第43話 条件が良すぎる取引
翌朝、帳場の机には銀狐商会の提案書が置かれていた。
鉱石の高値買い取り。
燃料、馬具、塩、毛皮の供給。
中継設備への出資。
北方への安全な輸送路。
どれも、辺境が欲しがるものばかりだった。
だが、レティシア・エーヴェルシュタインは、その紙を見下ろしながら静かに言った。
「良すぎるわね」
ルイスが顔を上げる。
「良すぎる、ですか」
「ええ。良すぎる条件は、たいてい代金を別の場所で払わせるためにあるの」
部屋には、ディルク、ハルトマン、オルド、ヨハン、ガレス、豆売りの女主人、鍛冶屋の親父が集められていた。
昨夜、銀狐商会の者が中継小屋の配置を盗み見ようとした。
その事実は、全員の表情を硬くしている。
鍛冶屋の親父が腕を組んで唸る。
「馬具を入れてくれるって話は助かる。正直、こっちの革も金具も足りねえ」
「でも、それが続けば?」
レティシアが問う。
親父はすぐに渋い顔をした。
「こっちの鍛冶が死ぬ」
「そういうことよ」
豆売りの女主人も、提案書を睨むように見る。
「食料を入れてくれるのもありがたいけどね。北の豆や粉が安く入れば、うちらの豆は売れなくなる」
ヨハンが首をひねった。
「運んでもらうのは楽だ。でも、楽すぎる。俺らの荷車が要らなくなる」
ガレスが小さく続ける。
「荷運びも、要らなくなる」
オルドが鼻を鳴らした。
「山の石を外の奴が急に高く買う時は、たいてい山を殺す気だ。最初は高く買う。こっちが頼り切ったところで値を下げる。最後には“他に売り先がねえだろ”って顔をする」
部屋の空気が重くなる。
条件は甘い。
だからこそ危ない。
ディルクが低く言った。
「受けるべきではない、ということですか」
「いいえ」
レティシアは首を横に振る。
「受けるわ」
全員が顔を上げた。
ルイスが思わず声を出す。
「受けるのですか?」
「ええ。ただし、丸呑みはしない」
レティシアは提案書の一文を指で押さえた。
「問題はここ。“北方輸送に関する一時的な専任委託”。これを消す」
ヨハンが頷く。
「つまり、運ぶのは俺たちも入る」
「そう。銀狐商会だけには任せない」
豆売りの女主人が言う。
「食料も、全部入れさせない」
「ええ。村の産物を潰さない範囲に限る」
鍛冶屋の親父が続ける。
「馬具や金具も、完成品ばかりじゃなく、材料で入れさせる」
「それがいいわ。領内の職人が手を入れる余地を残す」
オルドがにやりと笑った。
「鉱石は?」
「少量だけ。試験取引にする」
「量はこちらが決めるんだな」
「ええ。山は商人に合わせて掘るものではないもの」
その言葉に、オルドは満足そうに頷いた。
レティシアはルイスへ視線を向ける。
「返答案を作るわ」
「はい」
「条件は七つ」
彼女はゆっくりと数え上げた。
「一、鉱石の売却は少量の試験取引のみ。二、量と時期は領地側が決める。三、中継小屋の使用料を取る。四、荷の出入りは帳場登録必須。五、銀狐商会の専任委託は不可。六、町の荷車屋と荷運びを必ず組み込む。七、食料・馬具・金具は領内産業を圧迫しない範囲に限定」
ルイスの筆が走る。
その音を聞きながら、レティシアは続けた。
「それと、昨夜の件も条項に入れる」
ディルクが目を細める。
「無断調査の件ですね」
「ええ。今後、無断で施設配置、人員配置、帳場記録を探った場合、取引は即時停止」
鍛冶屋の親父が低く笑った。
「そいつは効くな」
「効かせるために書くのよ」
やがて、使者が銀狐商会の天幕へ送られた。
昼過ぎ、セラフィナ・ヴァルクが帳場へ現れた。
昨日と同じように美しく、昨日より少しだけ楽しそうな顔で。
「返答をいただけると伺いました」
「ええ」
レティシアは紙を差し出した。
セラフィナはそれを受け取り、目を通す。
最初は微笑んでいた。
だが、読み進めるうちに、その笑みが少しずつ変わっていく。
消えたのではない。
鋭くなったのだ。
「……ずいぶん、こちらの牙を抜きに来ましたわね」
「牙があると認めるのね」
「商人ですもの」
セラフィナは紙から目を上げる。
「ですが、この条件では、こちらの利が薄くなります」
「嘘ね」
レティシアは即座に言った。
「利は残しているわ。薄くしたのは、支配できる余地よ」
一瞬、沈黙が落ちる。
セラフィナはそれから、愉快そうに笑った。
「本当に、貴女は商人泣かせですわ」
「泣いても利益が出るなら、商人はまた来るでしょう?」
その言葉に、セラフィナの笑みが深くなる。
「……ええ。来ますわね」
彼女は紙を畳んだ。
「この条件で、試験取引に応じます」
ルイスが息を吐く。
だがレティシアはまだ表情を緩めない。
「もう一つ」
「あら、まだ?」
「昨夜拘束したあなたの商会員について」
セラフィナの目がわずかに冷える。
「処罰を?」
「いいえ。記録を取ったうえで返すわ」
セラフィナは少し意外そうな顔をした。
「よろしいのですか」
「ええ。ただし、彼が見ようとした場所はすべて配置を変える」
「それを私に言ってしまってよろしいの?」
「変えると伝えた場所だけを見てくれるなら、助かるわ」
セラフィナは数秒黙った。
そして、今度こそ本当に笑った。
「完敗ではありませんけれど……一本取られましたわ」
レティシアは淡々と返す。
「取引は勝ち負けではないわ」
「では?」
「次も続けられるかどうかよ」
セラフィナは、その言葉を静かに受け止めた。
やがて、優雅に一礼する。
「では、続く取引にいたしましょう。レティシア様」
初めて、彼女は少しだけ敬意を込めてその名を呼んだ。
セラフィナが去ったあと、帳場にはしばらく沈黙が残った。
ヨハンがぽつりと言う。
「……勝ったんですか?」
レティシアは首を横に振った。
「まだよ」
ガレスが少し不安そうに問う。
「じゃあ、負けてない?」
「ええ」
レティシアは机の上の返答案へ視線を落とす。
「今日は、負けない形を作っただけ」
ディルクが低く言った。
「それで十分です」
レティシアは小さく頷いた。
その夜、帳面にはこう記された。
銀狐商会との試験取引、条件付きで合意。
専任委託を拒否。
帳場登録、中継小屋使用料、領内荷車屋の参加、領内産業保護を条件化。
無断調査への即時停止条項を追加。
外部勢力を拒絶するのではなく、領地の規則内へ縛る方針を確定。
最後に、レティシアは静かに口述した。
外の力は毒にも薬にもなる。違いを決めるのは、こちらの手で量れるかどうかだ。




