第175話 灰鷹副支配人
灰鷹商会は、王太子府からの照会を快く受けなかった。
それは、ある意味で当然だった。
銀狐商会との競合関係。
青脈鉱石取引への関心。
非公式要約に触れた可能性のある外部連絡窓口との接点。
王都外郭錠前商マーロへの類似鍵探索依頼。
通称レオンという若い使いの出入り。
それらを並べられれば、灰鷹商会側が警戒するのは自然だった。
だが、警戒と拒否は違う。
王太子府補佐官室へ届けられた灰鷹商会からの返書には、整った字でこう書かれていた。
当商会は、銀狐商会による競合排除のための風説に巻き込まれているものと考えます。
灰鷹商会は、北方旧所領未申告荷車事件に一切関与しておりません。
副支配人への直接照会は、商会信用に重大な損害を与える恐れがあります。
アルベルトはその文面を最後まで読み、静かに机へ置いた。
以前なら、その場で怒鳴っていたかもしれない。
だが今は、怒りより先に別の言葉が出た。
「商会信用に損害、か」
エドガルが横で頷く。
「灰鷹商会としては当然の主張です」
「当然だから、通すわけにはいかない」
「はい」
フェルナー監査官は、返書を一瞥して言った。
「銀狐商会経由の情報だけなら、灰鷹の主張にも理があります。しかし今回は違います」
彼は机の上に、線ごとに分けた紙を置いた。
一枚目。
王太子府非公式要約流通。
二枚目。
外部連絡窓口補助文官シリル発言経路。
三枚目。
錠前商マーロ証言。
四枚目。
南の村小箱および第三鍵類似加工鍵。
五枚目。
通称レオン名使用者に関する記録。
フェルナーは淡々と続ける。
「灰鷹商会を疑うための紙ではありません。線が灰鷹副支配人付近を通っていることを示す紙です」
アルベルトは短く言った。
「呼べ」
「任意照会として?」
「まずは任意照会だ。だが、商会の返書を理由に避けさせるな」
エドガルが確認する。
「表題は」
アルベルトは少し考えた。
「灰鷹商会副支配人に関する接触記録確認」
フェルナーが頷いた。
「よろしいかと。“疑惑聴取”ではありません」
「そんな表題にしたら、向こうはそれを盾にする」
「はい」
エドガルは書記へ命じた。
「灰鷹商会へ返書。銀狐商会経由の風説ではなく、王太子府内部文書、錠前商証言、馬車宿記録、外部連絡窓口発言経路の確認であることを明記。副支配人本人へ、接触事実と類似鍵探索依頼の確認を求める」
レムスが筆を走らせる。
アルベルトは、その筆先を見ながら低く言った。
「こちらも、言葉を間違えれば負けるな」
フェルナーが静かに答えた。
「商人相手では、特に」
数刻後、灰鷹商会副支配人ヴィクトル・グレイは王太子府へ現れた。
年は四十前後。
痩せた男だった。
灰色の上着は控えめだが仕立てがよく、指輪はひとつだけ。派手な商人というより、数字と人の表情を同じ目で読む男、という印象だった。
彼は部屋に入るなり、深く頭を下げた。
「灰鷹商会副支配人、ヴィクトル・グレイでございます」
声は低く、落ち着いていた。
怒りも、不安も、表には出していない。
フェルナーは席を勧めた。
「本日は確認です。関与を断定するものではありません」
ヴィクトルはわずかに微笑んだ。
「そのように書かれた文書を拝見いたしました。王太子府も、最近はずいぶん丁寧な表題をお使いになる」
エドガルが返す。
「丁寧にしないと、言葉が勝手に商売を始めますので」
「なるほど。耳が痛い」
ヴィクトルはそう言ったが、顔は痛そうではなかった。
フェルナーは最初の紙を出した。
「錠前商マーロに、古い倉庫鍵に近い型の鍵を探すよう依頼しましたか」
「しました」
答えは早かった。
レムスの筆が動く。
フェルナーは続ける。
「目的は」
「灰鷹商会が以前扱った古い資材倉庫の鍵型確認です。倉庫金具の見積もりの一環でした」
「倉庫の所在地は」
「王都南区外れです」
「所有者は」
ヴィクトルは一瞬だけ間を置いた。
「灰鷹商会の取引先です。名は、商務上の理由でこの場では」
アルベルトが口を開く前に、フェルナーが静かに言った。
「後ほど限定封書で提出してください。提出拒否ではなく、範囲限定として記録します」
ヴィクトルの眉がわずかに動いた。
「……承知しました」
フェルナーは次の紙を出した。
「マーロへ見本鍵を提示しましたね」
「はい」
「その見本鍵は、現在どこにありますか」
「灰鷹商会の保管箱にあるはずです」
「あるはず」
フェルナーはその言葉を逃さない。
「実物確認は」
「まだです。本日、急な呼び出しでしたので」
レムスが書く。
見本鍵は灰鷹商会保管箱にあるはず。実物未確認。
ヴィクトルは記録される言葉を見て、少しだけ笑った。
「なるほど。“はず”も紙に載るのですね」
フェルナーは表情を変えない。
「“はず”は、事件をよく育てます」
その一言に、ヴィクトルの笑みが薄くなった。
次に、通称レオンの話になった。
「あなたの屋敷に、通称レオンという若い使いが出入りしていましたか」
ヴィクトルは、少し椅子に背を預けた。
「出入りしていた者は多くおります。商会の使い、私的な使い、取引先の連絡役」
「通称レオンについて聞いています」
「……はい。出入りしていたことはあります」
エドガルが問う。
「灰鷹商会の正式雇用者ですか」
「いいえ」
「では何者です」
「臨時の使いです。南区の商会周りでは、よくいる類の若者です。紹介で使いました」
「誰の紹介ですか」
ヴィクトルは、今度はすぐに答えなかった。
フェルナーが静かに言う。
「記憶なし、でも記録します」
ヴィクトルは目を細めた。
「便利な逃げ道を先に塞がれましたな」
「逃げる必要がないなら、答えればよろしい」
短い沈黙。
ヴィクトルは答えた。
「金具商の仲介です。名は、確認して提出します」
「確認して提出」
「はい」
レムスが書く。
通称レオン、灰鷹商会正式雇用者ではない。臨時使い。金具商仲介と副支配人証言。仲介者名は後日提出。
アルベルトは、腕を組んだまま言った。
「マーロから古い鉄鍵を受け取らせたのは、そのレオンですか」
「その可能性はあります」
「可能性」
「私自身が取りに行けなかったため、使いを出しました。名がレオンだったかは、記憶が曖昧です」
フェルナーがすぐに確認する。
「マーロ証言では、灰鷹商会副支配人の紹介札を持った若い使いが鍵を受け取っています」
「紹介札は出しました」
「その紹介札の控えは」
「商会に残っているはずです」
「また“はず”ですね」
ヴィクトルは、今度は笑わなかった。
「確認して提出します」
記録される。
話は少しずつ、しかし確実に近づいていた。
だが、決定的ではない。
灰鷹副支配人は、マーロに類似鍵探索を依頼したことを認めた。
見本鍵を見せたことも認めた。
若い使いを使った可能性も認めた。
紹介札を出したことも認めた。
しかし、それらをすべて「古い資材倉庫の金具確認」という商務上の説明の中に収めている。
フェルナーは、次の紙を出した。
「北方旧所領について、知っていたことを確認します」
「北方旧所領ですか」
「銀狐商会との取引日程が近いこと」
「商人街では噂になっていました」
「旧搬入口が確認対象になっていたこと」
「詳しくは知りません。何か古い搬入口で問題があるらしい、程度です」
「北方旧所領の帳場が細かいこと」
ヴィクトルは、初めて少しだけ口角を上げた。
「ああ、それは聞いております。王太子府の方々も苦労なさっているとか」
シリルの言葉が、ここに来ていた。
アルベルトの顔が一瞬険しくなる。
だが、彼は黙った。
フェルナーが続ける。
「誰から聞きましたか」
「商談会で。王太子府の若い文官殿からだったか、商務係の周辺だったか。北方の帳場は面倒だと」
「面倒、ですか」
「ええ。銀狐商会もあれでは大変でしょう、と申し上げた覚えがあります」
レムスが記録する。
灰鷹副支配人、北方帳場が細かい・面倒との情報を商談会で聞いたと認める。王太子府若手文官または商務係周辺との認識。
フェルナーは少し間を置き、最後の問いへ移った。
「白蔦会については」
ヴィクトルの表情は変わらなかった。
「白蔦会などという古い噂に、誰が今さら乗るのです」
部屋が、静かになった。
言い方は軽かった。
だが、その軽さが引っかかった。
フェルナーは、すぐには次を言わない。
アルベルトも、エドガルも動かなかった。
レムスの筆だけが止まっている。
フェルナーは静かに問う。
「古い噂、とおっしゃいましたね」
「ええ。王都の商人なら、古い物流組合や白蔦会の話くらい耳にしたことはあります。誇張と陰謀の混ざった昔話です」
「北方旧所領の件に白蔦状類似印が出たことを、誰から聞きましたか」
ヴィクトルは、ほんの一瞬だけ間を置いた。
短い。
だが、あった。
「噂です」
「どこで」
「商人街で」
「誰から」
「覚えておりません」
「覚えていない」
「はい。白蔦の名など、商談の本筋ではありませんでしたので」
フェルナーは、今度は筆を取らせた。
白蔦状類似印について、商人街の噂で知ったと副支配人証言。情報源は覚えていない。白蔦会を“古い噂”と表現。
ヴィクトルはその記録を見た。
「それが何か?」
フェルナーは答えた。
「今は、言葉として記録しています」
「言葉も、ずいぶん重くなったものですな」
「重く扱わなかったために、今ここに座っていただいています」
ヴィクトルは黙った。
聞き取りは、その後も続いた。
南の村小箱については否定。
第三鍵類似加工鍵については知らないと主張。
通称レオンが北方へ行ったかは把握していない。
レオンの現在地も知らない。
灰鷹商会として未申告荷車事件への関与はない。
否定は整っていた。
整いすぎているほどではない。
だが、商人らしく、逃げ道を残している。
聞き取りが終わると、ヴィクトルは立ち上がり、礼をした。
「灰鷹商会は、銀狐商会との競合関係を理由に不当な疑いを受けることを看過できません」
アルベルトが初めて正面から返した。
「不当かどうかを確かめるために、聞いている」
「では、願わくば公平に」
「公平にするために、短い言葉で裁かないようにしている」
ヴィクトルは一瞬、返答に詰まった。
そして、わずかに頭を下げた。
「承知しました」
灰鷹副支配人が退室したあと、部屋には重い空気が残った。
エドガルが低く言う。
「認めるところは認め、肝心なところは“はず”“覚えていない”“商務上”で逃がしています」
フェルナーは頷いた。
「典型的な商人の防御です」
アルベルトは机上の記録を見た。
「黒か」
フェルナーは即答しなかった。
少し間を置く。
「濃い灰色です。ただし、灰色を黒と呼べば、相手はそこを突いてきます」
アルベルトは苦い顔をした。
「灰鷹だけに、か」
レムスが筆を止めた。
フェルナーは無表情だった。
エドガルだけが小さく咳払いした。
「殿下、それは記録しません」
「するな」
その短いやり取りで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐに新しい報告が入った。
灰鷹商会副支配人の屋敷へ、通称レオンについて確認に行かせた使いが戻ってきたのだ。
レムスが受け取り、顔色を変えた。
「通称レオン、所在不明です」
部屋が止まった。
アルベルトの目が鋭くなる。
「逃げたか」
フェルナーがすぐに言った。
「逃げたとは限りません」
アルベルトは、その言葉を受け止めた。
深く息を吐く。
「……所在不明者として扱う」
フェルナーは頷いた。
「はい」
レムスが続けて読み上げる。
「灰鷹副支配人の屋敷周辺で、通称レオンは昨日の夕刻以降確認されず。正式雇用者ではないため、商会側は所在把握義務なしと主張。使用していた下宿にも戻っていないとの情報あり。宿帳確認中」
エドガルが低く言う。
「聞き取り直後に消えた、ではなく、聞き取り前から姿が見えない」
「そのようです」
フェルナーが言う。
「副支配人への照会準備が外へ漏れた可能性もあります。あるいは、元々消える予定だったか」
アルベルトは短く命じた。
「北方へ送れ。表題は」
フェルナーが答える。
「通称レオン所在不明に関する第一報」
「逃走とは書くな」
「承知しています」
その報告が北方旧所領へ届いたのは、翌朝だった。
ルイスは読み上げながら、少し顔を青くした。
灰鷹副支配人は類似鍵探索依頼を認めた。
見本鍵を見せた。
紹介札を出した。
通称レオンという若い使いの出入りを認めた。
北方帳場が面倒だと聞いていた。
白蔦会を古い噂と呼んだ。
そして、通称レオンは所在不明。
読み終わった時、帳場は静まり返っていた。
ガレスが、ぽつりと言った。
「逃げたんですか」
レティシアはすぐに答えた。
「所在不明です」
「……はい」
豆売りの女主人が重く頷く。
「消されたかもしれない。隠されたかもしれない。最初からいなかったことにされたかもしれない。逃げたって決めるのは早いね」
クラウスは険しい顔で言った。
「灰鷹商会は、正式雇用ではないと言うでしょう」
「ええ」
ロイエンが頷く。
「だからこそ、足取りが重要になります」
レティシアは壁の移動可能性表を見た。
空白が多い。
だが、その空白の意味が変わった。
埋めるべき空白から、急いで確認すべき空白へ。
ルイスは新しい札を書いた。
通称レオン所在不明。逃走とは断定しない。
その下に、もう一枚。
灰鷹副支配人、調査対象候補として重み増加。ただし黒幕とは断定しない。
ヨハンが静かに言った。
「いよいよ人が動きましたね」
レティシアは首を横に振る。
「人が見えなくなりました」
その言葉に、帳場がまた静かになる。
そうだ。
見えたのではない。
見えなくなったのだ。
だから、追わなければならない。
夜の追記に、レティシアはこう口述した。
灰鷹副支配人は、鍵の見本を認めた。類似鍵探索を認めた。紹介札を認めた。北方が細かいと聞いていたことも認めた。だが、すべてに商務上の理由と逃げ道がある。白蔦会を古い噂と呼んだ言葉は軽かった。軽すぎる言葉ほど、よく知っている者の口から出ることがある。そして通称レオンは所在不明となった。逃げたとは限らない。消されたとも限らない。ただ、見えなくなった。人が見えなくなった時こそ、名前ではなく足取りを見る。
ルイスは筆を置いた。
壁の移動表には、まだ多くの空白がある。
その空白のどこかに、通称レオンの次の足跡が残っているかもしれない。




