第51話 印の先にある家名
翌朝、帳場の机には、古い封蝋の写しが並べられていた。
商務院の旧印。
鉱石搬出許可の控え。
北方山越え交易に関する臨時搬送書。
そして、王都貴族家の後援印と思われる紋章。
どれも、はっきりとした証拠と呼ぶにはまだ足りない。
だが、ただの偶然として片づけるには、あまりにも形が揃い始めていた。
レティシア・エーヴェルシュタインは、窓から差し込む朝の光の下で、その印を見つめていた。
古い蝋はひび割れており、紋章の一部は潰れている。
それでも、外縁に刻まれた蔦の形と、中央にある細い剣の意匠は残っていた。
「この紋、見覚えがあるわ」
レティシアが言うと、ルイスが顔を上げた。
「王都で、ですか」
「ええ。ただ、はっきりとは思い出せない」
王都には似た紋が多い。
剣、獅子、鷹、薔薇、月桂樹。
家門の歴史を誇るために、どれも似たようなものを少しずつ違えて使う。
けれど、この蔦と細剣の組み合わせは、どこかで見た。
それも、王太子アルベルトの周辺で。
ディルク・ヴァルゼンが、机の向こうから低く言った。
「王都へ照会しますか」
「するわ。ただし、家名をこちらからは書かない」
「印の照合のみ?」
「ええ。こちらが誰を疑っているか、まだ見せない方がいい」
ルイスは丁寧に写しを取っている。
昨日から何度も失敗し、ようやく蝋の欠けまで含めた写しに近づいていた。彼の手元には、もう三枚ほど練習用の紙が積まれている。
「閣下、この写しで足りますでしょうか」
レティシアは受け取り、少し角度を変えて眺めた。
「十分よ。むしろ、綺麗にしすぎない方がいい」
「綺麗にしすぎない?」
「元の印は欠けているでしょう。欠けたまま送らなければ、向こうで別の印と照合されるかもしれない」
「あ……」
ルイスは小さく息を呑んだ。
「写しにも、傷を残すのですね」
「そう。記録は整えるものだけれど、事実を磨いて別物にしてはいけないわ」
その言葉に、ルイスは深く頷いた。
その時、部屋の隅に控えていたマイゼルが、落ち着かない様子で手を握りしめた。
昨日、旧書簡箱の件で口を割った下級書記だ。
まだ正式な処分は決めていない。だが今は、彼の記憶が必要だった。
「マイゼル」
レティシアが呼ぶと、彼はびくりと肩を震わせた。
「はい」
「この印を見た時、あなたは動揺した。理由を聞いていなかったわね」
マイゼルは一瞬、口を閉じた。
逃げ道を探している顔だった。
ディルクが何も言わずに彼を見る。
その沈黙に耐えきれなかったのか、マイゼルは小さく息を吐いた。
「……書記長の部屋で、似た印を見たことがあります」
「旧代官付きの書記長ね」
「はい」
「書簡に?」
「いえ。封蝋ではなく、銀の紙刀に刻まれていました。来客が置いていったものだと聞いたことがあります」
「誰の来客?」
「王都の方です」
レティシアは目を細めた。
「名前は?」
「直接は……ですが、書記長はその方を“侯爵家の若君”と呼んでいました」
部屋の空気が少し重くなる。
侯爵家。
王都の侯爵家となれば数は限られる。
しかも王太子の周辺に出入りする若手となれば、さらに絞られる。
「他に覚えていることは?」
マイゼルは考え込むように目を伏せた。
「香りが」
「香り?」
「はい。強い香水ではありません。ただ、甘い……花と香木のような匂いが、書記長の部屋にしばらく残っていました。来客の後はいつも」
王都の香水の匂い。
レティシアは、セラフィナの言葉を思い出した。
北の山道に、王都の香水の匂いがする者たちも混じっていた。
「その来客は、何度来たの?」
「私が知っているだけで三度。いずれも、鉱山の収益が落ちたと報告され始めた頃です」
「用件は」
「わかりません。ただ、その後に北側旧山道の補修費が増えました」
ルイスの筆が止まりかける。
レティシアは視線だけで続きを促した。
ルイスは慌てて記録を続ける。
マイゼルの証言は、直接の証拠にはならない。
だが、時期が合いすぎている。
王都からの来客。
侯爵家の若君。
甘い香水。
旧代官所書記長との接触。
その後に増える北側旧山道の補修費。
同時期に落ちる表向きの鉱山収益。
線は、もう薄くない。
「マイゼル」
「はい」
「あなたには、しばらく帳場で古記録の照合を手伝ってもらうわ」
彼は顔を上げた。
「私が、ですか」
「ええ。罰を免れたと思わないで。あなたは知っていて黙っていた。その責任は消えない」
「……はい」
「でも、あなたが覚えていることは必要よ。逃げるより、話した方がまだ役に立てる」
マイゼルの顔が、少しだけ歪んだ。
安堵なのか、情けなさなのか、本人にもわからないのかもしれない。
「承知しました」
彼は深く頭を下げた。
その日の昼、返書の準備が進められた。
王立書庫へ送るものは、三つ。
一つ目は、欠けた後援印の写し。
二つ目は、該当書簡の抜粋。
三つ目は、マイゼルの証言をそのまま送るのではなく、現地聞き取り中であることだけを示す注記。
人物名を不用意に出さない。
家名も断定しない。
だが、照合すべき材料は渡す。
レティシアは、文面を一つひとつ確認した。
――添付の後援印につき、王立書庫所蔵の王都貴族家印譜との照合を願います。
――当該印は、北方旧所領より山越え交易商会を経由した鉱石搬出控えに残存していたものです。
――印は一部欠損しており、現地にて確定不能につき、貴庫の照合結果を待ちます。
――なお、本件に関し、旧代官所関係者への聞き取りを継続中です。
ルイスが読み上げを終えたあと、少しだけ不安そうに尋ねた。
「かなり踏み込んでいるようにも見えます」
「踏み込んでいるわ」
「でも、断定はしていない」
「そう」
レティシアは封を閉じた。
「相手が本当に調べる気なら、これで動ける。動く気がないなら、それもわかる」
ディルクが低く言った。
「王都側から見れば、こちらも試しているわけですね」
「ええ。お互い様よ」
夕方、王立書庫の使者が封書を受け取った。
彼は、前回より少しだけ緊張していた。
文書の重さを理解しているのだろう。
「確かにお預かりします」
「お願い」
レティシアは短く言ったあと、少しだけ付け加えた。
「道中、封は必ずあなたの手で守って」
使者は真剣な顔で頷いた。
「承知しております」
彼が去ったあと、ルイスがぽつりと呟いた。
「王都まで、どれくらいで届くでしょうか」
「天候が悪くなければ数日ね」
「その間に、向こうの誰かが動いたら」
レティシアは窓の外を見た。
町には、いつもの夕方が戻っている。
井戸番が交代し、炊事場から湯気が上がり、馬小屋跡ではヨハンが石の数を数えている。
「こちらはこちらの仕事を続けるわ」
「王都の返事を待つだけではなく?」
「ええ。待つだけの土地に戻ったら、また誰かに流れを奪われるもの」
その言葉に、ルイスは静かに頷いた。
数日後、王都。
王立書庫の奥で、ルシアンは辺境から届いた封書を受け取った。
封を切り、写しを広げる。
欠けた後援印。
蔦。
細剣。
外縁の小さな星。
ルシアンの指が止まった。
「……やはり」
近習が横から覗き込む。
「お心当たりが?」
「ヴァイスナー侯爵家の分家印だ」
近習の顔色が変わった。
「ヴァイスナー家……王太子殿下の側近、エドガル卿の」
「本家印ではない。だが、分家の一つが使っていた古い後援印に似ている」
ルシアンは、書架から印譜を取り出させた。
古い貴族家の印を集めた、分厚い帳面だ。
頁をめくる音だけが、書庫に響く。
そして、該当する印が見つかった。
完全には同じではない。
だが、欠けた部分を補えば、形はほぼ一致する。
近習が息を呑んだ。
「これを、どうされますか」
ルシアンはすぐには答えなかった。
ヴァイスナー侯爵家。
王太子アルベルトの側近エドガル・ヴァイスナーの実家筋。
王都の商会や祭礼準備にも顔を出す家。
そして、エミリアの周囲にも近づいていた家。
線が、また一本繋がった。
「まだ表には出さない」
「しかし」
「今出せば、兄上の側近たちは防御に回る。記録も人も消える」
ルシアンは印譜を閉じた。
「まず、ヴァイスナー家と銀狐商会の過去取引を洗う」
「承知しました」
「それと」
ルシアンは少しだけ考えた。
「辺境へは、照合結果を返す。ただし、家名は“候補”として伝える」
「断定しない?」
「断定するには早い。だが、彼女なら意味はわかる」
近習は深く頭を下げた。
ルシアンは窓の外を見る。
王都は、今日も美しかった。
しかし、その美しさの下に伸びる影は、もう無視できないほど濃くなっている。
「兄上は、何を切ったのだろうな」
ぽつりと漏れた言葉に、近習は何も答えなかった。
その頃、遠い辺境では、レティシアがいつものように帳場で記録を取っていた。
王都で家名が一つ浮かび上がったことを、彼女はまだ知らない。
だが、北からの風が変わり始めていることだけは、確かに感じていた。




