第17話 夜の積み出し場
鉱山の奥で生きた青脈を見つけた翌日、辺境の空気は奇妙な熱を帯びていた。
誰もその事実を大っぴらには口にしない。
だが砦の中で働く者たちは、こういう時の気配に敏い。
総司令が夜遅くまで戻らなかったこと。
閣下が鉱山から帰ったあと、すぐに帳面と地図を広げたこと。
古い坑夫長オルドが酒場へ戻らず、砦へ泊められたこと。
それだけで十分だった。
――山で、何かが見つかった。
その期待と不安が、朝の中庭に薄く漂っている。
レティシア・エーヴェルシュタインは、その空気を感じながらも、あえて何も公言しなかった。
いま必要なのは希望を叫ぶことではなく、流れを掴むことだ。
青脈が生きているとわかった以上、裏流通の側も必ずどこかで動く。
問題は、どこで、誰が、何を運んでいるかだった。
朝食のあと、彼女は客間ではなく、砦の北側にある小さな会議室へ向かった。
部屋にはすでにディルク・ヴァルゼン、ルイス、ハルトマン、そしてオルドが揃っている。
机の上には辺境北部の粗い地図が広げられ、鉱山、町、南小路の旧倉庫、北尾根の“黒樫の三叉”が印されていた。
ディルクが開口一番、言う。
「まず結論から。昨夜の見張りで、南小路倉庫の周辺に動きはありませんでした」
「それは予想通りね」
レティシアは席へ着きながら答えた。
「倉庫が見つかった直後に、同じ場所を使い続けるほど相手は鈍くない」
「ええ。問題はその先です」
ディルクは地図の北側を指で叩く。
「黒樫の三叉のさらに向こう、尾根を下りた先に、小さな窪地があります。そこに昨夜、新しい焚き火跡が見つかった」
ルイスが補足する。
「荷を置いた跡も二か所。しかも片方は、人が少人数で待ち、もう片方は荷を背負った者がまとめて立ち止まった形です」
「受け渡し場所ね」
「おそらく」
オルドが鼻を鳴らした。
「やっぱりな。山の内側で積みゃ、外へ抜くなら一度どこかでまとめる。いきなり長くは運べねえ」
レティシアは地図を見つめる。
鉱山から直接北側交易圏へ抜けるのではない。
途中に一時集積所がある。
なら、そこを見れば“荷の量”と“人の癖”がわかる。
「今夜、張るわ」
ディルクが即座に頷く。
「やはりそうなりますか」
「ええ。でも、今回は捕まえるためではない」
オルドが片眉を上げる。
「追わねえのか」
「追うと、相手が穴へ潜るでしょう?」
レティシアは静かに言った。
「いま欲しいのは、小魚じゃないわ。網の形よ」
ディルクの口元がわずかに緩む。
「同感です」
作戦はすぐに決まった。
表向きには何も変えない。
鉱山の青脈を見つけたことも伏せる。
南小路の倉庫についても、昨日の摘発で一度打ち止めにしたように見せる。
そのうえで、
鉱山道の入口に二名
南小路の外れに二名
黒樫の三叉より先の窪地に三名
そして、尾根沿いにレティシアとディルクを含む待機組
を置く。
相手がもし完全に警戒していれば動かない。
だが、“まだ少しなら抜けるかもしれない”と思えば、必ず誰かが出る。
人は止められた直後ほど、一度だけ無理をする。
日中は、普段通りに過ごした。
レティシアは意図的に町市場を見に出た。
あえて人目のあるところへ出て、裏流通のことなど気にしていない顔をするためだ。
市場は昨日よりわずかに活気があった。
井戸の運用が落ち着いたことで炊事場の出が早くなり、朝の粥を売る屋台に兵が立ち寄る姿も増えた。蹄鉄屋の前には二台の荷車が止まり、鍛冶屋の炉には細いが確かな火が入っている。まだ“賑わう”にはほど遠い。
だが“死んでいる町”の匂いではなくなってきていた。
その変化を見ながら、レティシアは露店の一つで立ち止まる。
干し豆を扱う女店主が、ぎこちなく頭を下げた。
「閣下」
「おはよう。売れ行きはどう?」
「……少しずつですが、前よりは。兵の方が最近きちんと買ってくださるようになって」
女は最初、何をどう話していいかわからない顔をしていたが、レティシアが値段や量、仕入れ先を自然に問うにつれ、少しずつ言葉がほどけていく。
「水路の方が落ち着いたおかげで、リュンデルの連中も来月にはまた豆を回せるかもしれないって」
「そう。なら干しすぎないで。来月に新しい豆が入るなら、古いのを抱えすぎると苦しいわ」
そう言うと、女店主は驚いたように目を瞬く。
「……閣下は、本当に商いのことまで」
「商いが死ねば、兵糧も死ぬもの」
短くそう答えて去る。
そのやり取りを、少し離れたところでディルクが黙って見ていた。
砦へ戻る道すがら、彼が低く言う。
「わざと、ですか」
「何が?」
「市場へ出たのは」
レティシアは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。見せるためよ。私は町と井戸と市場で忙しい、ってね」
「相手に“夜を疑っていない”と思わせる」
「そういうこと」
ディルクは鼻で小さく笑う。
「閣下は、思ったよりもずっと意地が悪い」
「今さら気づいたの?」
その返しに、彼は珍しく声を殺して笑った。
夜は、辺境の町を急速に飲み込んだ。
王都の夜と違って、ここでは灯りが少ない。
だからこそ、動く人影はむしろ見やすい。
ただし見えることと、見抜けることは別だ。
張り込みは日が落ちてすぐに始まった。
レティシアは動きやすい濃色の外套へ着替え、尾根沿いの岩陰に身を潜めていた。隣にはディルク、少し離れてエルンを含む兵が二名ずつ。ルイスは砦へ残した。あの若い書記官にここまでやらせる必要はない。
風は冷たい。
尾根の上では木々が擦れ、下の窪地は昼よりさらに暗く見える。
だが月が雲間から顔を出すたび、地面の凹凸と、荷を置くには都合のよさそうな平らな部分だけが淡く浮かび上がった。
ディルクが耳元で囁く。
「もし動かなければ」
「それはそれでいいわ」
「ええ。ですが、動くと思いますか」
レティシアはしばらく闇を見た。
「動くわ」
「根拠は」
「人は、切られた流れを前にすると、“最後に一度だけなら”と思うもの」
答えた直後、前方の見張り兵がごく小さく手を振った。
人影だ。
窪地の南側、町から回り込む細道に二つの影が現れる。
荷を背負っている。
しかも足取りが早い。
日常の移動ではない。
さらに少し遅れて、北側からもう一つの影。
こちらは荷を持たず、待つ側らしい。
レティシアは息を潜めたまま、その動きを見た。
南から来た二人は、窪地の中央へ荷を下ろす。
北から来た影は、周囲を警戒しつつ近づき、何やら手短な合図を交わした。
言葉までは聞こえない。
だが、慣れたやり取りだ。
一度きりの密会ではない。
月が雲から抜けた瞬間、その北側の影の横顔が一瞬だけ照らされる。
細身。
背は高い。
帽子の形と外套の合わせが、町人のものではない。
レティシアは目を細めた。
町商人ではない。
兵でもない。
外から来ている連絡役か、あるいはそれに近い立場の人間。
ディルクも同じものを見たらしい。
ごくわずかに息を呑む気配がした。
だが、二人とも動かない。
南側の二人は荷を置くとすぐに引き返した。
北側の影はそれを確認したあと、荷の一つを開け、中身を確かめる。
月光の中で、鉱石の鈍い色が一瞬だけ光った。
青脈の石だ。
つまり、こちらが青脈を見つけた直後でも、相手はまだその流れを止めていない。
いや、止められないのだ。
それほどまでに、この裏流通は継続性を前提に組まれている。
北側の影が荷を背負い直したところで、ディルクが囁く。
「……いまなら取れます」
「ええ」
「ですが」
「だめ」
レティシアは即答した。
「まだ泳がせる」
影は一つだけ荷を持ち、残りはそのまま窪地の端へ隠した。
全部を一度には運ばない。
追跡される可能性を考えた動きだろう。
それもまた、相手が素人ではない証拠だった。
やがて、北側の影は尾根の向こうへ消えた。
南側の二人も戻らない。
窪地に残ったのは、半ば土へ埋めるように隠されたもう一つの荷だけだ。
しばらく待ったあと、レティシアがようやく小さく息を吐く。
「十分ね」
ディルクが頷く。
「ええ。これで“誰が運び”“どこで受け”“どう分けるか”の形が見えた」
「しかも、連絡役は外の人間」
「少なくとも町の顔ではありません」
尾根の陰から出たあと、兵たちは隠された荷を慎重に回収した。
中には青脈の鉱石と、粗い羊皮紙片が入っていた。
紙片には短い符号と、次の受け渡し日らしき印。
レティシアはその場で確信する。
これでようやく、裏流通は“領地の中の腐敗”から“外と繋がる流れ”へ変わった。
敵の輪郭が一段、広くなったのだ。
砦へ戻る道、風はますます冷たくなっていた。
だがレティシアの頭は冴えている。
「見えたわね」
ぽつりと言うと、ディルクが横で応じる。
「ええ。思ったより整った流れでした」
「長く続いてきたのでしょう」
「ええ」
「なら、逆に壊しやすいわ」
ディルクが目を向ける。
「なぜです」
「長く続いた流れほど、癖があるもの。道具も、人の呼吸も、受け渡しの間も、全部ね」
彼は少し黙ってから、低く言った。
「……面白い」
その一言には、警戒と、戦場を前にした者の熱が混じっていた。
夜更け、帳面を開いたレティシアは、いつもより短く、だが重く記録を口述した。
「南小路旧倉庫摘発後も、裏流通継続を確認。黒樫の三叉の先、窪地にて夜間受け渡しを確認。運搬役二名、外部連絡役らしき影一名。青脈鉱石の移動、依然継続。敵は町の内側だけでは完結していない」
そして最後に、こう書かせた。
小魚は捕らえない。網の形を覚える。
ルイスがいない静かな部屋で、その一文だけがやけにはっきり響いた。
マルタは灯りを整えながら、そっと言う。
「お嬢様、今夜は少し……怖いお顔をしておいでです」
「そう?」
「はい。でも、嫌ではありません」
レティシアは小さく笑った。
「それは褒め言葉として受け取っていいのかしら」
「ええ。辺境には、ああいうお顔も必要でございましょうから」
その通りだった。
ここから先は、ただ立て直すだけでは足りない。
誰かが意図して食い荒らしてきた流れそのものを、逆にこちらの手へ取り戻さねばならないのだ。




