第174話 レオンという偽名
レオン。
その名は、まだ人の名前ではなかった。
少なくとも、帳場ではそう扱うことに決まった。
王都南門の馬車宿で、南の村方面へ小箱を預けた者が名乗った名前。
王都外郭の錠前商マーロが、古い鉄鍵を渡した若い使いの名として聞いた可能性のある名前。
北方町内の鍛冶職人ボルツの帳面に残った「レオ」と近い名前。
だが、それだけでは足りない。
レオンという名を使った者が一人とは限らない。
レオンが本名とは限らない。
そして、レオンとレオが同じ名だとも限らない。
ルイスは朝から、何度目かになる大きな文字を書いていた。
同じ名を使うことは、同じ人物であることを意味しない。
豆売りの女主人はそれを読んで、腕を組んだ。
「名前にまで札がついたね」
ヨハンが隣で苦笑する。
「もう札がついてないものを探す方が難しいですよ」
「それでいいんだよ。札のない名前ほど、よく走る」
ガレスは、壁に貼られた人物特徴表を見ていた。
王都風若年男性。
レオン名使用者。
レオ名使用者。
まだ三つに分かれている。
見ているだけで、もどかしい。
いっそ一本につなげてしまいたくなる。
でも、それをしてはいけないことも、もう知っていた。
「レオンって、本名じゃないんでしょうか」
ガレスがぽつりと言うと、クラウス・ベルガーが答えた。
「商人の使いなら、偽名を使うことはあります」
「普通なんですか」
「普通、とまでは言いません。ただ、珍しくはありません。相手に本名を知らせたくない時、所属を曖昧にしたい時、後で足取りを追われたくない時」
豆売りの女主人が横目で見た。
「商人ってのは、ほんと面倒だね」
クラウスは否定しなかった。
「はい。面倒です」
「そこは認めるんだ」
「否定すると、かえって信用を失いますので」
ヨハンが小さく笑った。
「信用の作り方が商人ですね」
レティシアは長机に新しい紙を置いた。
表題は、もう決まっていた。
レオン名使用者に関する記録照合
ルイスが確認する。
「今回は、名乗りではなく、記録の照合ですね」
「ええ。名ではなく、名が使われた場所を見る」
まず、王都南門馬車宿の記録。
小箱一つ。
南の村方面定期便。
預け主名、レオン。
宿主人による代筆。
預け主本人は急いでおり、名を口頭で告げた。
支払いは相場より多め。
荷札は預け主持参。
次に、マーロの証言。
灰鷹商会副支配人の紹介札を持った若い使い。
古物市場で探した古い鉄鍵を受け取る。
名はレオンに近い音だった可能性。
帳面に名は残っていない。
そして、ボルツの帳面。
古鍵調整 先端削り 銀貨二枚 客名:レオ
ここだけは、本人が聞いた名をボルツが書いたものだった。
筆跡はボルツのもの。
つまり、レオと書いたのは依頼者本人ではない。
ルイスはそこに線を引いた。
レオ記載はボルツ筆。本人筆跡ではない。
ガレスが身を乗り出す。
「じゃあ、レオって聞こえただけの可能性もあるんですね」
「あります」
ルイスは頷いた。
「レオンと言われたけれど、ボルツがレオと書いた可能性。最初からレオと名乗った可能性。どちらもあります」
ボルツは、今日も呼ばれていた。
鍛冶場からそのまま来たらしく、袖には鉄粉がついている。
「俺は、聞こえたまま書いたぞ」
豆売りの女主人がすぐに言う。
「聞こえたままが正しいとは限らないんだよ」
「そりゃそうだが、俺の耳が悪いみたいに言うな」
「耳じゃなくて、相手の口が怪しいのかもしれないだろ」
ボルツは、少し考えてから頷いた。
「……それはあるな。あいつ、声ははっきりしてたが、名乗る時だけ少し早かった」
帳場の空気が変わった。
ルイスがすぐに筆を取る。
「名乗る時だけ早かった、ですか」
「ああ。仕事の話は丁寧だった。鍵の話も、金の話もな。だが名乗りは、さらっと流した。こっちも、客名なんざ帳面用だから深く聞かなかった」
レティシアが静かに問う。
「今の証言は、昨日思い出しましたか。それとも、今、思い出しましたか」
「今だな。悪いが、聞かれたから思い出した」
「構いません」
ルイスが書く。
ボルツ追加証言:依頼者は仕事・支払いの話は丁寧だったが、名乗りのみ早く流した印象。今朝の追加想起。確度は中以下。
ボルツは、記録を覗き込んで顔をしかめた。
「中以下ってのは、なんか悔しいな」
「記憶の新しさと曖昧さの問題です」
「俺を疑ってるわけじゃねえのか」
「違います」
ガレスが横から言った。
「言葉の強さを測ってるんです」
ボルツはガレスを見た。
「お前、いつからそんな帳場の人みたいになった」
「最近です」
ヨハンが笑う。
「本人も認めた」
少しだけ場が和む。
しかし、レオン名使用者の線は、そこで止まらなかった。
昼前、南の村から宿帳の写しが届いた。
前回の報告では、王都南門馬車宿の記録が先に届いていた。
今度は、南の村側の馬車宿に残る受取記録である。
ルイスが封を開け、読み上げる。
「南の村馬車宿記録。王都南門定期便より小箱一つ受領。荷札あり。受取人欄、“旧帳場の者へ”。預け元記録、レオン。宿側受領者、宿主人。受取人未確定のため村長へ相談予定。小箱は未引渡し」
ここまでは、ほぼ既知の内容だ。
だが、続きがあった。
「宿主人追記。定期便御者は、王都南門側で小箱を受け取った際、預け主本人を見たと話していた。若い男。地味な外套。手袋。小箱を渡す際、“北方は面倒でしょうから、札をなくさないように”と言ったとのこと」
帳場に静寂が落ちた。
北方は面倒。
ボルツの証言と響きが近い。
だが、今度は御者の又聞きだ。
レティシアはすぐに言った。
「御者からの直接証言ではありません。宿主人が御者から聞いた話です」
ルイスが書く。
南の村宿主人追記:定期便御者より聞いた話として、預け主若い男が“北方は面倒でしょうから、札をなくさないように”に類する発言をした可能性。又聞き。直接証言ではない。
ガレスが顔をしかめる。
「似た言葉がまた出ましたね」
「ええ」
ロイエンが答えた。
「ただし、今回は又聞きです。重さは下がります」
豆売りの女主人が言う。
「重さ札だね」
ルイスは別欄に書いた。
情報源:又聞き。確度低〜中。直接聞き取り要。
ディルクは短く命じた。
「御者を追えるか」
レティシアは頷く。
「王都南門定期便の御者です。次の便の折り返しか、途中の馬車宿で確認できます」
クラウスが申し出る。
「銀狐商会側の馬車宿網でも照会を出せます。商会名を出さず、定期便記録の確認として」
「お願いします」
ルイスが書く。
定期便御者への直接照会手配。銀狐商会網および王太子府経由。目的:小箱預け主の発言・外見・支払い確認。
午後、王都からも新しい照会結果が来た。
灰鷹商会副支配人の屋敷に出入りしていた若い使いについての第一報だった。
表題は、
灰鷹商会副支配人周辺の若年使い出入に関する確認
ルイスは一度、レティシアを見た。
彼女が頷く。
読む。
「灰鷹商会副支配人の屋敷に出入りしていた若い使いについて、複数証言あり。正式雇用者名簿には該当なし。ただし、臨時使いとして出入りしていた若い男が一名。通称、レオン。姓不明。本名未確認」
ガレスが息を呑んだ。
ヨハンも無言になる。
クラウスは目を閉じた。
「通称レオン……」
ルイスは続ける。
「特徴。二十代前半から半ば。王都風の話し方。地味な服装。靴はよく手入れされている。手は荒れていない。薄い香油を使うことあり。副支配人の私的な用件で動くことがあったとの証言。ただし、灰鷹商会正式雇用ではないと商会側は主張」
壁の特徴表と、あまりにも重なる。
ガレスは、思わず口を開きかけて、止めた。
レティシアが見ている。
彼は息を吸って、言い直した。
「かなり……重なります。でも、まだ本人とは断定しません」
レティシアは頷いた。
「よろしい」
ルイスが書く。
灰鷹副支配人周辺に通称レオンの若年使い出入証言あり。特徴が王都風若年男性特徴表と多数重なる。ただし本人特定未了。正式雇用者名簿にはなし。私的使いの可能性。
豆売りの女主人が低く言った。
「ここまで来ると、さすがに線が太くなってきたね」
「はい」
レティシアは認めた。
「ただし、太くなった線にも札は必要です」
クラウスが静かに言った。
「灰鷹商会は、正式雇用ではないと言い逃れできます」
「ええ」
ロイエンが頷く。
「私的使い、臨時使い、名簿外。責任の外に置きやすい」
ディルクが低く言う。
「実行役として便利だな」
場が重くなる。
ルイスが記録する。
通称レオンが正式雇用外である場合、灰鷹商会との責任関係は曖昧。副支配人の私的使い、臨時使い、名義利用の可能性。
ここで、クラウスが新しい視点を出した。
「ひとつ、注意が必要です」
レティシアが見る。
「何でしょう」
「通称レオンが本当に灰鷹副支配人の使いなら、ここまで同じ名を使い続けるのは不用心です」
豆売りの女主人が目を細めた。
「わざと見つけさせてるってことかい」
「可能性はあります」
クラウスは答えた。
「または、通称レオン自体が捨て駒だった。足取りを追わせるための名だった。あるいは、単に本人がそこまで慎重ではなかった」
レティシアが頷く。
「候補を並べます」
ルイスが書く。
通称レオン名使用継続の理由候補。
一、本人の不用心。
二、捨て駒として足取りを追わせる意図。
三、複数人が同一偽名を使用。
四、灰鷹副支配人側の管理不足。
五、第三者による名義利用。
未確認。
ヨハンが壁を見上げた。
「名前が出ても、まだややこしい」
「名前が出たから、ややこしくなることもあります」
ルイスが言った。
「名前は、答えじゃなくて荷です」
豆売りの女主人がにやりとした。
「今の、いいね」
ルイスは自分で内部控えに書くのをためらった。
レティシアが少しだけ頷いた。
「内部控えに」
ルイスは書いた。
名前は答えではなく、荷である。
夕方、王都への返信が整えられた。
通称レオンについて、北方旧所領側が確認したい項目は多い。
灰鷹副支配人屋敷への出入り日時。
紹介札の有無。
マーロとの接触日時。
王都南門馬車宿の小箱預け入れ日時。
北方町内へ移動できる日程。
ボルツの古鍵調整日との整合性。
南の村小箱到着日との整合性。
移動距離と時間が合わなければ、同一人物線は弱くなる。
逆に合えば、強くなる。
レティシアは言った。
「次は、移動表です」
ルイスは少しだけ遠い目をした。
「人物特徴表の次は、移動表ですか」
「ええ」
「壁が足りません」
豆売りの女主人が即答する。
「天井があるよ」
「貼りません」
少し笑いが起きた。
だが、移動表は必要だった。
通称レオン名使用者・移動可能性表
王都南区。
王都外郭マーロ店。
王都南門馬車宿。
北方町内鍛冶場。
南の村方面。
灰鷹副支配人屋敷。
それぞれの日時を入れていく。
まだ空白だらけだ。
けれど、空白が見えることにも意味がある。
ガレスが移動表を見て言った。
「空白が多いですね」
「はい」
レティシアは答えた。
「次に埋める場所がわかります」
ヨハンが頷く。
「空白にも札」
「もう何にでも札ですね」
ガレスが笑う。
豆売りの女主人が言った。
「でも、空白を空白って書かないと、人が勝手に埋めるからね」
その言葉で、皆が少し黙った。
まさに今回の事件は、誰かが人の空白に言葉を詰めるように仕掛けてきたのだ。
灰鷹。
ミケル。
第三鍵返却済。
白蔦。
空白を埋めるための、分かりやすい言葉。
レオンもまた、そのひとつかもしれない。
夜の追記に、レティシアは移動表を見ながら口述した。
レオンという名が、何度も現れた。マーロの店で、王都南門の馬車宿で、灰鷹副支配人の周辺で。ボルツの帳面にはレオとある。同じ名が重なると、人は一人の顔を思い描く。だが、同じ名は同じ人を意味しない。偽名は、人を隠すだけでなく、時に人を作る。今必要なのは、レオンという顔を作ることではない。レオンという名が、どこで、いつ、何のために使われたかを見ることだ。名前は答えではなく、荷である。荷ならば、どこから来て、どこへ運ばれたかを追えばよい。
ルイスは筆を置いた。
壁には、新しい表が増えた。
通称レオン名使用者・移動可能性表
まだ空白が多い。
だが、その空白の向こうに、顔のない若い使いの足取りが見え始めていた。




