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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第42話 セラフィナの距離

その夜、銀狐商会は小さな宴を開いた。


 宴といっても、王都の夜会のような華やかなものではない。

 場所は町外れの古い馬小屋跡、その脇に張られた大きな天幕だった。


 毛皮が敷かれ、北方の酒が並び、香辛料を使った温かな肉の煮込みが湯気を立てている。灯りは薄く、火は低く、けれど寒さを忘れるには十分だった。


 セラフィナ・ヴァルクは、その灯りの中で一段とよく映えた。


 露骨な装いではない。

 むしろ肌はほとんど隠れている。

 だが、外套を脱ぐ仕草、杯を持つ指先、言葉の間の取り方に、妙な艶があった。


「辺境の夜は、思ったより温かいのですね」


 彼女は微笑みながら言った。


 レティシアは杯に口をつけず、静かに答える。


「火を守る人が増えたからでしょうね」


「素敵な言い方」


 セラフィナは少し身を寄せる。


「王都では、そういう言葉をお使いにならなかったのでは?」


「王都では、火を守るより、灯りを飾ることが多かったから」


「なるほど。では、こちらの方が貴女には合っているのかもしれませんわ」


 甘い言葉だった。


 褒めている。

 慰めてもいる。

 だが同時に、王都に捨てられた傷を探っている。


 レティシアは表情を変えない。


「合うかどうかではなく、ここにいると決めただけよ」


「強い方」


「そう見えるだけ」


「いいえ」


 セラフィナの声が少し低くなる。


「本当に強い方ほど、ご自分が傷ついていることを他人に見せませんもの」


 その一言で、ディルクの視線がわずかに鋭くなった。


 だがレティシアは静かに受け流す。


「商人は傷を見るのが得意なのね」


「傷口に塩を売るのも、薬を売るのも、商人の仕事ですから」


「なら、私は薬だけ買うわ」


 セラフィナは一瞬だけ目を見開き、それから楽しそうに笑った。


「本当に、隙をくださいませんのね」


「隙を売るほど、まだ豊かではないもの」


 天幕の外では、町の者たちが控えめに動いていた。

 ヨハンが荷車の位置を確かめ、ガレスが人の流れを見ている。

 鍛冶屋の見習いは、火の位置をじっと見ていた。


 その動きに、セラフィナの視線が一瞬だけ流れる。


「よい町になり始めていますわ」


「まだ始めたばかりよ」


「始めたばかりで、これなら十分です」


 セラフィナは杯を置き、今度はディルクへ視線を向けた。


「ヴァルゼン卿」


「何だ」


「忠誠だけでは、兵を食べさせられませんわ」


 場の空気が一段冷える。


 ディルクは動じなかった。


「知っている」


「あら」


「だから今、食わせる仕組みを作っている」


 短い返答だった。


 だが、その言葉には以前の辺境にはなかった強さがある。


 セラフィナは満足げに目を細めた。


「なるほど。貴方も変わった方なのですね」


「閣下ほどではない」


「それは褒め言葉かしら」


 レティシアが言うと、ディルクは真顔で答えた。


「半分は」


 そのやり取りに、セラフィナが声を立てずに笑った。


 宴は穏やかに進んだ。


 だが、レティシアは気を抜かなかった。


 銀狐商会の者たちは、あまりにも自然に辺境の配置を見ている。

 中継小屋の位置。

 夜火の距離。

 荷車の通り道。

 見張りが交代する時刻。


 その目は、客のものではない。

 道を測る者の目だ。


 やがて、天幕の外で小さな物音がした。


 一瞬だけ、鍛冶屋の見習いが顔を上げる。

 次にガレスが動いた。


 早かった。


「誰だ!」


 叫びと同時に、外で足音が乱れる。


 ディルクが即座に立ち上がった。

 レティシアも杯を置く。


 天幕の外へ出ると、銀狐商会の若い男が一人、荷置き場の裏で押さえられていた。

 手には、小さな紙片と炭筆。

 どうやら中継小屋の火の配置を書き写そうとしていたらしい。


 ヨハンが怒鳴る。


「客のふりして何見てやがる!」


 男は顔を逸らす。


 セラフィナも外へ出てきた。


 その表情は穏やかだった。

 だが、目だけは笑っていない。


「……困りましたわね」


 レティシアは彼女を見る。


「知らなかった、と?」


「商会の者が勝手にしたことですわ」


「そう」


 レティシアは否定しなかった。


 代わりに、ルイスへ視線を向ける。


「記録して」


「はい」


 ルイスはすぐに帳面を開いた。


「銀狐商会所属の者一名、夜会中に中継小屋火配置および荷置き場周辺を無断記録しようとした。場所、時刻、所持品、目撃者を記すこと」


 セラフィナの目が、わずかに変わった。


 怒鳴らない。

 責め立てない。

 けれど、逃がさない。


 それがこの土地のやり方になり始めている。


 レティシアは静かに言った。


「罪は声を荒げれば消えるものではないわ。記録に残して、次から塞ぐの」


 セラフィナは、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頭を下げる。


「こちらの不手際です。詫びましょう」


「詫びは受けるわ」


 レティシアは答えた。


「ただし、この者は明朝までこちらで預かる。何を見ようとしたのか、誰に命じられたのか、記録を取る」


 セラフィナは微笑む。


「厳しいですわね」


「こちらの規則よ」


 その一言で、セラフィナはそれ以上言わなかった。


 夜会はそこで終わった。


 天幕の灯りはまだ残っている。

 香辛料の匂いも、酒の匂いも、毛皮の温もりもある。


 だが、甘い空気は消えていた。


 砦へ戻る道で、ディルクが低く言った。


「見られていましたね」


「ええ」


「狙いは中継小屋か」


「それだけではないわ」


 レティシアは答える。


「火の位置を見るということは、人の動きを見るということ。人の動きを見るということは、流れの弱い場所を探すということよ」


 ディルクは頷いた。


「明日から配置を変えます」


「ええ。でも慌てすぎないで」


「なぜです」


「こちらがどこに気づいたかを、全部見せる必要はないもの」


 ディルクは少しだけ笑った。


「やはり、閣下は意地が悪い」


「商談には必要でしょう?」


 その夜、帳場でルイスはいつもより丁寧に記録を残した。


 レティシアは最後にこう口述した。


「銀狐商会との夜会中、商会員一名が中継小屋および夜火配置を無断記録しようとしたため拘束。町側の見張りと夜火分散案が早期発見に寄与。外部商会は、交易だけでなく領内運用の把握を試みている」


 そして追記する。


 甘い声は、剣より深く人の判断を鈍らせる。だからこそ、火のそばには目を置かなければならない。

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