第53話 二通の返書
二通の返書は、同じ朝に砦を出た。
一通は王立書庫へ。
もう一通は、第二王子ルシアンへ。
どちらも同じ使者が持っていく。だが、重みは少し違った。
王立書庫への返書は、記録としての返答だ。
後援印の照合結果を受け取ったこと。
ヴァイスナー侯爵家分家印との類似を、現時点では“候補”として扱うこと。
旧代官所側でも追加調査を続けること。
そして、第二王子への返書は、まだ手紙と呼ぶには冷たく、報告と呼ぶには少し踏み込んだものだった。
礼を述べる。
情報保全を願う。
王都側の記録が消える前に、可能な限り写しを取ってほしいと伝える。
ただし、誰を疑っているとは書かない。
レティシア・エーヴェルシュタインは、封を施したその二通を見ながら、しばらく黙っていた。
ルイスが少し不安げに問う。
「閣下、本当にこの文面でよろしいでしょうか」
「ええ」
「第二王子殿下への文は、かなり……」
「踏み込んでいる?」
「はい」
「そうね」
レティシアは認めた。
「でも、これ以上薄くすると意味がなくなるわ」
ルイスは封書を見つめる。
「もし、第二王子殿下が本気でなかったら」
「その時は、それがわかる」
「もし、本気だったら?」
「王都の中に、こちらと同じものを見ている人がいることになる」
それは大きい。
味方かどうかは、まだわからない。
けれど、同じ方向を見ている者がいるかもしれないというだけで、今の辺境にとっては十分な意味があった。
ディルク・ヴァルゼンは、窓の外へ視線を向けていた。
中庭では、使者の馬が準備されている。
王都までの道は長い。途中で雨が降れば遅れる。北からの風が強ければ、山道で足止めもある。
「護衛をつけます」
ディルクが言った。
「王都の使者に?」
「ええ。表向きは辺境側からの礼として。実際には、封書が途中で消えないように」
「お願い」
「二名で十分かと」
「ええ。多すぎると目立つわ」
ディルクは短く頷いた。
その頃、町ではいつも通りの朝が動いていた。
荷捌き場では、ヨハンが銀狐商会から受け取った馬具材料を、鍛冶屋の親父と一緒に確認している。
ガレスは、馬小屋跡の入口に敷いた石の上を何度も歩き、沈む場所がないか確かめていた。
豆売りの女主人は、炊事長と簡易汁物に回せる豆の量を言い合っている。
町は知らない。
今、王都へ向かう二通の封書が、この土地の未来を大きく変えるかもしれないことを。
だが、それでいいのだとレティシアは思った。
すべてを知らせることが、信頼ではない。
知らせるべき時に、知らせるべき形で伝える。
それまでは、日々の仕事を止めない。
使者は、封書を胸元へ丁寧にしまった。
「確かにお預かりいたします」
「道中、気をつけて」
レティシアが言うと、使者は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます」
馬が動き出す。
蹄の音が石畳を叩き、門を抜け、やがて北ではなく南――王都へ続く道へ消えていった。
その背を見送ったあと、ルイスがぽつりと言った。
「なんだか、妙な気分です」
「妙?」
「王都は、ずっと遠い場所だと思っていました。こちらを見ていない場所というか……でも今は、王都の誰かがこの帳場の紙を見ている」
「そうね」
「少し、怖いです」
正直な言葉だった。
レティシアは小さく頷いた。
「怖いのは当然よ。見られるということは、こちらも測られるということだから」
「はい」
「でも、見られないまま食われるよりはいいわ」
ルイスはその言葉を聞き、背筋を伸ばした。
「……はい」
午後、旧代官所の私物箱の調査が続けられた。
昨日見つかった王都紙の封筒は、別の小箱へ移され、湿気を避けるため乾いた布で包まれている。
香りはまだわずかに残っていた。花と香木の、王都らしい甘さ。辺境の土と鉄の匂いの中では、ひどく浮いて感じられる。
マイゼルは、その封筒を見るたびに顔を曇らせた。
レティシアは彼に問う。
「まだ思い出したことがある?」
マイゼルは少し迷ったあと、首を縦に振った。
「……書記長は、その封筒を受け取った後、いつも人払いをしていました」
「相手は白蔦の若君?」
「たぶん、そうです。ただ、一度だけ別の人物も一緒でした」
「どんな人?」
「商人風でした。けれど、普通の商人より身なりがよく、言葉遣いも王都の者に近かった」
「銀狐商会?」
「わかりません。ただ……銀色の狐の留め具をつけていたのを見た気がします」
ディルクの目が鋭くなる。
「なぜ昨日それを言わなかった」
マイゼルは怯えたように肩を縮めた。
「思い出したのが今で……本当に、曖昧だったのです。狐の意匠なんて、当時は気にも留めていませんでした」
レティシアは手でディルクを制した。
「いいわ。思い出した時に言って」
「はい」
「ただし、思い出した順番も記録する。後で記憶の変化を追うために」
ルイスがすぐに書き留める。
マイゼルは驚いたように顔を上げた。
「記憶の変化まで、ですか」
「人の記憶は帳簿ほど真っ直ぐではないもの」
レティシアは静かに答えた。
「だから、いつ、何を思い出したかを残すの。嘘を暴くためだけではなく、あなた自身の記憶を守るためにも」
その言葉に、マイゼルは唇を引き結んだ。
責められると思っていたのだろう。
だが、記憶を守ると言われたことで、少しだけ表情が変わった。
「……承知しました」
その夜、王都では王太子アルベルトが苛立っていた。
祭礼後の処理はまだ終わっていない。
商会への詫び状、席次で不満を持った貴族家への調整、王妃付き女官からの苦言。どれも大きな問題ではないが、いちいち面倒だった。
「また書類か」
アルベルトは机の上に積まれた紙を見て、露骨に顔をしかめた。
側近のエドガル・ヴァイスナーは、柔らかく笑って言った。
「殿下がすべてご覧になる必要はございません。細かなものは、我々で処理いたします」
「なら早く片づけろ」
「もちろんです」
エドガルは優雅に頭を下げた。
その動きは整っている。
声も穏やかだ。
だが、彼の指先はほんのわずかに落ち着きがなかった。
理由は、王立書庫の動きだった。
最近、第二王子ルシアンが書庫に入り浸っているという。
それだけなら珍しくもない。あの地味な弟は、昔から記録を読むのが好きだった。
だが、調べている対象が問題だった。
北方旧所領。
鉱山収益。
山越え交易商会。
銀狐商会。
そして、ヴァイスナー家の古い取引控え。
エドガルは笑顔を保ったまま、内心で舌打ちした。
どうして今さら。
なぜ、あの辺境の話が王都へ戻ってくる。
「エドガル」
アルベルトが呼ぶ。
「はい、殿下」
「お前、何か心当たりがあるのか」
一瞬、空気が止まる。
だがエドガルは、すぐに微笑んだ。
「何の件でございますか」
「いや。妙に顔が硬い」
「祭礼後の処理に少々気を張っておりました。ご心配をおかけしたなら申し訳ありません」
アルベルトは鼻を鳴らした。
「まったく、どいつもこいつも細かいことばかりだ。レティシアがいた頃は、こんなことをいちいち俺の前に持ってこなかった」
言ってから、アルベルト自身が一瞬不機嫌そうに口を閉じた。
また、その名だ。
最近、何かにつけて彼女の名が出る。
誰かが言うのではない。
自分の中で出てきてしまう。
エドガルはその隙を見逃さず、穏やかに言った。
「レティシア嬢は、確かに細かな作業には長けておられましたから」
「細かな作業、か」
「ええ。ですが、王太子妃となるには、それだけでは足りません」
アルベルトの表情が少しだけ落ち着く。
その言葉を求めていたのだ。
自分の判断は間違っていない。
レティシアは役には立ったが、それだけの女だった。
妹のエミリアの方が、王太子妃として華やかで、隣に立つにふさわしい。
そう思いたい。
エドガルはさらに続けた。
「辺境で多少働いているという噂もありますが、あの地はもともと混乱しておりました。少し手を入れれば目立つだけのこと」
「そうだな」
アルベルトは頷いた。
だが、その頷きは以前より弱かった。
エドガルはそれに気づき、胸の内でさらに焦りを覚えた。
王太子が揺らいでいる。
まだ小さい。
だが、揺らいでいる。
だからこそ、王立書庫の動きはまずい。
エドガルは部屋を出ると、廊下の端で近侍に低く命じた。
「ヴァイスナー家の古い商務記録を確認しろ。特に北方関係だ」
「はっ」
「それから、銀狐商会に繋ぎを取れる者を探せ」
近侍は顔を上げた。
「銀狐商会、ですか」
「声が大きい」
「失礼しました」
エドガルは冷たい目で言った。
「急げ。だが目立つな」
その声には、先ほど王太子の前で見せた柔らかさはなかった。
遠く離れた辺境では、その動きをまだ誰も知らない。
ただ、夜の帳場で、レティシアは今日の記録をいつも通り口述していた。
「王都へ二通の返書を発送。旧代官所私物箱より得た王都紙封筒について継続調査。マイゼル証言により、白蔦の若君の来訪時、商人風の人物が同席していた可能性が浮上。銀狐意匠の留め具を見たとの追加証言あり。ただし記憶は曖昧につき、要照合」
ルイスが書き終える。
レティシアは、少しだけ間を置いた。
「追記」
「はい」
「糸を引けば、向こう側でも必ず揺れる。問題は、誰がその揺れを隠そうとするかである。」
窓の外では、三つの火が静かに燃えていた。
王都で誰かが動き始めたことを、まだその火は知らない。
けれど、火は消えていない。
それだけは、確かなことだった。




