第181話 窪みに残った形
灰松倉庫跡の窪みを開ける朝、帳場の空気はいつもより硬かった。
何かが出るかもしれない。
その期待がある。
何も出ないかもしれない。
その失望もある。
けれど、一番危ないのは、そのどちらでもない。
出てほしいものを、出たことにしてしまうことだった。
ルイスは長机の上に、新しい紙を置いた。
表題は、もう何度も直した末にこうなっていた。
灰松倉庫跡・石囲い状窪みに関する内部確認
豆売りの女主人がそれを読んで、首をひねった。
「“内部確認”って、ちょっと硬いね」
「“掘削”と書くと、大げさです。“開封”と書くと、箱のように聞こえます。“探索”だと、何かを探しに行くように聞こえます」
ルイスがそう答えると、女主人は豆袋を抱えたまま笑った。
「なるほど。言葉選びだけで朝から疲れそうだ」
ヨハンが横で言う。
「もう、帳場は言葉の鍛冶場ですね」
「誰がうまいこと言えと」
ボルツが来ていた。
鍛冶職人としてではなく、金具油と黒褐色粒様のものの比較のために呼ばれたのだ。本人は面倒くさそうな顔をしているが、ちゃんと時間通りに来ている。
豆売りの女主人がにやりとした。
「あんたも今日は言葉を削られる側だよ」
「俺は鉄を削る方がいい」
「どっちも火傷するから気をつけな」
ガレスが、そのやり取りに少し笑った。
だがすぐに、壁の図へ視線を戻す。
灰松倉庫跡。
落ち葉の少ない石敷き。
黒褐色粒様のもの。
北側壁の縦擦れ跡。
石囲い状の窪み。
昨日は、窪みを開けなかった。
その判断は正しかった。
正しかったからこそ、今日が重い。
レティシアは出発前に、立会人を確認した。
「現地確認は、ディルク、警備兵二名、案内人、エリオ、ラウル、ヨハン。追加で、ボルツは倉庫跡には入らず、回収物があった場合の比較担当として帳場待機」
ボルツが眉を上げた。
「俺は行かないのか」
「現地の人数を増やしません」
「まあ、森歩きは好きじゃないからいいが」
ヨハンが小声で言った。
「絶対ちょっと行きたかった顔ですよ」
「うるせえ」
レティシアは続けた。
「ガレスは帳場待機。戻った記録の受領と移動表への反映」
ガレスは、今度は不満を言わなかった。
「はい。受けます」
豆売りの女主人が満足げに頷く。
「いい顔になってきたね」
「札が喉に引っかかる顔ですか」
「今日は、ちゃんと札を飲み込んだ顔だよ」
ガレスは少し困ったように笑った。
灰松倉庫跡へ向かう道は、昨日よりも慎重に進んだ。
分岐右側の枝道には、すでに調査隊の踏み跡がある。
エリオは最初に、それを記録した。
前回調査隊の踏み跡あり。新規痕跡との混同注意。
ヨハンが、足を置く場所を選びながら言う。
「自分たちの跡が、一番邪魔になるんですね」
ディルクは短く答えた。
「だから、同じ場所を踏め」
「はい」
灰松倉庫跡は、朝の光の中で見ると、昨日よりもさらに寂れて見えた。
屋根はなく、石壁の影だけが地面に落ちている。
崩れた壁の隙間から、草が伸びている。
ここに倉庫があったと言われなければ、古い囲いか、壊れた石垣にしか見えない。
ラウルは外周を見てから言った。
「昨日の状態と、大きな変化はありません」
エリオが書く。
灰松倉庫跡、前日確認時から目視上の大変化なし。
窪みは、北側壁の影にあった。
石で四辺を囲ったようにも見えるが、きれいな形ではない。古い床石がずれただけにも見える。
落ち葉が詰まっている。
表面には、昨日確認した攪拌様の乱れがまだ残っていた。
ディルクは周囲を見回した。
「位置記録」
エリオが測る。
北側壁から腕二本分。
入口跡から十七歩。
落ち葉の少ない石敷きから五歩ほど奥。
縦擦れ跡のある壁から斜め前。
ヨハンが小声で言った。
「座って、壁に何か立てかけて、足元の窪みに手を伸ばせる位置ですね」
エリオが筆を止める。
ディルクがヨハンを見る。
「見たままか、推測か」
ヨハンはすぐに答えた。
「推測です。位置関係から、そうできるというだけです」
エリオが記録する。
ヨハン所見:石敷き・壁擦れ跡・窪みの位置関係から、同一人物が座り、棒状物を立てかけ、窪みに手を伸ばすことは可能。ただし推測。
ディルクは頷いた。
「よし」
いよいよ、窪みの確認に入る。
まず、表面の落ち葉を一枚ずつ外す。
乱暴に掻き出さない。
エリオが落ち葉の層を記録する。
「上層、乾いた葉。中層、湿った葉。下層、泥混じり」
ラウルが手元を見て言う。
「下の方に、小石があります」
小石ではなかった。
薄い石片だった。
蓋のようにも見える。
ただし、ぴったり閉じられているわけではない。窪みの底に斜めに置かれている。
エリオは書く。
落ち葉下に薄石片あり。蓋状に見えるが、窪みを完全閉塞せず。人為配置か崩落石か未確認。
ディルクが石片を持ち上げる前に、全員が位置を確認する。
石片の向き。
泥の付き方。
下に空間があるか。
ラウルが細い棒で軽く周囲を確かめた。
「下に少し隙間があります」
ヨハンが顔をしかめた。
「何か入ってた……いや、入れられる空間はあります」
エリオが書き直す。
窪み内部に小空間あり。何かが入っていたとは断定しない。
石片が持ち上げられた。
下には、浅いくぼみがあった。
深さは掌ひとつ分ほど。
大きな箱は入らない。
だが、革袋や紙包み、小さな鍵、細い道具なら入る。
中には何もなかった。
少なくとも、目に見える物体はない。
その空っぽさが、逆に場を静かにした。
ヨハンが息を吐いた。
「空ですか」
ディルクはすぐに言う。
「空、と記録する前に底を見る」
エリオは頷いた。
窪みの底には、泥と細かな木屑のようなものがあった。
そして、底の右奥に、長方形の跡がある。
泥の色がそこだけ少し違う。
何かが置かれていたようにも見える。
あるいは、石片が当たっていただけかもしれない。
ラウルが慎重に言った。
「長方形の圧痕様のものがあります」
エリオが記録する。
窪み底右奥に長方形圧痕様の色差あり。物体設置跡、石片接触跡、泥乾湿差等の可能性。
ヨハンが覗き込む。
「大きさは……南の村の小箱より小さいですね」
「小箱そのものは入りませんか」
エリオが聞くと、ヨハンは首を横に振った。
「入っても蓋が閉まらないと思います。革袋なら入る。鍵の革袋くらいなら」
その言葉で、場が少し重くなった。
第三鍵類似加工鍵が入っていた細長い革袋。
あれなら、この窪みに入る。
だが、それは「入る」だけだ。
入っていたとは言えない。
エリオは、慎重に書いた。
窪みの大きさは南の村小箱全体には不適。ただし細長い革袋程度は収容可能。第三鍵類似加工鍵革袋との接続は未確認。
ディルクは、底の泥を少量回収するよう指示した。
位置を分ける。
圧痕様の内側。
圧痕様の外側。
窪み入口付近。
それぞれ別袋。
ヨハンが、窪みの縁を見た。
「ここ、指で掻いた跡みたいなのがあります」
エリオが近づく。
窪みの手前側、泥が少しこすれている。
指か、枝か、小動物か。
断定はできない。
窪み手前縁に擦過様の乱れ。指、枝、小動物、雨水流入等の可能性。
ラウルが小さく言った。
「もし誰かがここから何かを取り出したなら、手前にこういう跡が残るかもしれません」
ディルクが確認する。
「推測だな」
「はい」
エリオが書く。
ラウル推測:取り出し動作で手前縁に擦過が生じる可能性。ただし推測。
窪みの確認は、そこで止められた。
それ以上掘らない。
広げない。
周囲を崩さない。
ディルクは言った。
「ここに何かがあったかもしれない。だが、今はない」
エリオが書く。
窪み内に現物なし。ただし長方形圧痕様、泥色差、手前縁擦過様の乱れあり。過去に物体が置かれた可能性。未確認。
帰り道、ヨハンは黙っていた。
ディルクが珍しく声をかける。
「何を考えている」
「いや……何もなかったのに、何かあった気がするのが嫌だなって」
「気がする、で止めろ」
「はい」
ヨハンは苦笑した。
「でも、空っぽって、妙に怖いですね」
ディルクは少しだけ間を置いた。
「空っぽは、人に中身を想像させる」
「また札ですね」
「そうだな」
帳場へ戻ると、ガレスが立ち上がった。
「おかえりなさい。窪みは?」
ヨハンは、今度も慎重に答えた。
「中に現物はありませんでした。ただ、底に長方形の跡みたいな色差がありました。革袋くらいなら入る大きさです。でも、入っていたとはまだ言えません」
ガレスは頷き、すぐに言った。
「現物なし。跡様のものあり。接続未確認」
ルイスが少し驚いた顔をした。
「正しいです」
ガレスは、少し照れた。
「待機の成果です」
豆売りの女主人が笑う。
「いいねえ。待ってる間に育ってる」
回収物は、窪みの泥だけだった。
泥。
それだけなら、何の面白みもない。
けれど、その泥は三つに分けられている。
圧痕様の内側。
外側。
入口付近。
マルタはそれぞれを確認した。
「内側の泥に、かすかに油様の匂いがあります」
場が静かになる。
彼女はすぐに続けた。
「ただし、非常に弱いです。樹脂、古い革、金具油、いずれとも断定できません」
ボルツが呼ばれる。
彼は泥の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「金具油っぽくもあるが、森の樹脂でもありそうだな。灰松の樹液が古くなると、こういう匂いもする」
ルイスが書く。
窪み底圧痕様内側泥に微弱な油様臭。金具油・革・樹脂等の可能性。ボルツ所見、灰松樹脂でも類似臭あり。断定不可。
クラウスも確認したが、結論は同じだった。
「商会の金具油と接続するには弱すぎます」
ロイエンが頷く。
「弱い線として記録」
ガレスがすぐに言う。
「樹脂線も残す」
ルイスは少し笑った。
「はい」
レティシアは、灰松倉庫跡の図に新しい札を置かせた。
石囲い状窪み。現物なし。革袋程度収容可能。圧痕様あり。微弱油様臭。樹脂可能性あり。
その下に、さらに大きく。
空であることは、使われなかったことを意味しない。
豆売りの女主人が、その文字を読んで低く笑った。
「今日の札は、それだね」
ヨハンも頷く。
「空だから終わり、じゃないんですね」
「ええ」
レティシアは答えた。
「ただし、空だから何かがあった、とも言いません」
ルイスが追加する。
空であることは、何かがあったことの証明でもない。
ボルツが顔をしかめる。
「上と下で喧嘩してないか、その札」
豆売りの女主人が返す。
「喧嘩してるくらいがちょうどいいんだよ。片方だけだと走るからね」
夕方、町向け説明は短く整えられた。
灰松倉庫跡の状態確認を行いました。石囲い状の窪みを確認しましたが、事件関係物は発見されていません。窪みの状態は記録し、引き続き確認します。白蔦会活動を示すものではありません。
ガレスが読んで言った。
「“何も出なかった”とは書かないんですね」
ルイスが答える。
「事件関係物は発見されていません、にしています。何も出なかった、だと見落としがないように聞こえます」
「なるほど」
王太子府向け報告には、さらに細かい所見がついた。
ロイエンが筆を走らせる。
灰松倉庫跡の石囲い状窪みを立会い確認。内部に現物なし。ただし底部に長方形圧痕様の色差、手前縁擦過様の乱れ、微弱な油様臭を確認。窪みは南の村小箱全体には不適だが、第三鍵類似加工鍵が入っていた革袋程度は収容可能。ただし当該革袋が置かれた証拠はない。油様臭は金具油・革・灰松樹脂等の可能性があり、接続不可。空であることは、使用されなかったことも、何かがあったことも意味しない。
レティシアはそれを読み、頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは、少し疲れた笑みを浮かべる。
「最後の一文で、王都の何人かが頭を抱えますね」
「抱えていただきましょう」
豆売りの女主人が笑った。
「いいね。王都にも、もやもや札を配るんだ」
夜の帳場で、レティシアは追記を口述した。
窪みは空だった。だが、空であることは、使われなかったことを意味しない。何かがあったことの証明でもない。底に残った長方形の形、泥の色差、微かな油様の匂い。それらは、何かを語りそうで、まだ語らない。人は空白を見ると、そこに物語を入れたくなる。鍵が入っていたのだ。革袋が隠されていたのだ。レオンがここで待っていたのだ。そう言いたくなる。だが、窪みは窪みである。跡は跡様である。匂いは匂い様である。今日の成果は、何かを見つけたことではない。空白を空白として保てたことである。
ルイスは筆を置いた。
灰松倉庫跡の窪みには、何もなかった。
だが、何もなかったことが、ただの終わりではない。
空白が、次に調べるべきものを指していた。
何がそこに入ったのかではない。
誰が、そこを空にしたのか。
あるいは、そもそも最初から空だったのか。
その違いを確かめるために、また別の線を引かなければならなかった。




