第180話 灰松倉庫跡
灰松倉庫跡。
その名は、地図の上では小さかった。
王立書庫の古い資料では、旧物流組合の補助倉庫のひとつとされている。雪や雨で街道が使えない時、荷を一時的に置くための場所。木材、石材、小麦袋、乾燥豆、金具類、帳簿箱。そうしたものが、一時だけ置かれ、また別の道へ流れていった。
だが、今は倉庫ではない。
村長の返答によれば、十年以上前に屋根が落ち、壁の一部だけが残っているという。
つまり、正式な倉庫ではない。
管理者もいない。
使われていないはずの場所。
けれど、使われていないはずの場所ほど、何かに使われる。
帳場の誰もが、もうそれを知っていた。
朝、ルイスは新しい紙に表題を書いた。
灰松倉庫跡裏手に関する通行可能性および残置物確認
ヨハンは、それを横から見て、少し目を細めた。
「とうとう倉庫跡まで来ましたね」
ガレスが緊張した顔で言う。
「倉庫跡って、何かありそうに聞こえます」
豆売りの女主人が、すぐに言った。
「その“ありそう”が危ないんだよ」
「はい」
「倉庫って言葉だけで、人は箱や鍵や怪しい荷を置きたくなる。頭の中に」
レティシアは頷いた。
「ですから、今日の確認は“何かを見つける”ではなく、“通れるか、残っているか、最近使われたか”です」
ルイスが追加で書く。
灰松倉庫跡に事件関係物があるとは未確認。探索ではなく、状態確認。
ディルクは出発人員を前回よりさらに絞った。
警備兵二名。
案内人。
エリオ。
ヨハン。
そして、今回はラウルが同行する。
古い倉庫跡の構造を見るためだ。
ガレスはまた帳場待機だった。
「またですか」
思わず声が出る。
レティシアは、彼を責めずに見た。
「今日は、戻った記録を移動表へ入れる人が必要です」
「……はい」
「あなたは、もう“聞いて整理する側”もできます」
ガレスは一瞬、言葉を失った。
ヨハンが笑う。
「昇格じゃないか」
「そうなんですか?」
豆売りの女主人が言った。
「行けないんじゃなくて、置かれてるんだよ。帳場に」
その言い方は少し乱暴だったが、ガレスには不思議と効いた。
置いていかれるのではない。
置かれている。
役目として。
「わかりました。帳場で待ちます」
「よし」
女主人は満足げに頷いた。
冬季木材道へ入るまでの道は、昨日よりも踏み跡が見えやすかった。
ただし、それは調査隊自身が昨日歩いた跡でもある。
エリオは最初にそれを記録した。
既調査隊の踏み跡あり。新規足跡と混同注意。
ヨハンが感心したように言う。
「自分たちの跡も邪魔になるんですね」
ラウルが答える。
「修繕でも同じです。自分が触った傷か、元からの傷かを忘れると、全部わからなくなります」
ディルクは短く言った。
「今日は、足を置く場所を決める」
案内人が先を示す。
第一地点。
第二地点。
第三地点。
第四地点。
昨日見つけた布・糸様のものの位置を確認しながら、分岐右側へ進む。
右側の枝道は、さらに細かった。
草が道の中央までかぶさり、低い枝が肩に当たる。荷車どころか、背負い荷でも大きければ引っかかるだろう。
ヨハンが小声で言った。
「小箱なら行ける。でも、大きな荷は無理です」
エリオが書く。
分岐右側枝道、人一人徒歩可。大荷・荷車不可。小箱・小物携行なら通行可能。
しばらく進むと、道が少し開けた。
灰松がまばらに生え、その奥に、崩れた石壁が見える。
灰松倉庫跡だった。
屋根はない。
梁もほとんど残っていない。
壁は腰ほどの高さで崩れ、北側だけが人の背より少し高く残っている。床は土に戻り、ところどころに古い石敷きが見えた。
案内人が言った。
「昔はここに屋根があったそうです。今は村の者もほとんど来ません」
ラウルは倉庫跡の外周を見ながら、眉を寄せた。
「壁の崩れ方が古いものと新しいものに分かれています」
ディルクが問う。
「新しい崩れがあるのか」
「あります。ただし、最近人が崩したとは限りません。雨や根で落ちた可能性も」
エリオが記録する。
灰松倉庫跡。屋根なし。壁一部残存。北側壁高め。崩落跡に新旧差あり。人為崩落か自然崩落か未確認。
ヨハンは足元を見ていた。
「ここ、誰かが座ったかもしれません」
全員の視線が集まる。
ヨハンは、石敷きの上を指した。
そこだけ落ち葉が少ない。
さらに、石の上に泥の薄い擦れがある。
「荷を置いた跡か、座った跡かはわかりません。でも、葉が均一じゃない」
ラウルもしゃがんだ。
「確かに。風だけなら、もう少し自然に溜まります」
ディルクが言う。
「記録。触るな」
エリオは場所を測った。
灰松倉庫跡内部、北側壁付近の石敷き一部に落ち葉少。泥擦れ様の跡あり。座り跡・荷置き跡・風雨影響いずれも未確認。
その近くに、小さな黒い粒が落ちていた。
焦げではない。
土でもない。
ヨハンが顔を近づける。
「これ、乾いた油かもしれません」
ラウルが見る。
「金具油?」
「可能性はあります。でも小さすぎる」
エリオがすぐ書く。
黒褐色粒様のもの数点。乾燥油・樹脂・土塊等の可能性。未回収。回収には立会い必要。
ディルクが判断する。
「回収する。位置を記録してから」
黒褐色粒様のものは、小さな紙へ慎重に移された。
それから、倉庫跡の北側壁の陰に、細い傷が見つかった。
石壁の内側に、何か硬いものを立てかけたような擦れ。
新しいか古いかはわからない。
ただ、その下に草が少し倒れている。
ラウルが言った。
「ここに棒か、細長い荷を立てかけた可能性があります」
ヨハンが答える。
「革袋くらいなら関係ないですね。杖、棒、細い包み」
エリオが記録する。
北側壁内側、縦方向擦れ跡あり。下草倒れ少。棒状物・細長い荷を立てかけた可能性。ただし新旧不明。
倉庫跡の奥には、石で囲まれた小さな窪みがあった。
昔の保管穴か、ただの排水穴か。
中には落ち葉が詰まっていた。
案内人は首を傾げる。
「こんなの、前からありましたっけ」
ディルクが見る。
「村で知られていないのか」
「子供の頃に来た時は、気にしたことがありません」
ラウルが慎重に言った。
「保管穴ではなく、床石が抜けただけかもしれません」
ヨハンが落ち葉の表面を見る。
「上の落ち葉、少しだけ動かされた感じがします」
空気が変わる。
エリオはすぐに書いた。
石囲い状の窪み。用途不明。落ち葉堆積あり。表面に攪拌様の乱れあり。人為か風雨・小動物か未確認。
ディルクは迷わなかった。
「今日は開けない」
ヨハンが顔を上げる。
「見ないんですか」
「見るための準備が足りない。ここを掘れば、こちらの痕跡を増やす」
ラウルも頷いた。
「正しいです。床構造もわかりません」
エリオは、その判断を記録した。
窪み内部は本日未確認。痕跡保全および構造不明のため、次回立会い拡大の上で確認予定。
帰り道、ヨハンは何度も振り返った。
灰松倉庫跡は、木々の間にすぐ隠れていく。
知らなければ、ただの崩れた石壁だ。
でも、知っていれば一時的に身を隠せる。荷を置ける。小箱を開けられる。地図を確かめられる。
使われていない場所は、使えない場所ではない。
その違いが、またひとつ見えた気がした。
帳場へ戻ると、ガレスは立って待っていた。
「おかえりなさい。報告、受けます」
少し緊張しているが、声は落ち着いていた。
エリオが記録板を広げる。
灰松倉庫跡は通行可能。
人一人なら到達できる。
大荷や荷車は困難。
内部に落ち葉の少ない石敷き箇所あり。
黒褐色粒様のものを回収。
北側壁に縦擦れ跡あり。
石囲い状の窪みは未確認。
ガレスは、ひとつずつ聞き返した。
「黒褐色粒様のものは、油と断定しない」
「はい」
「石敷きの落ち葉が少ないのは、座り跡とも荷置き跡とも断定しない」
「はい」
「窪みは、開けていない」
「はい。次回確認です」
豆売りの女主人が、少し離れて満足げに言った。
「ちゃんと受けられてるじゃないか」
ガレスは少し照れた。
「ありがとうございます」
ルイスは正式記録へ移す。
レティシアは壁の図に、新しい札を貼らせた。
灰松倉庫跡。徒歩到達可。小物一時置き可能性。
その下に、すぐ別の札。
事件関係物の存在は未確認。
ヨハンがそれを見て言った。
「もう、札が対になってますね」
「片方だけだと危険です」
ルイスは答えた。
「“小物一時置き可能性”だけだと、何か置いたことになります」
「なるほど」
クラウスは黒褐色粒様のものを見た。
「油の可能性があるなら、王都系金具油との比較対象になります」
マルタが慎重に答える。
「ただし、樹脂の可能性もあります。灰松の樹液が乾いたものかもしれません」
豆売りの女主人が頷く。
「木の下で樹脂を油だと思ったら、森に笑われるよ」
ルイスが書く。
黒褐色粒様のもの、金具油・樹脂・土塊等の可能性。灰松樹脂との比較必要。王都系金具油とはまだ接続しない。
クラウスは苦笑した。
「接続しない、がだんだん先に来るようになりましたね」
レティシアは言った。
「接続は後でできます。切断は難しい」
その言葉に、ロイエンが深く頷いた。
「王都向けに使います」
「使ってください」
夕方、町向けの説明は短く整えられた。
北方古道の通行可能性確認として、灰松倉庫跡の状態を確認しました。人の徒歩到達は可能ですが、事件関係物の存在は確認されていません。白蔦会活動を示すものではありません。今後も少人数で状態確認を続けます。
豆売りの女主人がそれを読んで、少しだけ考えた。
「いいんじゃないかい。白蔦って言葉は出してるけど、活動ではないと先に止めてる」
ガレスが言う。
「でも、白蔦って出しただけで騒ぐ人はいませんか」
「いるよ」
女主人は即答した。
「でも、出さなきゃ“隠してる”って騒ぐ人もいる。だったら、先にこっちの札をつけて出す方がましだ」
ルイスは頷いた。
「その通りだと思います」
夜、王太子府向け報告には、ロイエンが所見を添えた。
灰松倉庫跡は、通称レオン略図および旧白蔦流通路資料上の分岐先と整合する可能性あり。現在も徒歩到達可能。ただし大荷・荷車の通行には不向き。倉庫跡内部に落ち葉の少ない石敷き箇所、黒褐色粒様のもの、縦擦れ跡、石囲い状の窪みを確認。いずれも事件関係とは未確認。黒褐色粒様のものは金具油の可能性のみならず灰松樹脂等の自然物可能性もある。接続は後でできる。切断は難しいため、現時点では各所見を分離して扱う。
レティシアはそれを読んで頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは少し笑った。
「最後の文、使いました」
「ええ」
「記録しますか」
「不要です」
そのやり取りにも、帳場の者たちはもう慣れていた。
夜の追記で、レティシアは灰松倉庫跡の図を前にして口述した。
灰松倉庫跡は、倉庫ではなかった。少なくとも、今は。屋根は落ち、壁は崩れ、床は土に戻りかけている。だが、人はそこへ行ける。小箱を置ける。鍵を確かめることも、地図を見ることもできる。使われていない場所は、使えない場所ではない。今日見つかったものは、どれもまだ小さい。落ち葉の少ない石敷き、黒褐色の粒、壁の擦れ、石囲いの窪み。どれも答えではない。だが、誰かが一度立ち止まったかもしれない場所として、紙の上に置く価値はある。接続は後でできる。切断は難しい。だから今日も、つながりそうな線ほど細く描く。
ルイスは筆を置いた。
灰松倉庫跡に答えはなかった。
だが、そこは通れる場所だった。
そして、誰かが立ち止まるには十分な場所だった。




