第65話 王都に届くベルナールの名
王都の朝は、辺境よりもずっと穏やかに見える。
石畳は磨かれ、通りには焼きたてのパンの匂いが流れ、貴族街の屋敷の窓には、まだ眠たげな光が差している。庭師たちは花壇の端を整え、商人たちは荷馬車を静かに動かし、王城の塔は白く霞んだ空の下で、今日も何事もないように立っていた。
だが、何事もないように見える場所ほど、紙の奥ではよく軋む。
王立書庫の奥で、第二王子ルシアンは届いた封書を前にしていた。
封蝋には、北方旧所領の代行印。
そして、封の継ぎ目には細い糸が二重にかけられている。途中で開けられた形跡はない。
近習のカイルが、控えめに言った。
「辺境より、急ぎとのことです」
「急ぎ、か」
ルシアンは封書を指先で撫でた。
レティシア・エーヴェルシュタインは、むやみに急がせる女ではない。
彼女の書簡は、いつも必要な分だけ鋭く、余計な感情を紙に滲ませない。
その彼女が“急ぎ”の形で送った。
ならば、中身は軽くない。
「開けよう」
封を切る音が、書庫の静けさの中で小さく響いた。
中には、複数の写しが丁寧に束ねられていた。
《山羊の鈴亭》宿帳写し。
古い宿泊記録。
香木小箱二、鉱石見本箱一。
従者一名。
青脈鉱石見本送付控え。
そして、欄外に添えられた一文。
ヴァイスナー家後援案件につき、優先照合願う。
ルシアンは、その一文を読んだ瞬間、しばらく動かなかった。
カイルが声を落とす。
「殿下」
「……来たな」
「何が、でしょう」
「名前だ」
ルシアンは宿帳写しを机の上に広げた。
そこに記されていた名は、はっきりしている。
ベルナール。
姓は書かれていない。
ただし、宿泊欄の横には従者一名、荷物欄には香木小箱二、鉱石見本箱一。
その下に、宿主と思われる手による短い注記がある。
王都筋の客。白蔦の紹介。
カイルは息を呑んだ。
「白蔦……」
「ヴァイスナー家の古い意匠だ」
「ですが、ベルナールという名だけでは」
「そう。名だけでは足りない」
ルシアンは椅子に座り直した。
「だから、まずベルナールを全部出す」
「全部、ですか」
「王都の記録に残るベルナールを、できるだけ」
カイルはすぐに頷いた。
「書庫番長を呼びます」
「頼む」
少しして、書庫番長エルザが現れた。
彼女は初老の女性で、派手なところは何もない。灰色の髪をきちんとまとめ、書庫の埃を恐れない黒い袖覆いをつけている。長く王立書庫に勤めた者特有の、紙の重さを人間より信用する目をしていた。
「殿下、お呼びとのことで」
「ベルナールという名を探したい」
エルザは眉をわずかに動かした。
「範囲は」
「過去五年。商務院、香料商、外部筆耕、貴族家臨時雇い。北方旧所領と銀狐商会、ヴァイスナー家に繋がり得るものを優先」
「広いですね」
「絞れば見落とす」
エルザは一拍置いて、静かに頭を下げた。
「承知しました。すぐに出せるものからお持ちします」
彼女が去ったあと、カイルが小声で言った。
「ベルナールという名前が、本名とは限りませんよね」
「もちろん」
ルシアンは宿帳に視線を落としたまま答える。
「むしろ、偽名の可能性の方が高い」
「では、なぜ残したのでしょう」
「残したかったのだろう」
カイルは意味を測りかねたように黙った。
ルシアンは続ける。
「責任を落とすためか、連絡役を識別するためか、あるいは“この名前を知る者同士”への印か。いずれにせよ、名が残ったなら、その名が使われた理由がある」
「名も、証拠になる」
「証拠そのものではない。だが、証拠の入り口にはなる」
書庫の外では、王都の朝が流れている。
けれどこの部屋の中では、古い名が静かに目を覚ましつつあった。
昼過ぎ、エルザが三つの束を持って戻ってきた。
「殿下、現時点で該当しそうなベルナールは三名です」
「聞こう」
エルザは一枚目を机に置いた。
「一人目。ベルナール・ロック。ヴァイスナー侯爵家の元臨時調達係。三年前に退職。表向きの理由は病」
カイルがすぐに反応する。
「ヴァイスナー家」
「ええ」
ルシアンは表情を変えずに促した。
「次」
「二人目。ベルナールという名でランベール香房に出入りしていた香料仲介人。姓は記録なし。香木、香油、王都紙の包材を扱っていた形跡があります」
「香木小箱と繋がる可能性があるな」
「はい」
「三人目」
「商務院の外部筆耕係として登録されたベルナール某。こちらも姓が曖昧です。数回のみの雇用記録ですが、北方交易関連の写し作成に関わった可能性があります」
ルシアンは三枚の紙を見比べた。
三人。
多いようで、少ない。
しかも、どれも今回の線と少しずつ触れている。
「偶然にしては、よく揃う」
カイルが言うと、ルシアンは頷いた。
「問題は、三人いることではない」
「では?」
「三人とも“使える”ことだ」
カイルは少し考え、それから顔を上げた。
「つまり、誰かが必要に応じてベルナールという名を使い分けた可能性がある」
「そうだ」
ルシアンは宿帳写しをもう一度見た。
「《山羊の鈴亭》のベルナールがベルナール・ロック本人とは限らない。香料仲介人かもしれない。筆耕係かもしれない。あるいは、別人がその名で泊まったのかもしれない」
「では、どう追いますか」
「名ではなく、荷で追う」
「荷?」
ルシアンは宿帳の荷物欄を指した。
「香木小箱二、鉱石見本箱一。人は偽名を使える。だが荷は動けば記録を残す」
カイルは頷いた。
「香木小箱なら、ランベール香房。鉱石見本箱なら、商務院か旧代官所」
「そして従者一名」
ルシアンは短く続けた。
「従者は主人ほど名を隠せない。馬代、宿の食事、門の通行、どこかに小さな記録が残る」
エルザが静かに言った。
「門衛の旧通行控えを探しましょう。三年前、北方旧所領から王都へ入った二人組、香木または鉱石見本を伴う者」
「頼む」
エルザは頷いたが、すぐには下がらなかった。
「殿下」
「何か」
「この件、王太子府には」
「まだ出さない」
ルシアンは即答した。
エルザは深く頭を下げた。
「承知しました」
彼女もわかっている。
ヴァイスナー家の名が出た時点で、これはただの書庫整理ではなくなった。
王都の華やかな廊下の裏で、誰かが息を潜め始めている。
同じ頃、辺境ではレティシアが帳場にいた。
彼女は王都へ送った書簡の写しを見返していた。
宿帳、箱、ベルナール、白蔦、青脈見本。
すべてを送り切ったわけではない。
原本は手元にある。
写しも二部に分けた。
それでも、王都へ名を投げた以上、向こうは必ず動く。
「ベルナールが誰か、王都でわかるでしょうか」
ルイスが言った。
「すぐには無理でしょうね」
「やはり」
「でも、候補は出るはずよ」
レティシアは机の上の小箱を見た。
香木の残り香がある空箱。
白蔦会の符丁。
辺境へ届いた脅しのような荷。
「人の名前は隠せる。でも荷の癖は残るもの」
ルイスが少しだけ笑った。
「閣下、最近、商人みたいなことを仰いますね」
「そう?」
「はい。荷を見る目が、どんどん鋭くなっている気がします」
「褒めているのかしら」
「半分は」
その答えがディルクに似ていて、レティシアは思わず小さく笑った。
ルイスは少し慌てる。
「い、いえ、悪い意味ではなく」
「わかっているわ」
そこで扉が叩かれた。
入ってきたのはリュカだった。
以前、白蔦会の末端として使われていた若者だ。今は監視下に置かれつつ、証言者として帳場へ呼ばれることがある。顔色はまだ良くないが、以前よりは目に光が戻っている。
「閣下……ベルナールのことで、思い出したことがあります」
レティシアの表情が変わる。
「話して」
リュカは喉を鳴らした。
「ベルナールって、名前そのものが役名みたいに使われることがありました」
「役名?」
「はい。白蔦会の中で、王都から来る調達役をまとめてそう呼ぶことがあって……。本名じゃなくても、ベルナール様とか、ベルナール筋とか」
ルイスがすぐに筆を走らせる。
レティシアは静かに問う。
「では、《山羊の鈴亭》のベルナールが本人かどうかはわからない?」
「はい。でも、香木二箱、石一つって符丁が一緒なら……白蔦会の正式な受け渡しです」
「符丁を整理して」
リュカは少し考えながら、指を折った。
「白い封筒は安全。香木二箱は至急。石一つは鉱石見本。鈴亭は宿泊と受け渡し場所。従者一名は……たぶん見張りです。荷運びではなく」
ルイスの筆が止まらない。
レティシアは、その言葉を一つずつ頭の中で並べた。
宿帳の記録は、ただの宿泊記録ではなかった。
符丁として読むと、別の意味になる。
王都筋の客。
白蔦の紹介。
香木二箱。
鉱石見本箱一。
従者一名。
つまり、王都から来た白蔦会の調達役が、至急案件として青脈鉱石見本を受け取り、見張り役を連れて鈴亭を使った。
線はまた一本、濃くなった。
「ありがとう、リュカ」
レティシアが言うと、リュカは少し驚いたように顔を上げた。
「……いえ」
「思い出したら、また話して」
「はい」
彼が下がったあと、ルイスが低く言った。
「これ、すぐ王都へ送りますか」
「ええ。ただし追加便で。リュカの証言は証言として、断定は避ける」
「はい」
「それと、リュカの名前は出さない」
ルイスは頷いた。
証言者を守る。
それもまた、記録を守ることと同じだった。
夕方、王都ではエドガル・ヴァイスナーが古参書記から報告を受けていた。
「王立書庫が、ベルナールの名を追っております」
エドガルは一瞬、表情を失った。
「どのベルナールだ」
「現時点では不明です。ですが、ベルナール・ロックの名が出ている可能性が」
エドガルは机の上に置いた指を止めた。
「ベルナール・ロックは今どこにいる」
「表向きは、病で王都外れの療養院に」
「表向きではなく」
「……監視下にあります」
「誰の」
古参書記は答えに詰まった。
エドガルは目を細める。
「まさか、まだ分家の古い者に任せているのか」
「はい」
「馬鹿が」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
しかし、その一言で部屋の温度が下がった。
「移せ」
「どちらへ」
「死なせるな。死ねば疑われる。だが喋れない場所へ移せ」
「承知しました」
古参書記が下がったあと、エドガルはしばらく動かなかった。
ベルナール。
今さらその名が浮かぶとは。
あの男は小心者だ。
だが、だからこそ危ない。追い詰められれば、何を話すかわからない。
王立書庫が動いている。
辺境の女も、きっと何かを掴んでいる。
「……早すぎる」
エドガルは唇の奥で呟いた。
すべてが、思ったより早く繋がっている。
その夜、王立書庫では、エルザが古い来訪者名簿を持って戻ってきた。
「殿下」
ルシアンは顔を上げた。
「見つかったか」
「はい。三年前、ヴァイスナー家臨時調達係として、ベルナール・ロックが王立書庫へ一度来訪しています」
「王立書庫へ?」
カイルが驚く。
エルザは名簿を開いた。
そこには確かに記録があった。
ベルナール・ロック。
ヴァイスナー家臨時調達係。
閲覧目的、北方鉱石流通に関する過去資料確認。
同行者一名。
ルシアンは、その行をじっと見た。
「同行者の名は」
「記載なしです。ただ、“白蔦後援”の印があります」
書庫の空気が、静かに重くなった。
ルシアンは、指先で名簿の端を押さえた。
「ベルナールは一人ではないかもしれない」
カイルが低く言った。
「ですが、このベルナールは確かに存在する」
「そうだ」
ルシアンは目を細める。
「まず、この男に辿り着く」
遠く辺境では、同じ夜、レティシアがリュカの証言を記録していた。
「ベルナールは白蔦会において、王都調達役を示す役名として使われた可能性あり。《山羊の鈴亭》宿帳の香木二箱、鉱石見本箱一、従者一名は、それぞれ至急案件、鉱石見本、見張り役を示す符丁である可能性。証言者保護のため、名は伏せる」
ルイスが書き終える。
レティシアは、少しだけ目を伏せた。
「追記」
「はい」
「名が一つで足りない時、悪事は同じ名をいくつも作る。だから名ではなく、名が運んだ荷を追う。」
窓の外では、辺境の火が今日も静かに燃えていた。
その火の向こうで、王都の書庫にもまた、小さな灯りが残っていることを、レティシアはまだ知らない。




