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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第52話 候補という名の刃

 王都から返書が届いたのは、北風の強い午後だった。


 その日は朝から、町の空気が少し荒れていた。

 馬小屋跡の石敷きは順調に進んでいたが、北側の古い石垣から運び出した石が思ったより脆く、予定していた数には届かなかった。荷捌き場では塩の置き場をめぐって、炊事場と豆売りの女主人が軽く言い合いになり、井戸番の兵は新しい桶置き場の石を蹴飛ばして足を痛めかけた。


 どれも大事件ではない。


 けれど、領地が動いているからこそ起きる小さな摩擦だった。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場でそれらの報告を聞きながら、ひとつずつ処理していた。


「石は全部使おうとしなくていいわ。砕けるものは水切り用に回して。荷車の車輪を支える場所には、硬い石だけを使って」


「塩置き場は炊事場に近すぎると湿気を吸う。けれど遠すぎると運ぶ手が足りない。なら、屋根のある仮置き棚をひとつ作る」


「桶置き場の石は、固定していないから蹴るのよ。今日の夕方までに、半分だけ土へ埋めて」


 ルイスが次々に書き留めていく。


 以前なら、どれも誰かが怒鳴り、誰かが謝り、結局その場しのぎで終わっていたかもしれない。

 今は違う。

 問題は帳場に上がり、名前がつき、次の仕事になる。


 その流れが、少しずつ当たり前になり始めていた。


 だからこそ、王都からの封書が運び込まれた時も、レティシアはすぐに手を止めなかった。


「塩置き場の件、ヨハンにも確認を。荷車の通り道を塞ぐ場所には作らないように」


「はい」


 ルイスが返事をしたところで、マルタが静かに封書を差し出した。


「王立書庫からでございます」


 帳場の空気が、ほんのわずかに沈む。


 レティシアは封蝋を確認した。

 王立書庫の印。前回と同じ。


 ただし、封の上に添えられた小さな紙片には、いつもより短い文があった。


 ――第二王子ルシアン殿下の確認済み。


 レティシアは、その一行をしばらく見つめた。


「……向こうも、覚悟を少し出してきたわね」


 ディルク・ヴァルゼンが帳場の端から歩み寄る。


「開けますか」


「ええ」


 封を切る音が、妙に大きく聞こえた。


 文面は丁寧だった。

 相変わらず王太子府のような高圧さはない。けれど、今回は前よりも一段踏み込んでいる。


 レティシアは読み進めるうち、指先を止めた。


 ――貴地より送付された後援印写しにつき、王立書庫所蔵の貴族家印譜と照合。

 ――完全一致には至らず。

 ――ただし、ヴァイスナー侯爵家分家が過去に用いた後援印と、構成要素において高い類似を確認。

 ――本件は現時点で断定に非ず。候補として扱われたい。

 ――なお、ヴァイスナー侯爵家および同家縁辺商会と銀狐商会との過去取引について、王立書庫および商務院控えにて追加照合中。


 レティシアは、そこで目を閉じた。


 ヴァイスナー侯爵家。


 記憶の中で、ひとつの顔が浮かぶ。


 エドガル・ヴァイスナー。

 王太子アルベルトの側近の一人。

 声が大きく、華やかな場でよく笑い、王太子の言葉に真っ先に頷く男。社交の場では軽妙に振る舞うが、相手によって態度を変えるところがあった。


 そして、エミリアの周囲にもよくいた。


「閣下」


 ルイスが恐る恐る声をかける。


「ヴァイスナー侯爵家とは……」


「王太子殿下に近い家よ」


 レティシアは目を開けた。


「特に若君のエドガル卿は、殿下の側近としてよく動いていたわ」


 ルイスの顔が青ざめる。


「では、王太子殿下が……?」


「まだ違う」


 レティシアは即座に止めた。


 その声は静かだったが、鋭かった。


「そこを急いではだめ。側近の家が関わった可能性と、王太子殿下ご自身が知っていたかは別よ」


「……はい」


「でも」


 ディルクが低く言う。


「王太子府の近くに、北方旧所領を食っていた線がある可能性は高くなった」


「ええ」


 レティシアは返書を机へ置いた。


「それも、ただの噂ではなく、王立書庫が“候補”として返してきた」


 候補。


 便利な言葉だ。

 断定ではない。

 だが無視もできない。


 それは、鞘から半分だけ抜かれた刃に似ていた。

 まだ斬ってはいない。

 けれど、相手に見えれば十分に意味がある。


 マルタが静かに息を呑む。


「お嬢様、どうなさいますか」


「まず、この件は町には広げない」


 レティシアはすぐに答えた。


「領地の者たちが知るべきことと、まだ知らなくていいことがあるわ。今この名を出せば、怒りや不安だけが先に走る」


 ディルクが頷く。


「兵にも限定します」


「お願い」


 ルイスは返書を見つめながら言った。


「王都へ、さらに返しますか」


「返すわ。ただし、今度は二通に分ける」


「二通?」


「一通は王立書庫への正式な返答。照合結果を受領したこと、こちらでもヴァイスナー家との関係を断定せずに追加調査することを書く」


「はい」


「もう一通は、第二王子殿下への私信に近い形で」


 ルイスの手が止まった。


「私信……ですか」


「ええ。ただし礼を失わない。こちらが直接お礼を述べる形にする」


 ディルクが目を細める。


「危険では?」


「危険よ」


 レティシアは認めた。


「でも、王立書庫の裏に第二王子殿下がいると明記してきた以上、向こうは一歩出ている。こちらも、全く同じ場所に立ったままでは話が進まない」


「何を書くのです」


「短くでいいわ」


 レティシアは少し考えた。


「王立書庫を通じた照合に感謝すること。候補名については断定を避け、現地記録の照合を続けること。そして――」


 少し間を置く。


「王都側の記録が消える前に、可能な範囲で写しを保全されたい、と」


 ルイスが息を呑んだ。


 それは、かなり踏み込んだ言葉だった。


 王都の誰かが記録を消すかもしれない。

 そう言っているに等しい。


 だが、露骨には書かない。

 あくまで“保全”を願う。

 王都の記録を守るためという形で。


「……第二王子殿下なら、意味はわかるでしょうか」


 ルイスが問う。


「わかると思う」


 レティシアは静かに言った。


「わからない方なら、そもそもこの返書は来ていないわ」


 その日の午後、帳場では古い記録の再照合がさらに進んだ。


 マイゼルは、以前よりずっと素直に記憶を話すようになっていた。

 それでも、時々言葉を選びすぎる癖は抜けない。長く“余計なことを言わない”ことで身を守ってきた人間なのだろう。


「ヴァイスナー家の名前を、直接聞いたことは?」


 ディルクが問う。


 マイゼルは顔をしかめた。


「直接は……ありません。ただ、書記長が一度、“白蔦の若君”と呼んでいたことがあります」


「白蔦?」


 レティシアが反応する。


「ヴァイスナー家の古い意匠に白蔦があるわ」


「では、ほぼ……」


 ルイスが言いかけたところで、レティシアは視線で止めた。


「まだ候補」


「はい」


「でも、候補としては濃い」


 ディルクが低く言った。


 マイゼルは続ける。


「その若君が来た後、書記長は北道の補修費を急いで通しました。私は理由を聞きませんでした。ただ、いつもより上等な封筒が使われていたのを覚えています」


「封筒?」


「王都紙です。辺境の書簡には使わないような」


「残っている?」


 マイゼルは少し考えた。


「もしかすると、書記長の私物箱に……」


 ディルクの目が鋭くなる。


「その箱はどこに」


「旧代官所の奥です。引き継ぎの時、誰も触りたがらず、そのまま」


「見に行くわ」


 レティシアが立ち上がると、マルタが眉を寄せた。


「お嬢様、また埃まみれの場所へ」


「今日だけよ」


「その“今日だけ”を何度聞いたことか」


 それでもマルタは、何も言わず厚手の外套を渡した。


 旧代官所の奥は、ひどく冷えていた。


 使われなくなった部屋には湿気がこもり、木の床はところどころ軋む。壁には古い釘の跡が残り、書棚には空になった帳簿箱が並んでいた。


 マイゼルが震える手で、奥の棚を示す。


「この下です」


 兵が箱を引き出した。


 埃が舞う。


 箱の中には、古い紙片、折れた筆、欠けた封蝋、そして何通かの空封筒が入っていた。


 ルイスが一枚を取り上げる。


「これ……王都紙です」


 薄く、白い。

 辺境で普段使われる粗紙とは明らかに違う。


 封筒の端に、ほんの微かに香りが残っていた。


 古びているのに、完全には消えていない。


 甘い花と、香木の香り。


 マイゼルが顔をこわばらせる。


「これです。この匂いです」


 レティシアは封筒を受け取り、目を細めた。


 王都の香り。

 セラフィナの言葉。

 マイゼルの記憶。

 王立書庫の照合結果。


 すべてが、少しずつ同じ場所を指し始めている。


「持ち帰るわ」


 レティシアは言った。


「封筒も記録する。香りについては証拠として弱い。でも、記憶と照合する材料にはなる」


 ディルクが頷く。


「箱ごと押さえます」


「ええ」


 帳場へ戻る頃には、夕方になっていた。


 町では、いつも通り中継小屋の火が灯り始めている。

 子供たちが市場南端の締まった道を走り、豆売りの女主人が「転ぶんじゃないよ」と声を飛ばしていた。


 その日常の明るさと、帳場に運び込まれた古い封筒の不気味さが、あまりに対照的だった。


 レティシアは、だからこそ思った。


 この日常を守るために、王都の影を見なければならないのだと。


 夜、帳場で二通の返書が整えられた。


 正式な返答。

 そして第二王子ルシアンへ向けた、慎重な礼状。


 最後にレティシアは、今日の記録を口述した。


「王立書庫より、後援印がヴァイスナー侯爵家分家印に類似するとの照合結果あり。断定ではなく候補として扱う。旧代官所関係者マイゼルの証言により、“白蔦の若君”なる来訪者の存在が浮上。旧書記長私物箱より、王都紙の封筒と香気の残る紙片を発見。今後、ヴァイスナー家および銀狐商会、旧代官所書記長の接点を重点調査とする」


 ルイスが書き終える。


 レティシアは少しだけ間を置いた。


「追記」


「はい」


「候補という言葉は、まだ刃ではない。けれど、鞘から抜くべき刃の場所を教えてくれる。」


 窓の外では、火が揺れていた。


 その火の向こう、遠い王都で誰かが同じ刃を見つめているのだろうと、レティシアは思った。

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