第182話 樹脂と油のあいだ
灰松倉庫跡の窪みから持ち帰られたものは、泥だった。
泥。
それだけ聞けば、何の役にも立たないように思える。
けれど、帳場では、その泥が三つの小袋に分けられて並べられていた。
圧痕様内側の泥。
圧痕様外側の泥。
窪み入口付近の泥。
そして、その横には比較対象として、さらにいくつかの小瓶と包みが置かれている。
王都系金具油。
北方鍛冶場の重い油。
第三鍵類似加工鍵が入っていた革袋の外側拭い布。
灰松から採った樹脂片。
未申告荷車の古布から取った粉。
南の村小箱の保存布。
長机の上は、まるで小さな市のようだった。
ただし、売っているのは豆でも布でもなく、疑いの欠片である。
豆売りの女主人は、それを見て顔をしかめた。
「泥まで札付きかい」
ルイスは真面目に答えた。
「泥ほど混ざりますから」
「たしかにね。土と油と樹脂と革と、人の思い込みまで混ざる」
ヨハンが横から言う。
「思い込みは袋に分けられないですけどね」
「だから口で分けるんだよ」
女主人がそう返すと、ガレスが少しだけ頷いた。
「最近、それがわかってきました」
マルタは静かに小袋のひとつを開いた。
圧痕様内側の泥。
灰松倉庫跡の窪みの底で、長方形の色差があった場所から採ったものだ。
彼女は香りを見る。
帳場の全員が、自然と息を潜めた。
マルタは目を閉じ、ほんの少しだけ顔を離す。
「やはり、油様の匂いはございます」
ガレスが身を乗り出しかける。
レティシアが見る。
ガレスは慌てて姿勢を戻した。
「……金具油、とはまだ言わない」
「ええ」
マルタは頷いた。
「金具油とも、革の油とも、樹脂とも取れる匂いです。弱く、古く、土と混ざっています」
ルイスが記録する。
圧痕様内側泥、微弱な油様臭あり。金具油・革油・灰松樹脂・土由来の混合可能性。単独判定不可。
ボルツは腕を組み、鼻を鳴らした。
「俺にも嗅がせろ」
マルタが小袋を渡す。
ボルツは少し乱暴に受け取りかけ、ルイスの視線に気づいて手を止めた。
「……触った箇所、記録するんだろ」
「はい」
「面倒な帳場だな」
豆売りの女主人がすかさず言う。
「その面倒で、あんたも守られてるんだよ」
「わかってるよ」
ボルツは不満そうに言いながらも、布越しに袋を持ち直した。
彼は泥の匂いを嗅ぎ、少し眉を寄せる。
「王都の細い金具油に似てる気もする。だが、灰松の樹脂でも似る。こりゃ混ざってるな」
クラウス・ベルガーも確認した。
「商会で扱う金具油に近い要素はあります。ただ、商会品と断定するには弱すぎます」
ヨハンが言った。
「革袋の匂いとはどうですか」
マルタは、第三鍵類似加工鍵が入っていた革袋の拭い布を手に取った。
革、金属、微かな油。
それから、圧痕様内側の泥。
彼女は二つを比べ、少しだけ首を傾げた。
「似ている部分はございます」
帳場が静まる。
マルタはすぐに続けた。
「ただし、革袋そのものの匂いというより、革袋に塗られていた油と、泥の油様臭が一部似ている、という程度です。革袋がそこに置かれたとは申しません」
ルイスが素早く書く。
第三鍵類似加工鍵革袋拭い布と、圧痕様内側泥の油様臭に一部類似。ただし革袋設置を意味しない。油の種類・環境付着・樹脂混合の可能性あり。
ガレスは、紙の文字を見ながら呟いた。
「似ている。でも、置いたとは言えない」
「そう」
レティシアが答える。
「似ている、は入口です。結論ではありません」
豆売りの女主人が感心したように言った。
「入口ばっかりだね、この事件」
クラウスが苦笑する。
「出口が見えないのが難点です」
「商人なら出口も売りなよ」
「売れるなら買いたいくらいです」
小さな笑いが起きた。
だが、すぐに次の比較へ移る。
灰松樹脂。
前日に倉庫跡近くの灰松から採った、自然に固まった樹脂片だ。
マルタがそれを少し温めずに、常温のまま確認する。
「こちらも、古くなると油のような匂いが出ます」
ボルツも頷いた。
「ああ。金具油だと言われたら、疲れてる時なら間違うかもしれん」
ルイスが記録する。
灰松樹脂、古くなると油様臭あり。圧痕様内側泥の匂いと一部類似。金具油との誤認可能性。
ヨハンが頭をかいた。
「じゃあ、油線は弱まるんですか」
レティシアは答えた。
「単独では弱まります。ただし、革袋との一部類似は残ります」
「つまり、消えないけど太くもしない」
「ええ」
ルイスは図に新しい線を引いた。
油様臭線:弱線。革袋油・灰松樹脂・金具油の三候補。
豆売りの女主人がそれを見て、腕を組んだ。
「弱線って、なんか頼りないね」
「頼りなく書かないと、頼れない線を頼ってしまいます」
ルイスが言うと、女主人は目を細めた。
「いい返しだ」
次は、泥の形だった。
匂いだけではない。
圧痕様の長方形が、どれほどの大きさで、何の底に近いか。
ラウルは、灰松倉庫跡から測ってきた寸法を出した。
縦。
横。
深さ。
角の丸み。
色差の位置。
それを、第三鍵類似加工鍵の革袋の寸法と比べる。
完全には一致しない。
革袋の方が、少し長い。
ただし、折って置けば入る。
クラウスが言った。
「革袋をそのまま置いた跡ではないかもしれません」
ヨハンが応じる。
「折った革袋か、紙包みか、細い箱か。あるいは、ただの石」
ガレスが言う。
「でも、長方形なんですよね」
ラウルは慎重に答えた。
「長方形に見える、です。泥の乾き方でそう見える場合もあります」
ルイスが書く。
圧痕様寸法、第三鍵類似加工鍵革袋と完全一致せず。折った革袋・紙包み・細箱・石片接触・泥乾湿差等の可能性。長方形に見えること自体も観察所見。
ボルツがぼそりと言った。
「何も決まらねえな」
豆売りの女主人がすぐに言う。
「決まらないことが決まったんだよ」
「それで仕事になるのか」
「なるんだよ。決まってないものを決めたことにしないだけで、だいぶ人が助かる」
ボルツは黙った。
しばらくしてから、少し不服そうに頷いた。
「まあ、それはそうだ」
昼過ぎ、王太子府からの返信が届いた。
レオン下宿の私物調査の続報だった。
ルイスが封を確認し、読み上げる。
「通称レオン下宿保全物。香油小瓶、王都南区の一般品。高級品ではないが安物でもない。小瓶外側に灰松樹脂様の付着物あり。部屋に旧白蔦流通路略図、革紐片、乾いた泥付きの靴拭い布あり」
帳場の空気が変わった。
灰松樹脂様。
ここでまた、灰松が出た。
ガレスが思わず言う。
「灰松倉庫跡と……」
そこで止まる。
ルイスが続ける。
「ただし、王都南区でも灰松材を扱う工房はあり、灰松樹脂様付着物が北方由来とは限らない、との王都側注記」
ガレスは大きく息を吐いた。
「先に止められました」
豆売りの女主人が笑う。
「王都も少しわかってきたじゃないか」
レティシアは、ほんの少しだけ頷いた。
「よい注記です」
ルイスが書く。
レオン下宿香油小瓶外側に灰松樹脂様付着物。北方灰松倉庫跡由来とは限らない。王都南区工房由来可能性あり。
クラウスは報告の続きを見た。
「革紐片がありますね」
ルイスが読む。
「革紐片、幅細く、第三鍵類似加工鍵革袋の口紐と似る可能性あり。ただし一般的革紐。正式比較待ち」
ヨハンが長机の革袋を見た。
「口紐……」
マルタが言う。
「匂いが比較できれば、少し見えるかもしれません」
ボルツが鼻を鳴らす。
「また匂いか」
「ええ」
マルタは静かに答えた。
「ただし、匂いだけでは決めません」
ルイスが先に書いた。
匂いだけでは決めない。
豆売りの女主人が笑った。
「先回りが板についてきたね」
王都報告の最後には、靴拭い布の泥についても記されていた。
靴拭い布に乾いた泥。灰色がかった細かな砂を含む。王都南区の土とは異なる可能性あり。ただし北方由来とは未確認。王立土壌係照会中。
ヨハンが顔を上げた。
「土壌係なんてあるんですか」
ロイエンが答えた。
「王都の道路工事や農地評価で使う部署です。こういう時にも役立ちます」
豆売りの女主人が感心する。
「王都、変な係があるね」
「豆の係もあるかもしれません」
ガレスが冗談めかして言うと、女主人は真顔で返した。
「あるなら紹介しておくれ」
「本気ですか」
「豆は国を支えるよ」
少しだけ笑いが起きた。
だが、靴拭い布の泥は重要だった。
レオン下宿に残っていた泥。
灰松倉庫跡の窪みの泥。
冬季木材道の湿った土。
王都南区の土。
土もまた、道を語る可能性がある。
レティシアは新しい比較表を作らせた。
泥・樹脂・油様臭比較表
項目は五つ。
一、灰松倉庫跡窪み泥。
二、冬季木材道表土。
三、レオン下宿靴拭い布の泥。
四、王都南区一般土。
五、灰松樹脂様付着物。
ガレスが表を見て言った。
「だいぶ地味ですね」
ヨハンが笑う。
「でも、地味なものほど嘘をつきにくいんじゃないか」
クラウスが首を横に振る。
「いえ、土も移せます。靴についた泥を別の場所へ運ぶこともできます」
ガレスは肩を落とした。
「また、そういうことを……」
「ですが、完全に無意味ではありません」
クラウスは続けた。
「土が嘘をつくのではなく、人が土を運ぶ。だから、どこで混ざるかを見ます」
ルイスが内部控えに書く。
土が嘘をつくのではなく、人が土を運ぶ。
レティシアはそれを見て、静かに頷いた。
夕方、灰松倉庫跡の窪みについて、帳場の暫定所見がまとまった。
窪みには現物はなかった。
だが、圧痕様の内側の泥に微弱な油様臭がある。
それは革袋、金具油、灰松樹脂のいずれとも接続可能だが、どれとも断定できない。
レオン下宿の香油小瓶にも灰松樹脂様付着物があるが、北方由来とは限らない。
下宿の靴拭い布に、王都南区とは異なる可能性のある泥がある。
土壌比較待ち。
それだけ。
しかし、それだけでも、次に見るべき場所は定まった。
泥。
土。
靴跡。
通称レオンが本当に北方古道を歩いたのか。
その線を、顔ではなく足元から追う。
ロイエンは王太子府向け所見を書いた。
灰松倉庫跡窪み泥と第三鍵類似加工鍵革袋拭い布には油様臭の一部類似があるが、灰松樹脂による類似も確認されたため、金具油線は弱線に留める。通称レオン下宿保全物より、香油小瓶外側の灰松樹脂様付着物、革紐片、靴拭い布の泥が確認された。いずれも北方由来とは未確認だが、旧白蔦流通路の通行可能性確認と照合する価値あり。次段階では、泥・樹脂・油様臭を分離して比較する。
レティシアはそれを読み、頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは軽く肩を回した。
「今日の“よい”は、土の匂いがしますね」
豆売りの女主人が笑う。
「王都の副使様も、だいぶ泥くさくなったじゃないか」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分くらいは褒めてるよ」
「残り半分が怖いですね」
夜、レティシアは比較表の前で追記を口述した。
今日は、樹脂と油のあいだに立った。窪みの泥は、革袋を語りそうで、灰松樹脂にも似ていた。レオンの下宿には、灰松樹脂様のものがあり、泥のついた靴拭い布があった。だが、灰松は北方だけのものではない。泥も、人の足で運ばれる。似ているものは、すぐ隣に答えを置きたがる。革袋だったのだ。金具油だったのだ。レオンは灰松倉庫跡へ行ったのだ。そう言いたくなる。だが、今日はまだ言わない。匂いは弱線。泥は比較待ち。樹脂は由来未確認。弱い線を弱いまま置けたことが、今日の成果である。
ルイスは筆を置いた。
窪みからは、何も出なかった。
けれど、窪みに残った匂いと泥は、通称レオンの下宿へ細い線を伸ばした。
細い。
まだ頼りない。
だが、その線は、顔ではなく足元へ向かっていた。




