気を濁らせていく。
第二王子ルシアンは、その空気を王立書庫の閲覧室で受け止めていた。
机の上には、商務院から移送された箱の記録が三種類並んでいる。
ひとつは、商務院側の引き渡し目録。
ひとつは、王立書庫側の受領目録。
そしてもうひとつは、移送時に立ち会った書庫番たちの署名控え。
どれも退屈な紙だ。
普通の貴族なら、目を通す前に眠くなるだろう。
だが、退屈な紙ほど嘘を隠しにくい。
ルシアンは、受領目録の端を指で押さえた。
「第三区分、北方旧所領、鉱石搬出関連。箱数三。封蝋確認、異常なし」
近習が横で読み上げる。
「はい。受領時点で封蝋に破損なし、と記されています」
「封蝋が無事でも、中身が無事とは限らない」
「ですが、箱の中身まではその場で全頁確認しておりません」
「だから、そこを突かれた」
ルシアンは淡々と言った。
噂を流した者は、そこを狙っている。
王立書庫は箱を受け取った。
だが受領時、全頁の確認はしていない。
ならば、欠落がいつ起きたかはわからない。
王立書庫が管理不備を起こした可能性もある。
そういう話にしたいのだ。
「殿下」
書庫番長のエルザが、静かに入ってきた。
年配の女性で、背筋がまっすぐ伸びている。
派手なところはない。
だが、この書庫に三十年いる者の目をしていた。
「お呼びでしょうか」
「噂は聞いているか」
「はい」
「怒っているか」
「少し」
エルザは迷わず答えた。
「少しで済むのか」
「怒りすぎると、紙を破りますので」
近習が一瞬だけ反応に困った顔をした。
ルシアンは薄く笑う。
「それは困るな」
「はい。ですので、怒りは脇に置いております」
エルザは机に並ぶ記録を見た。
「箱の受領時、封蝋に異常はありませんでした。これは私も確認しております。ただし、中身を全頁確認していないのも事実です」
「書庫の落ち度か」
「手順上の穴ではあります」
彼女は悔しさを滲ませながらも、そう言った。
言い訳をしない。
そこはルシアンが彼女を信用している理由でもあった。
「では、その穴を塞ぐ」
「はい」
「だが、その前に確認したい」
ルシアンは一枚の紙を差し出した。
「この署名控えだ。商務院から運ばれた箱を最初に受け取った時、立ち会ったのは四名。あなた、書庫番補佐のノルド、写字係のミラ、運搬役のカイ。間違いないか」
「ございません」
「このうち、商務院側の者と個人的な接点がある者は」
エルザは少しだけ黙った。
その沈黙は迷いではなく、正確に言葉を選ぶためのものだった。
「ノルドです」
「理由は」
「妻の弟が商務院に勤めております」
近習がすぐに記録する。
ルシアンは表情を変えない。
「ノルドを疑っているのか」
「疑ってはおりません」
エルザは答えた。
「ですが、噂を流す者がいるなら、利用しやすい接点ではあります」
「そうだな」
ルシアンは頷いた。
ここで大事なのは、犯人を決めつけることではない。
線を引き、接点を可視化し、後で見返せるようにすることだ。
辺境のレティシアも、同じことをしているはずだった。
あちらでは香油売りの沈黙まで記録している。
ならば王都でも、沈黙や噂を紙へ落とさなければならない。
「ノルドを呼べ」
しばらくして、書庫番補佐ノルドがやって来た。
中年の男で、額に汗を浮かべている。
普段から小心なところはあるが、今日はそれが目に見えて強かった。
「殿下、お呼びでしょうか」
「北方旧所領関連の箱を受け取った時のことを聞く」
「はい」
「箱は封じられていたか」
「はい。封蝋に破損はありませんでした」
「中身は確認したか」
「目録の束の表題だけを。全頁は……その、規定通りではございませんでしたので」
「誰がその手順を決めた」
「以前からの慣例です」
「慣例は便利な言葉だな」
ノルドは顔を強張らせる。
ルシアンは責める声ではなかった。
だが、淡々としている分だけ逃げにくい。
「箱を受け取った後、誰かが中身に触れたか」
「記録上は、私とエルザ様、それから写字係ミラが整理のために」
「記録外では?」
ノルドの唇が少し動いた。
ルシアンはそれを見て、声を低くした。
「記録外では?」
「……商務院の役人が一名、内容確認のために戻ってまいりました」
エルザの目が鋭くなる。
「私は聞いていません」
ノルドはうつむいた。
「短時間でした。正式な閲覧ではなく、移送目録に誤りがあるかもしれないと」
「名は」
「バルマンという男です。商務院の下級吏で……私の妻の弟の上役にあたります」
近習の筆が走る音が、室内に響いた。
ルシアンは少しだけ目を伏せた。
見えた。
まだ断定はしない。
だが、噂の出どころへ続く細い線が、一本見えた。
「そのバルマンが箱に触れた時間は」
「ほんの半刻ほどです」
「立ち会いは?」
「私が」
「その間、席を外したか」
ノルドは沈黙した。
エルザが目を閉じる。
答えは、もう見えていた。
「……一度だけ。書庫の鍵束を取りに」
「どれくらい」
「四半刻ほど」
四半刻。
長くはない。
だが、一枚、二枚の頁を抜くには十分だ。
ルシアンは静かに言った。
「ノルド。あなたが頁を抜いたとは、まだ言わない」
「殿下、私は……!」
「だが、あなたの不用意さで誰かが触れた可能性はある」
ノルドの顔が真っ白になる。
「申し訳、ございません」
「謝罪は受け取る。だが必要なのは謝罪ではない。正確な記録だ」
ルシアンは近習へ視線を向ける。
「バルマンの名、出入り時刻、ノルドが席を外した時刻。すべて記録。エルザ、今後は商務院からの照会であっても、書庫内記録へ触れる時は必ず二名以上で立ち会え」
「承知しました」
「それと、閲覧記録の写しを三部作る。一部は私の手元、一部は書庫、一部は封じて保管」
エルザが短く頷く。
「辺境と同じやり方ですね」
「そうだ」
ルシアンは、机の上の署名控えを見た。
「向こうは、自分たちの記録を複数の目で支えている。王都がそれをできないのでは、笑われる」
その言葉に、エルザの口元がほんの少しだけ動いた。
「では、笑われぬようにいたしましょう」
その日の夕方、王太子府ではエドガル・ヴァイスナーが報告を受けていた。
「バルマンの名が出ました」
近侍の声は低い。
エドガルはしばらく何も言わなかった。
窓の外では、王都の夕日が庭園を金色に染めている。美しい景色だった。だが今の彼には、すべてが薄い膜の向こうにあるように見えた。
「ノルドは?」
「落ちたようです。罪を認めたわけではありませんが、バルマンを入れたことは話したと」
「弱い男だ」
エドガルは吐き捨てるように言った。
「バルマンはどこにいる」
「所在確認中です」
「逃がすな」
「はい」
「いや」
エドガルは一度言いかけて、止めた。
逃げれば怪しまれる。
捕まれば喋る。
どちらも悪い。
「……病に倒れたことにしろ」
近侍が顔を上げる。
「それは」
「声が大きい」
「失礼しました」
エドガルは静かに続けた。
「今すぐではない。様子を見る。王立書庫がどこまで掴んでいるかを確かめてからだ」
「承知しました」
近侍が下がったあと、エドガルは机の引き出しを開けた。
中には、古い銀の紙刀が入っている。
白蔦と細剣の意匠。
分家の古い印に合わせて作らせたものだ。
彼はそれを手に取り、しばらく見つめた。
過去は、終わったものだと思っていた。
だが、終わったはずの紙が、辺境で息を吹き返している。
「レティシア……」
口に出した名は、思っていたより苦かった。
一方、辺境では、リュカの三度目の取り調べが行われていた。
今回、レティシアは最初に何も聞かなかった。
ただ、王都へ追加報告を送ったこと。
王立書庫が商務院控えの欠落を調べていること。
そして、王都側で誰がその記録に触れたかを確認していることだけを伝えた。
リュカは黙っていた。
だが、その沈黙は前回より硬い。
情報が王都へ届いた。
自分が守ろうとしている相手が、今も自分を守るとは限らない。
そのことに、彼も気づき始めているのだろう。
「リュカ」
レティシアは静かに言った。
「あなたは、自分が黙っていれば守られると思っている?」
男は答えない。
「王都では今、記録を消そうとした者の名が出始めているわ」
白石の指輪が、わずかに光った。
「あなたの名前も、都合が悪くなれば消されるでしょうね」
リュカが初めて、レティシアを正面から見た。
「脅しですか」
「いいえ」
レティシアは首を横に振る。
「記録を見てきた者としての感想よ」
ルイスの筆が走る。
リュカはしばらく黙っていた。
やがて、かすれた声で言った。
「……名は、リュカで合っています」
部屋の空気が変わった。
レティシアは動かなかった。
「姓は?」
「ありません。少なくとも、使っていません」
「誰に雇われたの」
沈黙。
だが、先ほどまでの沈黙とは違う。
迷っている。
「王都の商会です」
「名は」
「……白蔦会」
ルイスの筆が止まりかけた。
ディルクの目が鋭くなる。
「ヴァイスナー家か」
リュカはすぐに首を振った。
「そう名乗る者はいません。ですが、白蔦の印を持つ者が指示を出します。私は、誰が本当の主かまでは」
「知らない?」
「知らされていません」
その答えは、今までの“知らない”とは違って聞こえた。
完全な逃げではない。
本当に、末端として切られているのだろう。
レティシアは続けた。
「封印箱を探れと命じたのは?」
「白蔦会の連絡役です。王都から来た男。名は……バルマンと呼ばれていました」
ルイスが、今度こそ筆を止めた。
王都側で出た名と、辺境側で出た名が繋がった瞬間だった。
レティシアはゆっくり息を吐く。
「書いて」
ルイスは我に返り、慌てて筆を動かした。
――リュカ、供述を開始。雇用主として王都商会“白蔦会”の名を挙げる。封印箱調査指示の連絡役をバルマンと証言。
リュカはうつむいたまま言った。
「私は、あなた方の箱の中身までは知りません。ただ、原本があれば写しを取れ。なければ番人の名を記せと言われただけです」
「なぜ番人の名を?」
「脅すためか、買うためか」
声は小さい。
「そこまでは」
レティシアは、しばらく彼を見ていた。
ようやく、沈黙にひびが入った。
まだ全部ではない。
だが、はっきりとした名が出た。
白蔦会。
バルマン。
王都と辺境を繋ぐ線が、また一段太くなった。
夜、帳場で今日の記録がまとめられた。
王都側では、商務院下級吏バルマンが書庫記録への接触者として浮上。
辺境側では、リュカが白蔦会とバルマンの名を供述。
二つの場所で、同じ名が出た。
レティシアは最後に、静かに口述した。
離れた場所で同じ名が現れた時、偶然は役目を終える。そこから先は、線を辿るだけである。
ルイスがその一文を書き終えた時、帳場の中には誰の声もなかった。
次に動くのは、きっと王都だ。




