第50話 古い帳簿が震える日
王都へ返書を送ってから三日、辺境はいつも通りに動いていた。
井戸は回り、荷捌き場には人が立ち、馬小屋跡には石が積まれていく。中継小屋の三つの火も、すっかり町の者たちの目印になっていた。
けれど、帳場の空気だけは少し違っていた。
王立書庫からの照会。
第二王子ルシアンの名。
鉱山収益、街道補修費、山越え交易商会の記録。
それらはまだ、町の者たちへ大きく知らされてはいない。だが帳場で働く者、倉庫を預かる者、古い記録を管理してきた者たちは、何かが変わり始めたことを感じ取っていた。
レティシア・エーヴェルシュタインは、朝の帳場で古い木箱を見下ろしていた。
箱には、旧代官所時代の記録が詰められている。
紐で括られた帳簿、湿気で端が波打った紙束、封が破れかけた書簡。どれも大切に保管されていたというより、捨てるには面倒だから押し込められていた、という状態に近かった。
ルイスが慎重に一冊を取り出す。
「このあたりが、三年前の街道補修費ですね」
「状態は?」
「悪いです。ですが読めます」
彼は頁をめくり、眉を寄せた。
「……同じ橋の補修費が、年に三度出ています」
ディルク・ヴァルゼンが横から覗き込む。
「その橋は?」
「北側旧山道へ続く小橋です」
レティシアは小さく息を吐いた。
「表向きは使われていなかった道ね」
「はい」
「使われていない道の橋を、三度も直していた」
ルイスは渋い顔で頷く。
「そうなります」
おかしい。
だが、今さら驚くほどではない。
死んだことにされた鉱山。
裏で使われていた北の道。
不自然に計上されていた修繕費。
線は、少しずつ濃くなっている。
その時、帳場の扉が控えめに叩かれた。
「入って」
現れたのは、古い代官所から引き継がれた下級書記の一人だった。名をマイゼルという。年は四十に届くかどうか。目立たない男で、普段は古い倉庫記録や税の写しを扱っている。
彼は妙に落ち着かない顔をしていた。
「閣下、お忙しいところ失礼いたします」
「何かしら」
「その……旧記録の整理をされていると聞きまして」
「ええ」
「でしたら、私が見てもよろしいでしょうか。古い記録は、扱いを間違えると順番がわからなくなりますので」
言葉だけ聞けば親切だった。
だがレティシアは、彼の手元を見ていた。
指先が落ち着かない。
視線が、木箱ではなく、机の奥の封書へ何度も流れる。
王立書庫からの照会文だ。
レティシアは穏やかに答えた。
「助かるわ。けれど、今日はルイスとハルトマンで照合するから大丈夫」
「しかし、旧代官所の記録は私が長く――」
「だから後で聞くことはあると思う」
そう言って、少しだけ間を置いた。
「その時にお願いするわ」
マイゼルの喉が動いた。
「……承知しました」
彼は頭を下げて出ていった。
扉が閉まると、ルイスが小声で言った。
「今のは……」
「気になるわね」
ディルクも短く頷く。
「見張らせます」
「お願い。でも、捕まえないで」
「泳がせるのですね」
「ええ。彼が何を気にしているのか知りたい」
ディルクはすぐ兵を一人呼び、静かに指示を出した。
昼前、古い帳簿の照合はさらに進んだ。
鉱山の表帳簿では、ある年を境に収益が急に下がっている。
その一方で、街道補修費、橋の修繕、荷置き場整備の名目だけは増えている。
そして、それらの場所はいずれも北側旧山道か、そこへ繋がる脇道に集中していた。
ルイスは頁をめくる手を止め、呆れたように言った。
「これ……隠しているというより、堂々と出していたんですね」
「堂々と出しても、誰も見なければ隠したのと同じよ」
レティシアは答えた。
「王都にも提出していたのでしょうか」
「たぶんね。ただし、王都側の記録には別の名目で載っているかもしれない」
「だから第二王子殿下は照合を」
「ええ」
同じ記録でも、辺境では橋の修繕費。
王都では街道維持費。
商務院では鉱石搬出関連費。
そうやって別々の帳面に分かれれば、全体の形は見えにくくなる。
だが、見比べれば話は変わる。
王都でルシアンが見ているものと、辺境でレティシアが見ているもの。
その二つが重なれば、誰かが隠した流れが見えてくる。
午後、ディルクの兵が戻ってきた。
「閣下、総司令」
声は低い。
「マイゼルが、旧倉庫の奥へ入りました」
「何をしていた」
ディルクが問うと、兵は答えた。
「古い書簡箱を探っていたようです。持ち出しは確認できません。ただ、箱の一つを開けて中を確認し、すぐ戻していました」
レティシアは眉を動かした。
「どの箱?」
「封の古いものです。印は潰れていましたが、王都商務院の旧印に見えました」
帳場の空気が変わった。
商務院。
王立書庫の照会にも出てきた名だ。
「その箱を持ってきて」
ディルクが命じる。
兵はすぐ動いた。
やがて運ばれてきた木箱は、小さく、埃をかぶっていた。封は一度開けられている。中には古い書簡と控えが束ねられていた。
ルイスが慎重に紐を解く。
最初の数枚は、ありふれた搬出許可の写しだった。
だが途中で、彼の手が止まる。
「……閣下」
「どうしたの?」
「これ、搬出先が王都になっていません」
レティシアは書簡を受け取る。
そこには、北方旧所領で採れた鉱石の一部が、王都正規経路ではなく、山越え交易商会を経由して“臨時搬送”された記録があった。
理由は、冬季道の閉鎖に伴う迂回。
名目としてはあり得る。
だが日付が問題だった。
「冬季道の閉鎖?」
ディルクが低く言った。
「この日付は春です」
その通りだった。
雪解け後、街道が使える時期。
にもかかわらず、冬季迂回名目で鉱石が北の山道へ流されている。
ルイスの声が震えた。
「しかも、承認印が……」
彼は一枚の書簡を机に置く。
そこには王都側の承認印があった。
商務院の下位印。
そして、その横に貴族家の後援印。
ディルクの目が細くなる。
「見覚えは?」
「王都の家紋です」
レティシアは、その印をじっと見た。
完全には思い出せない。
だが、王太子派の若手貴族の集まりで、似た紋章を見た覚えがある。
胸の奥に、冷たい感覚が広がる。
王都の香水の匂い。
セラフィナの言葉が蘇った。
「……繋がったわね」
レティシアが呟く。
ルイスは息を呑んだ。
「これを、王都へ送りますか」
「まだ」
即答だった。
「えっ」
「これは強い札よ。だからこそ、そのまま送れば危ない」
ディルクが頷く。
「握り潰される可能性がある」
「ええ。それに、まだ印の正体を確定していない」
レティシアは書簡を丁寧に置いた。
「写しを作る。原本は保管。王都へは、まず“該当する商務院旧印と後援印の照合を求める”形で問い合わせる」
ルイスが少し迷う。
「家名を出さずに?」
「そう。印の写しだけを添える」
「それなら、相手もこちらがどこまで知っているか測りにくい」
ディルクが言った。
レティシアは頷く。
「そういうこと」
その日の夕方、マイゼルは呼び出された。
帳場に入ってきた彼の顔は、朝より明らかに悪かった。
それでも、まだ何も知らないふりをしている。
「閣下、お呼びでしょうか」
「ええ。旧倉庫の書簡箱を見たそうね」
マイゼルの肩がわずかに跳ねた。
「……確認を。古い記録が散らぬようにと」
「そう」
レティシアは机の上に、問題の書簡そのものではなく、別の古い紙を置いた。
「では、この商務院旧印を知っている?」
マイゼルは紙を見た。
表情を保とうとしている。
だが、目が一瞬だけ動いた。
「……古い印ですので、私には」
「知らない?」
「はい」
「では、なぜ朝からそれを探していたの?」
静かな問いだった。
怒鳴ってはいない。
責めてもいない。
だからこそ逃げにくい。
マイゼルの額に汗が浮いた。
「私は……ただ、記録整理を」
「あなたが恐れているのは、記録が乱れることではないわ」
レティシアは、ゆっくりと言った。
「記録が繋がることでしょう?」
沈黙。
マイゼルは視線を落とした。
その沈黙だけで十分だった。
ディルクが一歩前へ出る。
「話せ」
短い言葉。
マイゼルの膝が少し揺れた。
「……私は、深くは知りません」
「その言い方をする人は、たいてい少しは知っているわ」
レティシアは淡々と返した。
マイゼルは唇を噛み、やがて観念したように言った。
「旧代官付きの上役が、何度か王都から来た書簡を別箱へ移せと。通常の鉱山記録とは混ぜるなと命じられました」
「誰の命令?」
「代官様の書記長です。私は、本当に箱を移しただけで……」
「王都の印があると知っていた?」
「途中からは」
「なぜ黙っていたの」
マイゼルは顔を歪めた。
「言えば、私も関わったことになると思ったからです」
情けない答えだった。
だが、人間らしい答えでもあった。
レティシアはしばらく彼を見ていた。
「あなたを今すぐ裁くことはできる」
マイゼルが震える。
「でも、今ほしいのはあなたの首ではなく、あなたが覚えていることよ」
「……何を」
「別箱はいくつあった? 誰が触れた? 王都からの使者は何人来た? 商務院の印がある書簡は、他にもある?」
マイゼルは青ざめたまま、小さく頷いた。
「覚えている限り、話します」
「ええ。全部話しなさい」
その夜、帳場にはまた一つ、新しい記録が残った。
旧代官所時代、王都商務院印付き書簡が通常記録から分離保管されていたこと。
その一部が北方山越え交易と鉱石搬出に関わっていたこと。
関係する後援印に、王太子派貴族と見られる紋章が含まれていたこと。
下級書記マイゼルが、保管分離に関与していたこと。
ルイスは書き終えると、手を止めた。
「閣下」
「なに?」
「古い帳簿が、急に怖く見えてきました」
「そうね」
レティシアは静かに答えた。
「でも、怖いからこそ開くのよ」
窓の外では、町の火がいつも通り灯っている。
井戸も、荷捌き場も、馬小屋跡も、明日また動くだろう。
その日常を守るために、今は古い帳簿の暗がりへ手を入れなければならない。
レティシアは最後に、こう口述した。
古い帳簿は、過去を眠らせるためにあるのではない。目を覚ました時、誰が嘘をついたのかを語らせるためにある。




