第204話 柳瀬小宿
柳瀬小宿という名は、王立書庫の資料では小さな字で書かれていた。
地図の端、旧白蔦流通路の枝道沿い。
かつては旅人が泊まり、荷運びが草鞋を替え、干し飯を買い、馬を休ませた場所だったという。
だが今は、正式な宿場ではない。
古い馬繋ぎ跡。
数軒の家。
草履を売る老婆。
干し飯を扱う小さな家。
それから、道を知る者たちの生活。
それだけの場所だった。
ルイスは王立書庫の写しを読み上げ、少しだけ眉を寄せた。
「柳瀬小宿。旧白蔦流通路沿いの小宿場跡。現在は宿場機能の大半を失うが、旅人向けの草履、干し飯、簡易道具を扱う家が残る」
豆売りの女主人が腕を組んだ。
「宿場跡って言うと、すぐ怪しく聞こえるね」
ヨハンが頷く。
「古道、宿場跡、旅人。もう言葉だけで怪しいです」
「だから危ないんだよ」
女主人は言った。
「生活してる人間からすれば、ただの家だ。草履を売ってるだけ、干し飯を売ってるだけ。それを“白蔦筋の隠れ宿”なんて言われたら、たまったもんじゃない」
レティシアは静かに頷いた。
「柳瀬小宿を、怪しい場所として扱いません」
ルイスがすぐに書いた。
柳瀬小宿は、旧道沿いの生活地。怪しい場所とはしない。
ガレスはその札を見て、小さく息を吐いた。
「場所にも札がいるんですね」
「ええ」
レティシアは答えた。
「場所を疑うと、そこに住む人すべてを疑うことになります」
クラウス・ベルガーも頷いた。
「商会でも同じです。ある倉庫が事件に使われた可能性があるからといって、その倉庫で働く者すべてを犯人にしてはいけません」
豆売りの女主人が言う。
「豆蔵で悪さがあったからって、豆まで悪いわけじゃない」
ボルツが横からぼそりと言った。
「豆は悪さしねえだろ」
「たまに煮え方が悪い」
「それは豆の悪さじゃねえ」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いのおかげで、柳瀬小宿という名にまとわりついた白蔦の影が、わずかに薄まった。
調査隊は少人数で出された。
警備兵二名。
南の村の案内人。
エリオ。
ヨハン。
そして草履編みのサヨ。
サヨは、今日も腰を曲げたまま、しかし目だけは鋭かった。
「柳瀬の草履売りなら、たぶんトメ婆だね」
ヨハンが聞く。
「知り合いですか」
「昔、祭りで草履を売り合ったことがある。向こうの方が旅人相手だから、編みが粗くて強い。うちの村のは畑用だから、少し違う」
エリオがすぐ記録する。
柳瀬小宿の旅草履は、南の村草履と編み方が異なる可能性。サヨ所見。
サヨはじろりとエリオを見た。
「可能性、でいいよ。草履は足で変わるからね」
「はい」
エリオは素直に頷いた。
柳瀬小宿へは、南の村から徒歩で半日弱。
小鹿渡しを越え、冬季木材道を抜け、灰松倉庫跡の横をかすめる。そこからさらに北東へ細い道が続いていた。
道は、人ひとりなら歩ける。
ただし、荷車は無理だった。
何度確認しても、その結論は変わらない。
ヨハンは道を見ながら言った。
「この道、小箱なら行ける。でも、荷車は絶対に無理です」
案内人が頷く。
「昔の荷運びでも、ここは背負い荷か手荷物だったそうです」
エリオが記録した。
灰松倉庫跡以北、柳瀬小宿方面。徒歩通行可。荷車不可。背負い荷・小物携行向き。
柳瀬小宿は、思ったより静かな場所だった。
宿場という言葉から想像するような賑わいはない。
古い道の両側に、低い家がいくつか並んでいる。屋根はところどころ修繕され、壁には干した草履がぶら下がっていた。軒下には干し飯の笊が置かれ、古い馬繋ぎの柱が一本、斜めに傾いたまま残っている。
サヨが小さく言った。
「ここも年を取ったね」
ヨハンが聞く。
「昔はもっと人が?」
「旅人がいたよ。今よりはね。でも、道が細くなれば、人も細る」
エリオはその言葉を書きかけて、少し迷った。
サヨが目ざとく言う。
「それは書かなくていい」
「はい」
「でも、忘れなくていい」
エリオは小さく頷いた。
草履売りの老婆は、サヨの言った通りトメという名だった。
年齢はサヨと同じくらいか、少し上か。背はさらに小さく、手は節くれ立っている。だが、草履を編む指の動きだけは速かった。
トメは調査隊を見て、最初から警戒していた。
「白蔦がどうとか、そういう話なら帰っとくれ。うちは草履を売ってるだけだよ」
エリオが答えるより先に、サヨが一歩前へ出た。
「トメ婆、久しぶりだね」
トメは目を細めた。
「……サヨかい?」
「まだ死んでないよ」
「しぶといねえ」
「あんたもね」
二人の老婆は、しばらく互いの顔を見て、それから同時に鼻で笑った。
ヨハンが小声でエリオに言う。
「助かりましたね」
「はい」
サヨは単刀直入に言った。
「泥のついた旅草履を履いた男が、南の村へ行く道を聞かなかったかい」
トメは手元の草履を編みながら、しばらく黙っていた。
「旅人は来るよ。少ないけどね。南の村へ行く道を聞く者もいる」
「最近だよ」
「最近も、何人かはいる」
「王都風じゃない。粗末な旅装。腰に古い布袋」
トメの指が、そこで少し止まった。
エリオはそれを見逃さなかった。
トメは、ゆっくり顔を上げる。
「……いたかもしれないね」
ヨハンがすぐに言いかける。
「その男――」
サヨが肘で止めた。
「急かすんじゃないよ。年寄りの記憶は、引っ張るとちぎれる」
トメは不満そうに鼻を鳴らした。
「あんたも年寄りだろう」
「だから知ってるんだよ」
それから、トメは少しずつ話した。
数日前、旅人風の男が来た。
草履がかなり傷んでいたので、旅草履を一足買った。
南の村へ抜ける道を聞いた。
荷は少ない。
王都風ではない。
だが、このあたりの者とも少し違う。
腰には古い布袋をつけていた、ような気がする。
エリオは慎重に記録する。
柳瀬小宿草履売りトメ証言:数日前、旅人風の男に旅草履を売った可能性。南の村への道を尋ねた可能性。王都風ではなく、当地の者とも異なる印象。確証なし。
ヨハンが聞いた。
「その男は、小鹿渡しの道を知っていましたか」
トメは首を横に振った。
「知ってるふうじゃなかったね。南の村へ行くにはどこを渡ればいいか、と聞いた。だから、小鹿渡しの浅い所を教えた……いや、私は詳しくは教えてないか」
サヨが眉を上げる。
「誰が教えたんだい」
「隣の干し飯屋のゲンかもしれない。あいつの方が道に詳しい」
エリオが記録する。
旅人は南の村への道を尋ねた可能性。旧道を熟知していたとは限らない。詳細案内は隣の干し飯屋の男の可能性。
ヨハンは少し考え込んだ。
「つまり、泥草履の旅人は、旧道をよく知る現地側の人間ではない可能性もある」
「はい」
エリオが頷く。
「道を聞きながら歩いた可能性があります」
トメは、ふと思い出したように言った。
「草履だけじゃないよ」
全員が彼女を見る。
トメは、軒先に吊るしてある古い布袋を指さした。
「古い布袋も買っていった。腰の袋が古かったのか、替えが欲しかったのか知らないけどね」
ヨハンが息を呑んだ。
「古い布袋……」
南の村の宿主人、下働き少年、薪売りの証言。
泥草履の旅人は、腰に古い布袋をつけていた。
これが、柳瀬小宿で買われたものかもしれない。
だが、まだ決めない。
エリオは書いた。
トメ証言:旅人風の男に古い布袋も売った可能性。南の村証言の腰布袋と接続可能性。ただし同一とは未確認。
サヨがトメに聞く。
「その布袋、どんなものだい」
「中古の旅袋だよ。穴を古麻糸で直してある。うちじゃよく売る」
「色は」
「灰茶。使い込んだやつだね」
「補修糸は?」
「古麻糸。灰がかったやつ。あんたも使うだろ」
「使うけど、うちの村とは縫い方が違う」
トメは少し笑った。
「そりゃそうだ。あんたの縫い目は細かすぎる。旅袋は丈夫ならいい」
エリオは二人のやり取りを、必要な部分だけ記録した。
柳瀬小宿の中古旅袋:灰茶色、古麻糸補修、丈夫さ重視。南の村袋補修とは縫い目が異なる可能性。
ヨハンが言った。
「その男、なぜ布袋を買ったんでしょう」
トメは肩をすくめる。
「旅人が袋を買う理由なんて、いくらでもあるよ。干し飯を入れる。濡れた草履を入れる。拾った物を入れる。盗んだ物を入れる」
最後だけ、妙に軽く言った。
エリオが筆を止める。
トメはにやりとした。
「冗談だよ。半分くらいはね」
サヨが呆れたように言う。
「あんた、変わらないねえ」
「変わったら草履が売れないよ」
ヨハンは、少し表情を引き締めた。
「小箱は入りますか。その布袋に」
トメは首を横に振った。
「箱は無理だね。小さい箱なら別だけど、普通の荷箱は無理」
「細長い革袋なら」
「入る」
「紙包みは」
「入る」
「木札は」
「入る」
ヨハンはエリオを見た。
エリオも頷いた。
記録する。
柳瀬小宿中古旅袋、小箱全体は困難。ただし細長革袋・紙包み・木札等の小物は収容可能。
トメは、彼らの反応を見て目を細めた。
「何かあったのかい」
エリオは答えを選んだ。
「受取先不明の小荷について、経路を確認しています。柳瀬小宿の方々を疑うものではありません」
トメはしばらく彼を見ていた。
「そう言うなら、そうなんだろうね。ただ、ここは細い道だ。細い道には、いろんなものが通る。人も、噂も、厄介ごとも」
サヨが頷いた。
「だから、足元を見るんだよ」
トメは、久しぶりに笑った。
「年寄り二人で、若いのに足元を教える日が来るとはね」
調査隊が柳瀬小宿を離れる前、ヨハンはもう一度トメに確認した。
「その男は、南の村へ行く道を聞いたんですね」
「聞いたと思うよ」
「旧白蔦流通路、という言葉は」
トメは顔をしかめた。
「そんな言葉、外の人間が喜んで使うだけだよ。うちらはただの古道って呼ぶ」
「白蔦筋は」
「古い商人なら言うかもしれないね。でも、ここに住む者からすれば、飯を買いに行く道で、草履がすり減る道だよ」
エリオが記録する。
柳瀬小宿生活者は、旧白蔦流通路を日常の古道として認識。白蔦筋の呼称は商人・外部者の言葉である可能性。
帳場へ戻った報告を聞き、レティシアはしばらく黙っていた。
壁には、泥草履の旅人の線が伸びる。
南の村。
村北口。
小鹿渡し。
冬季木材道。
灰松倉庫跡。
柳瀬小宿。
そこに、二つの新しい札が加わった。
旅草履購入候補。
古い布袋購入候補。
ガレスが言った。
「泥草履の旅人が柳瀬小宿を通った可能性は、上がりましたね」
レティシアは頷いた。
「上がりました」
「でも、柳瀬小宿の人が事件関係者とは言わない」
「ええ」
ルイスが書いた。
柳瀬小宿は経由地候補。住民関与とはしない。
豆売りの女主人が満足げに頷いた。
「大事だね。道を知ってる人を、すぐ悪者にしない」
クラウスも言った。
「生活道路として知っている者と、事件に利用する者は別です」
レティシアは、古い布袋の札を見た。
「次は、布袋です」
ヨハンが頷く。
「小箱全体は入らない。でも、中身なら入る」
ガレスが小さく言った。
「泥草履の旅人は、小箱を丸ごと受け取るんじゃなくて、中身だけ回収するつもりだった可能性もある」
レティシアは答えた。
「候補として置きます。まだ次で整理します」
夜、レティシアは柳瀬小宿の札を前にして口述した。
柳瀬小宿は、怪しい宿場ではなかった。古道沿いの生活地だった。草履を売り、干し飯を売り、細い道を知っている者たちが暮らしている。そこに、泥草履の旅人が来たかもしれない。旅草履を買い、南の村への道を尋ね、古い布袋も買ったかもしれない。布袋には小箱は入らない。だが、細長革袋、紙包み、木札なら入る。柳瀬小宿は黒ではない。だが、泥草履の旅人の足元と腰の袋に、柳瀬の生活の匂いがついた可能性がある。白蔦筋は、彼らにとって闇の道ではなく、草履がすり減る道だった。次は、古い布袋を見る。箱を運ぶためか、中身を抜くためか。
ルイスは筆を置いた。
柳瀬小宿は、白蔦筋の奥にあった。
闇の隠れ家ではなく、細い道を生活にしている場所として。
だからこそ、その道を誰かに利用されたのなら、見誤ってはいけなかった。




