第49話 正直すぎる返書
王都から返書が届いたのは、朝の井戸がひと通り落ち着いた頃だった。
その日の辺境は、少し風が強かった。
晴れてはいるが、北の山並みから降りてくる風がまだ冷たく、荷捌き場の布を何度もめくり上げている。
ヨハンは荷車の縄を締め直し、ガレスは馬小屋跡の入口に敷いた石の具合を確かめていた。中継小屋では三つに分けた火のうち、昼用の一つだけが細く残っている。
いつもの朝だ。
けれど、砦の門をくぐってきた王都の使者を見た瞬間、帳場の空気は少しだけ変わった。
「王立書庫より、レティシア・エーヴェルシュタイン様へ」
使者は、王太子府の者とは違っていた。
急かされた様子も、高圧的な気配もない。
むしろ、扱う文書の重みを理解している者の慎重さがあった。
レティシアは封書を受け取り、封蝋を確かめた。
王立書庫の印。
前回と同じだ。
だが、中に入っていた文は、想像していたよりもずっと踏み込んだものだった。
――先般ご提供いただいた北方旧所領の現地記録につき、王立書庫所蔵記録との間に複数の齟齬を確認。
――特に鉱山収益記録、街道補修費、山越え交易商会関連記録について、同年度内の数量・支出・搬出先に不一致あり。
――照合対象は、王立書庫保管の旧代官報告、商務院控え、および王都商会申告記録の一部。
――本照会は第二王子ルシアン殿下の許可のもと、王立書庫記録整理として実施するものなり。
そこまで読んだところで、レティシアの指が止まった。
「……第二王子殿下」
ルイスが思わず声を漏らす。
「第二王子殿下が、ですか?」
「ええ」
レティシアは書簡を机へ置かず、もう一度最初から読み直した。
慎重な文だ。
だが、隠してはいない。
前回こちらが尋ね返した「照会の目的」と「照合対象となる記録の範囲」に対して、少なくとも答えられる範囲では答えている。
王太子府なら、絶対にこうはしない。
こちらへ頭を下げる形を避け、都合の良い大義だけを並べるだろう。
だが、この返書は違う。
警戒はしている。
けれど、こちらに協力を求めるなら、最低限の手の内は見せるべきだと理解している。
「……正直すぎるわね」
レティシアが呟くと、ディルク・ヴァルゼンが横から問うた。
「罠ですか」
「罠にしては、出しすぎているわ」
「では、味方と?」
「まだわからない」
レティシアは即答した。
「ただ、少なくとも“話ができる相手”ではありそう」
ディルクは書簡へ視線を落とす。
「第二王子ルシアン殿下……王都ではあまり表に出ない方と聞いています」
「ええ。華やかな方ではないわ」
レティシアは王都にいた頃の記憶を探った。
ルシアンとは、何度か儀礼の場で言葉を交わした程度だ。
王太子アルベルトのように人目を引くことはなく、場の中心にも立たない。
だが、誰が何を言い、誰が黙っていたかをよく見ている人だった。
派手ではない。
けれど、軽く見ていい相手ではない。
マルタが静かに言う。
「お嬢様、返答なさいますか」
「するわ」
ルイスがすぐ筆を取った。
しかしレティシアは、すぐには口述を始めなかった。
窓の外へ目を向ける。
市場では、豆売りの女主人が布を押さえながら誰かと笑っている。
井戸番の兵が桶を移し、炊事場からは薄い湯気が流れていた。
ここには今、ようやく動き始めた日常がある。
王都の記録に引っ張られて、それを崩すわけにはいかない。
けれど、王都との線を切るわけにもいかない。
銀狐商会。
北の山道。
鉱山の裏流通。
王都の香水の匂い。
そのすべてが、少しずつ同じ方向を向いている。
「ルイス」
「はい」
「返書は、丁寧に。でもこちらの手札を渡しすぎないように」
「承知しました」
「まず、第二王子殿下の許可のもとでの照会であることを確認した、と書いて」
「はい」
「次に、齟齬のある年度と項目の指定を願う。こちらも現地資料の再照合を進める、と」
ルイスの筆が走る。
「それから、街道補修費については、現地の実態と記録に明確な差がある。こちらで確認した範囲を追加で送る準備がある。ただし、関係者聴取中のため、人物名の開示は段階を踏む」
ディルクが頷く。
「妥当です」
レティシアは続けた。
「山越え交易商会については、銀狐商会との直近の正規取引記録はすでに提出済み。過去の非正規流通と思しき記録については、裏付けが取れ次第、写しの一部提供を検討する」
ルイスが顔を上げる。
「“検討する”でよろしいのですか」
「ええ。確約はしない」
「はい」
「そして最後に、こちらからも尋ねるわ」
ルイスの表情が引き締まる。
「何をでしょうか」
「王立書庫側の記録に、北方旧所領から王都へ搬入されたはずの鉱石が、実際にどの商会を経由した形になっているか。その一覧を求める」
ディルクが目を細めた。
「それは……かなり踏み込みますね」
「ええ」
「向こうが出すと?」
「全部は出さないでしょう。でも、出せるものがあるかどうかで、相手の本気度がわかる」
レティシアは静かに言った。
「こちらだけが見せる関係にはしない」
ルイスは深く頷き、筆を進めた。
返書を書き終える頃には、昼を過ぎていた。
その間にも、帳場にはいつもの相談が入ってきた。
馬小屋跡に使う石の不足。
簡易汁物の根菜量。
中継小屋の火の番を町と兵でどう分けるか。
銀狐商会との次回取引予定に合わせた荷車の調整。
王都の重い書簡を前にしながらも、辺境の細かな仕事は止まらない。
それが、かえってレティシアを落ち着かせていた。
大きな謎を追うほど、小さな日常を離してはいけない。
この土地を支えるのは、王都の文書だけではない。
井戸の石三つも、濡れた薪の置き場も、豆の量を測る手も、同じくらい大切なのだ。
夕刻、王都への返書は封じられた。
使者がそれを受け取る前、レティシアは一つだけ問うた。
「王立書庫の照会は、今後もあなたが運ぶの?」
使者は少し戸惑った顔をした。
「おそらくは。書庫より、辺境との往復に慣れた者を固定したいとの話がありました」
「そう」
「何か問題が?」
「いいえ。人が固定されるのは悪くないわ。伝える途中で文意が濁りにくいもの」
使者は一礼した。
「確かにお届けいたします」
その背を見送ると、ディルクが低く言った。
「王都との線が、太くなりますね」
「ええ。でも、まだ細くていい」
「なぜ」
「太すぎる線は、引っ張られやすいもの」
ディルクは短く笑った。
「閣下らしい」
「褒めているの?」
「半分は」
いつもの答えに、レティシアも少しだけ笑った。
その夜、王都ではルシアンが再び書庫にいた。
辺境から返ってきた問いを受け取るのは、まだ数日先のことだ。
だが彼は、すでに準備を始めていた。
机の上には、商務院の古い控え。
鉱石搬入記録。
山越え商会との取引許可。
王都貴族家の後援印。
どれも一枚では何も語らない。
だが重ねると、ある年度だけ不自然に線が濃くなる。
レティシアが王都を去る少し前。
北方旧所領の鉱山収益が落ちたとされる時期。
そして銀狐商会の裏取引量が増えたと思しき時期。
ルシアンは、その三つの線を黙って見つめた。
「……これは、偶然では済まないな」
近習が低く問う。
「王太子殿下へ報告されますか」
「まだ早い」
「ですが」
「兄上は、今これを聞けば怒る。怒れば、周りが隠す」
ルシアンは淡々と言った。
「怒りは、調査の邪魔だ」
近習は黙って頭を下げた。
ルシアンは一枚の記録を手に取る。
そこには、ある貴族家の名があった。
王太子派の若手貴族。
そして、かつてエミリアの周辺に出入りしていた商会とも繋がる家。
まだ証拠にはならない。
けれど、匂いはある。
「辺境の彼女は、どこまで掴んでいるのだろうな」
ルシアンは独り言のように呟いた。
近習は答えなかった。
遠く離れた辺境と王都。
その間で、書簡が一本の糸のように行き来し始めている。
糸はまだ細い。
だが、確かに繋がった。




