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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第183話 靴拭い布の泥

通称レオンの下宿から届いた靴拭い布は、見た目にはただの汚れた布だった。


 安宿の部屋に置いてあった、泥を落とすための古布。


 そこに物語を見ようとすれば、いくらでも見えてしまう。


 レオンは北方古道を歩いた。

 灰松倉庫跡に立ち寄った。

 窪みに何かを入れた。

 あるいは取り出した。


 そう言いたくなる。


 だが、帳場の長机に置かれた布には、まだ何も書かれていなかった。


 書かれているのは札だけだ。


 通称レオン下宿保全物。靴拭い布。泥付着あり。北方由来とは未確認。


 ガレスは、その札を見ながら息を吐いた。


「ただの汚れた布なのに、すごく重く見えます」


 豆売りの女主人が横で言う。


「汚れた布ってのは、案外いろいろ喋るよ。誰の足を拭いたかまでは言わないけどね」


 ヨハンが首を傾げた。


「でも、靴の泥って、どこまでわかるんですか?」


 ロイエンが王都から届いた資料を広げる。


「王都の土壌係は、泥の色、砂の粗さ、混ざる鉱物、植物片などで大まかな地域差を見るそうです。もちろん、断定ではありません」


 ルイスは先に書いた。


 土壌比較は地域傾向を見るもの。個人の移動証明ではない。


 ボルツが鼻を鳴らす。


「土にまで役人がいるのか。王都は暇なのか忙しいのかわからんな」


 豆売りの女主人が即座に返した。


「暇な人間は土なんか見ないよ。忙しすぎて、とうとう土まで見始めたんだろ」


「なんだそりゃ」


「褒めてるんだよ、半分くらい」


「残り半分は何だ」


「土」


 ヨハンが吹き出し、ガレスもつられて笑った。


 少しだけ、長机の上の泥の重さが和らぐ。


 だが、レティシアはすぐに本題へ戻した。


「比較対象を確認します」


 ルイスが読み上げる。


「一、通称レオン下宿の靴拭い布に付着した泥。二、灰松倉庫跡窪みの泥。三、冬季木材道表土。四、小鹿渡し付近の川砂。五、王都南区一般土。六、王都南門馬車宿周辺の泥」


 ガレスが言う。


「かなり多いですね」


「少ないと、似ている場所を勝手に選びます」


 レティシアは答えた。


「比較は、都合のよい相手だけとしてはいけません」


 ルイスが記録する。


 比較対象は広く置く。都合のよい類似先だけを選ばない。


 王都から届いた土壌係の第一報は、慎重だった。


 靴拭い布の泥には、細かな灰色砂と、赤みの少ない粘土分が含まれている。

 王都南区の一般土より、やや粒が粗い。

 王都南門馬車宿周辺の泥とは一部似るが、完全一致ではない。

 小鹿渡し付近の川砂に含まれる細かな灰色砂と、似た粒がある可能性。

 ただし、輸送中に混ざった泥、馬車宿の床泥、下宿周辺の土が混ざっている可能性もある。


 読み終えたルイスは、少し疲れた顔になった。


「似ている可能性、混ざっている可能性、完全一致ではない……」


 ヨハンが苦笑する。


「全部、もやもやですね」


 豆売りの女主人が頷いた。


「でも、“小鹿渡しに似てるからレオンは渡った”ってならないだけましだよ」


 ガレスは紙を見ながら言った。


「小鹿渡し付近の砂と、似た粒がある可能性。これは線としては?」


 レティシアは答える。


「弱い線です。ただし、移動表へ入れます」


 ルイスが壁の表に小さな札を貼る。


 靴拭い布の泥:小鹿渡し付近砂と一部類似可能性。弱線。


 その隣に、すぐもう一枚。


 泥の類似は通行証明ではない。


 ボルツがその札を見て言った。


「もう札が札を支えてるな」


 クラウスが静かに笑う。


「支えなければ倒れる線です」


 その言い方に、ボルツは少しだけ感心したように目を細めた。


「商人にしては、いい言い方だ」


「ありがとうございます。鍛冶職人に褒められるとは思いませんでした」


「褒めたのは半分だ」


 豆売りの女主人がすかさず言う。


「残り半分は鉄かい?」


「うるせえ」


 また小さな笑いが起きた。


 だが、その笑いのあと、ディルクが低く言った。


「小鹿渡しから先の足跡は」


 帳場の空気が変わった。


 足跡。


 泥と同じく、見たい答えを見せやすいものだ。


 レティシアは、すぐに線を引いた。


「足跡を見る。ただし、人を決めない」


 ルイスが表題を書く。


 小鹿渡し周辺および冬季木材道入口の踏み跡確認


 ディルクは頷く。


「今から出す。雨が降る前に見る」


 ロイエンが窓の外を見る。


 雲が少し厚い。


 雨が降れば、足跡は消えるか、変わる。


 急ぐ理由はある。


 だが、急いで荒らしてはいけない。


 派遣されたのは、警備兵二名と案内人、そしてエリオ。


 ヨハンは行きたそうな顔をしたが、今回は待機だった。


「俺、足跡は専門じゃないですけど、荷を持った人の歩き方なら少し……」


 ディルクは首を振った。


「今日は見るだけだ。踏み跡を増やさない」


「はい」


 ヨハンは素直に引いた。


 ガレスがにやりとする。


「待つ側へようこそ」


「お前、ちょっと嬉しそうだな」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「不安です」


 ヨハンは苦笑した。


「正直でよろしい」


 待つ時間は、長かった。


 帳場では、その間にレオン下宿の保全物一覧を整理した。


 香油小瓶。

 革紐片。

 靴拭い布。

 旧白蔦流通路略図。

 替え襟布。

 安物の筆。

 空の革袋。


 空の革袋について、クラウスが気にしていた。


「この空の革袋は、第三鍵類似加工鍵の革袋と同じ型ですか」


 ルイスが王都報告を確認する。


「寸法照会中です。第一報では、細長い革袋。ただし形状詳細未着」


 ガレスが言う。


「もし同じ型なら……」


 そこで止まる。


 自分で札をつけるように言い直した。


「同じ型なら、革袋を扱う同じ店、または同じ用途の可能性が出る。でも、同じものとは限らない」


 ルイスが少し微笑んだ。


「その通りです」


 豆売りの女主人が腕を組んで言う。


「ガレス、もう半分帳場の人だね」


「半分ですか」


「残り半分は、まだ顔に出る」


「そこ、なかなか直りませんね」


「直らなくていいよ。顔に出る人がいるから、紙に書けることもある」


 その言葉に、ガレスは少し黙った。


 レティシアも、何も言わなかった。


 昼を過ぎる頃、踏み跡確認隊が戻ってきた。


 雨はまだ降っていない。


 エリオは泥のついた靴で帳場の外に止まり、そこで靴底を拭いた。


 ルイスがすぐに言う。


「拭いた布も分けてください」


 エリオは一瞬きょとんとし、それから頷いた。


「はい。自分たちの泥ですね」


「混ざると困ります」


 豆売りの女主人が笑った。


「自分の足跡にも札だよ」


 報告が始まった。


 小鹿渡しの浅瀬付近には、複数の踏み跡があった。


 村人。

 山菜採り。

 調査隊自身。

 獣。

 区別は難しい。


 ただし、冬季木材道へ入る分岐手前に、少し深い踏み込み跡が一つあった。


 荷を持った者が足を取られたようにも見える。


 あるいは、単に滑った村人かもしれない。


 エリオが読み上げる。


「小鹿渡し北側、冬季木材道入口手前。右足様の深い踏み込み跡一つ。踵部分深め。つま先は北東向き。大きさは成人男性程度にも見えるが、靴底形状は不明瞭。荷を持つ者の踏み込み、滑り、雨後の沈み等の可能性。断定不可」


 ガレスが眉を寄せる。


「成人男性程度にも見える……」


 レティシアが言う。


「“にも見える”です」


「はい」


 ルイスは記録する。


 深い踏み込み跡一つ。成人男性程度にも見える。靴底形状不明瞭。通称レオンとの接続未確認。


 エリオは続けた。


「冬季木材道の第三地点付近、根の多い曲がり角手前に、靴底の横滑り様の跡あり。泥が横へ擦れている。近くに薄茶色糸様のものを回収した地点があります」


 ヨハンが顔を上げた。


「足元注意の目印だった可能性が少し上がりますね」


 ルイスが筆を構える。


 レティシアが先に言う。


「可能性が少し上がる、までです」


 ヨハンは頷く。


「はい」


 記録される。


 第三地点付近の薄茶色糸様のものと、根付近の横滑り様跡に位置関係あり。危険箇所目印可能性がやや上昇。ただし山仕事由来・偶然付着も残る。


 さらに、分岐右側には、草の倒れが続いていた。


 人が一人通ったようにも見える。


 ただし、調査隊が前回途中まで入っているため、自分たちの痕跡も混ざる。


 エリオは苦い顔で言った。


「前回の踏み跡と混ざっており、判別困難です」


 ディルクが静かに言う。


「それでいい。判別困難と書け」


 ルイスが記録する。


 分岐右側の草倒れ、前回調査隊痕跡と混在。判別困難。


 豆売りの女主人がぽつりと言った。


「自分たちで見えなくしたものもあるわけだ」


 レティシアは頷いた。


「ええ。だから、次から踏む場所をさらに決めます」


 その日の成果は、はっきりしたものではなかった。


 泥は似ている可能性がある。

 足跡はあるが、誰のものかわからない。

 目印候補の近くに滑り跡がある。

 だが、旧い山仕事由来かもしれない。

 レオン下宿の泥は、小鹿渡し付近と一部似る可能性がある。

 でも、王都南門馬車宿周辺とも混ざり得る。


 もやもやばかりだ。


 ガレスが思わず言った。


「進んでるんでしょうか、これ」


 誰もすぐには答えなかった。


 ヨハンが、少し考えてから言う。


「前は、“レオンが通ったかもしれない”ってだけだった。今は、“通ったならここで滑ったかもしれない。でも別人かもしれない”まで来た」


「それ、進んでます?」


「進んでるだろ。少なくとも、どこでわからなくなってるかは見えた」


 豆売りの女主人が頷く。


「そうだよ。迷子が“どこで迷子になったかわかった”なら、半分くらい帰ってきてる」


 レティシアは静かに言った。


「わからない場所が特定できることは、進展です」


 ルイスが内部控えに書いた。


 わからない場所が特定できることは、進展である。


 王太子府向け報告には、泥と足跡の両方が整理された。


 ロイエンが所見を書く。


 通称レオン下宿靴拭い布の泥は、小鹿渡し付近の灰色砂と一部類似可能性があるが、王都南門馬車宿周辺泥との混在可能性もあり、通行証明とはならない。小鹿渡し北側および冬季木材道入口周辺に複数の踏み跡を確認したが、村人・獣・調査隊痕跡との混在があり、個人特定不可。第三地点付近の糸様のものと横滑り様跡の位置関係から、危険箇所目印可能性はやや上昇。ただし山仕事由来の可能性を残す。現時点では、通称レオンが当該道を通行したとは認定しない。


 レティシアは読んで頷いた。


「よいと思います」


 ロイエンは苦笑した。


「“認定しない”ばかりの報告ですね」


「認定しないことを報告するのも、実務です」


 豆売りの女主人が笑う。


「王都の人たち、また頭を抱えるね」


「抱えていただきましょう」


 ルイスが真面目に言ったので、今度は皆が少し笑った。


 夜、レティシアは泥の比較表と踏み跡図の前に立った。


 口述が始まる。


 泥は、足を語るようで、まだ語らなかった。靴拭い布の泥には、小鹿渡しに似た砂があるかもしれない。だが、馬車宿の泥も混ざる。踏み跡は、道に残っていた。だが、村人も獣も私たち自身も歩いている。今日、通称レオンがここを通ったとは言えなかった。けれど、どこで言えなくなるのかは見えた。小鹿渡し、冬季木材道入口、根の多い曲がり角、分岐右側。わからない場所が特定できることは、進展である。顔ではなく、足元を見る。足元でも決めつけない。泥は泥として、跡は跡として、まだ紙の上に置いておく。


 ルイスは筆を置いた。


 通称レオンの足取りは、まだ見えない。


 だが、見えない場所が少しずつ狭まっている。


 霧の中で、地面だけがわずかに見え始めた。


 その程度の進み方でも、今の帳場には十分だった。

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