第203話 踏み跡を作り直す
足跡は、見つけるものではなく、見直すものだった。
少なくとも、この日の帳場ではそうなった。
これまで小鹿渡し周辺の踏み跡は、何度も確認している。
深い踏み込み跡。
横滑り様の跡。
草倒れ。
冬季木材道へ向かう細い通り跡。
だが、その時に見ていたのは、主に良い靴の男だった。
王都風の若い使い。
通称レオン。
泥で汚れた良い靴。
だから、浅い草履跡は、背景に溶けていたかもしれない。
ルイスは朝一番で新しい札を書いた。
見たいものがあると、見えないものができる。
豆売りの女主人は、それを読んで鼻を鳴らした。
「今日の札は耳が痛いね」
ヨハンが苦笑する。
「俺に刺さってます」
「荷車屋だからねえ。車輪跡と靴跡は見ても、草履までは見なかった」
「言い訳できません」
ガレスがすぐに言った。
「でも、最初から草履の旅人がいるなんて、誰も知らなかったですし」
ヨハンは首を横に振った。
「知らなかったから見なくていい、じゃないんだよ。見てなかったものがあった。それだけで十分まずい」
その言い方に、帳場は少し静かになった。
レティシアは責めなかった。
「今日は、責任を探す日ではありません。踏み跡を作り直す日です」
ルイスが表題を書く。
小鹿渡し周辺踏み跡の再確認――草履状跡を含む
ボルツが腕を組んだ。
「草履跡なんざ、どこまで区別できるんだ」
ヨハンが答える。
「難しいです。草履は靴底みたいに形がはっきりしない。編み目が残ることもあるけど、泥が柔らかすぎると潰れる。乾きすぎても残らない」
豆売りの女主人が言う。
「じゃあ、見つけても決められないんじゃないかい」
「はい。決められないと思います」
ヨハンは正直に言った。
「でも、“あるかもしれない”場所は絞れます」
レティシアは頷いた。
「それで十分です」
現地へ出る人数は絞られた。
警備兵二名。
南の村の案内人。
エリオ。
ヨハン。
そして今回は、南の村から草履を編む老婆が呼ばれることになった。
名をサヨという。
八十近い小柄な女で、背は曲がっているが、目だけは若かった。村で使う草履の編み方を知る者として、村長が推薦してきた人物である。
彼女は帳場へ入るなり、壁の札を見て言った。
「草履の跡なんて、そんな上品なもんじゃないよ」
ヨハンが頭を下げる。
「わかっています。ですが、村の草履と旅人の草履で、違いが出ることはありますか」
「出ることはある。出ないこともある」
豆売りの女主人が笑った。
「ここの帳場向きの答えだね」
サヨは女主人をちらりと見た。
「帳場の答えじゃなくて、草履の答えだよ」
その一言で、場が少し和んだ。
小鹿渡しへ向かう道は、前より慎重に歩かれた。
自分たちの足跡を増やさないよう、前回と同じ場所を踏む。
エリオは最初に記録する。
再確認隊の踏み位置を限定。新規痕跡混入注意。
小鹿渡しに着くと、まず木杭、浅瀬、対岸の草倒れを確認した。
問題は、対岸右側だった。
以前、冬季木材道へ向かう草倒れが確認された場所。
そこで、ヨハンはしゃがみ込んだ。
「この浅い跡、前は獣か村人の跡だと思って流しました」
泥の上に、かすかな横長の圧痕がある。
靴ではない。
裸足でもない。
ただ、草履と断定できるほど明瞭でもない。
サヨが腰をかがめ、じっと見た。
「草履かもしれないね」
ガレスが思わず身を乗り出す。
サヨは、すぐに釘を刺した。
「かもしれない、だよ。村の山菜採りの跡かもしれない。旅人かもしれない。古い跡が潰れたのかもしれない」
エリオが記録する。
小鹿渡し対岸右側に浅い横長圧痕あり。草履状にも見えるが、村人・山菜採り・旅人・古跡変形の可能性。
さらに少し先。
冬季木材道へ入る手前の湿った土に、細かな筋が残っていた。
ヨハンは眉を寄せる。
「編み目……ですかね」
サヨは、手を出さずに目だけで追った。
「村の草履の編み目とは少し違う。うちの村は横をきつく詰める。これは斜めが強い」
「村のものではない?」
「そうは言わないよ。古い草履なら崩れる。履き方でも変わる。ただ、見慣れた編みじゃない」
ルイスが帰還後に受けるため、エリオは丁寧に書く。
草履状跡の一部に斜め筋様あり。サヨ所見:南の村一般草履の横詰め編みとは異なる印象。ただし古草履・摩耗・泥変形の可能性あり。
ヨハンは深く息を吐いた。
「見落としてました」
サヨが、ぽつりと言った。
「見落とすさ。草履なんて、誰も見ない。貧乏人の足元だからね」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
良い靴は記憶に残る。
泥草履は風景になる。
だから、事件の中で見落とされる。
レティシアがその場にいたなら、おそらくこう言っただろう。
見落とされたものほど、紙へ置く。
調査隊は、さらに冬季木材道入口周辺を確認した。
良い靴らしき深い踏み込み跡は、以前と同じ位置にある。
その少し外側に、浅く広い跡が複数あった。
以前は村人の足跡として扱われていたものだ。
しかし、泥草履の旅人という候補が出た今、見え方が違う。
ヨハンは言った。
「良い靴の跡より、外側を歩いてますね」
案内人が頷く。
「地元の者なら、石を避けて外を歩くことがあります。旅人でも、草履なら滑る石を避けるでしょう」
サヨが言う。
「草履は濡れ石に弱いからね。浅瀬を越えた後なら、泥の方がましなこともある」
エリオが記録する。
浅瀬通過後、石を避ける外側に浅い踏み跡複数。草履歩行者が濡れ石を避けた可能性。ただし村人利用とも整合。
決定打ではない。
だが、見落としていた足元が、少しずつ紙の上に現れてきた。
帰還後、帳場で報告が始まった。
ガレスは受領係として、ルイスの隣に座っている。
ヨハンが最初に言った。
「草履状跡はありました。ただし、泥草履の旅人のものとは断定できません」
ガレスは頷いて書く。
「草履状跡あり。旅人とは未確認」
ルイスが横から見て、微笑んだ。
「よいです」
サヨの所見も記録された。
南の村の一般的な草履は、横詰めの編みが多い。
確認された斜め筋様の跡は、村の標準とは少し違う印象。
ただし、古草履、摩耗、泥の変形、別の村の草履、旅人用草履など複数可能性がある。
豆売りの女主人が言った。
「じゃあ、南の村の人間じゃない可能性が少し上がる?」
レティシアは答えた。
「少し上がります。ただし、村人ではないとは言いません」
ルイスが書く。
草履状跡は南の村標準草履と異なる印象。ただし村人除外には不十分。泥草履の旅人線の弱補助。
ボルツが言った。
「弱補助ばっかりだな」
ガレスが返す。
「でも、弱補助がないと見えなかった線です」
ボルツは少し驚いたようにガレスを見た。
それから、短く笑った。
「言うようになったな」
ガレスは少し照れた。
「受領係ですから」
さらに、南の村から追加証言が届いていた。
村北口で旅人を見た水汲み女が、草履について思い出したのだという。
旅人の草履は、村の草履より鼻緒が太く、かかと側の編みが粗かった。
どこかの宿場で売っている旅草履に似ていた。
南の村の者が普段履くものとは、少し違う気がした。
ただし、水汲み女は草履職人ではない。
ルイスが読み上げると、サヨが少し目を細めた。
「鼻緒が太くて、かかとが粗い……柳瀬の方で売ってる旅草履に似てるかもしれないね」
帳場が静まった。
レティシアが聞く。
「柳瀬とは」
サヨが答えた。
「柳瀬小宿。昔の古道沿いの小さな宿場だよ。今は宿場ってほどじゃないけど、旅人相手に草履や干し飯を売る家が残ってる」
ロイエンが王立書庫資料を確認する。
「柳瀬小宿……あります。旧白蔦流通路の枝道沿い。小鹿渡しからさらに北東へ抜ける古宿場跡です」
ヨハンが壁の旧道図を見る。
「灰松倉庫跡の先ですか」
「はい」
ロイエンは地図を指した。
「冬季木材道から北へ抜けると、柳瀬小宿方面へ出る可能性があります」
ルイスが新しい札を書いた。
柳瀬小宿。旧白蔦流通路沿いの古宿場候補。
豆売りの女主人が低く言った。
「白蔦筋は、まだ奥へ続いてたわけだ」
ガレスは、壁の小物移動経路図を見つめた。
南の村。
小鹿渡し。
冬季木材道。
灰松倉庫跡。
柳瀬小宿。
新しい地点が現れた。
空白だった「南の村から先」に、初めて名前が入った。
レティシアは、静かに言った。
「ただし、泥草履の旅人が柳瀬小宿から来たとはまだ言いません」
ルイスが書く。
柳瀬小宿の旅草履と似る可能性。泥草履の旅人の出発地とは未確認。
クラウスが言った。
「それでも、確認する価値はあります。旅草履を売った記録、旅人の目撃、古道利用者」
ボルツが顔をしかめる。
「また新しい場所か」
豆売りの女主人が答えた。
「道を追ってるんだから、場所は増えるさ」
王太子府向けの報告には、踏み跡再確認の結果と、柳瀬小宿の名が記された。
ロイエンがまとめる。
小鹿渡し対岸および冬季木材道入口付近の踏み跡を再確認したところ、草履状の浅い踏み跡候補を確認。南の村標準草履とは異なる斜め筋様の印象あり。ただし、村人・山菜採り・泥変形の可能性を排除できない。水汲み女および草履編みサヨの所見より、柳瀬小宿周辺で売られる旅草履に似る可能性が出た。柳瀬小宿は旧白蔦流通路沿いの古宿場候補であり、泥草履の旅人の足元線として確認を要する。
レティシアは読み、頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは息を吐く。
「白蔦筋が、また伸びましたね」
「はい」
「終わりが見えません」
豆売りの女主人が言った。
「道ってのは、終わりが見えないから道なんだよ」
夜、レティシアは新しい地点名の札を見つめながら口述した。
踏み跡を作り直した。良い靴を探していた目では、草履は背景に沈んでいた。小鹿渡しの対岸、冬季木材道の入口、石を避ける外側の泥。そこに草履状の浅い跡があった。南の村の草履とは少し違うかもしれない。旅人の草履は、柳瀬小宿で売られる旅草履に似ているかもしれない。まだ弱い。泥は混ざる。草履跡は潰れる。人の記憶は後から整う。それでも、南の村から先の空白に、初めて名が入った。柳瀬小宿。白蔦筋は、まだ奥へ続いている。
ルイスは筆を置いた。
壁の空白は、もう白くなかった。
そこには細い字で、新しい場所の名が書かれている。
柳瀬小宿。
泥草履の旅人がそこから来たかどうかは、まだわからない。
だが、白蔦筋の先に、もうひとつの灯りが見えた。




