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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第169話 錠前商マーロの名前

マーロ。


 その名が加わったことで、壁の図はまた少し王都へ伸びた。


 王都外郭の錠前商。

 古い鍵と錠前に詳しい職人。

 灰鷹商会にも倉庫金具を卸し、銀狐商会にも過去納入がある。


 つまり、灰鷹だけの職人ではない。


 そこを間違えると、また線が太くなりすぎる。


 ルイスは、朝一番で紙に大きく書いた。


 マーロは灰鷹商会専属ではない。


 豆売りの女主人がそれを読んで、腕を組んだ。


「毎朝、壁にお札が増えるね」


 ヨハンが横から言う。


「魔除けみたいですね」


「魔除けならもっと景気よく貼りたいところだけどね。こっちは噂除けだ」


「噂除けの札、売れますかね」


「売るな。呪われそうだよ」


 ガレスは、二人の会話を聞きながら、マーロの名前を見ていた。


 灰鷹商会。

 銀狐商会。

 王太子府外部連絡窓口。

 王都外郭錠前商マーロ。

 鍛冶職人ボルツ。

 レオ。


 線が増えすぎて、最初に見た時よりも事件はずっと大きくなっている。


 でも、不思議なことに、少しだけ怖さは形を持ちはじめていた。


 怖いものは、見えない時が一番怖い。


 今はまだ怖い。

 けれど、どこが怖いのかを指で示せる。


 それは、前よりましだった。


 レティシアは長机に、王都から届いた第一報を置いた。


 王都外郭錠前商マーロとの接触記録に関する第一報。


 正式な調査報告ではない。


 まずは速報。


 フェルナー監査官らしい、短く硬い文だった。


 その中で、外部連絡窓口補助文官がマーロと接触していたこと、名目は王太子府外郭倉庫の古錠交換見積もりであること、そしてマーロが灰鷹商会にも銀狐商会にも納入実績を持つことが示されていた。


 クラウス・ベルガーは、その名を見て少し眉を寄せた。


「マーロは腕のよい職人です。古い鍵を扱わせるなら、王都外郭では最初に名が挙がる一人でしょう」


 ディルクが問う。


「信用できるのか」


 クラウスは即答しなかった。


「職人としては、です」


「人としては?」


「商人や職人に“人として完全に信用できるか”と聞かれても、答えに困ります」


 豆売りの女主人が鼻で笑った。


「正直でよろしい」


 クラウスは淡々と続けた。


「ただ、金で何でもする類ではありません。少なくとも、表向きは。古い錠前や倉庫金具を扱う以上、灰色の依頼が来ることはあるでしょうが、彼は長く店を続けています。露骨な犯罪に手を貸すなら、もっと早く潰れている」


 ルイスが記録する。


 クラウス所見:マーロは王都外郭の腕のよい錠前商。古い鍵・倉庫金具に詳しい。金で何でもする類とは見ていないが、古錠業務上、灰色依頼に触れる可能性あり。所見であり証拠ではない。


 ヨハンが顔をしかめた。


「腕がいい人ほど、利用されることもあるってことですか」


「はい」


 クラウスは頷いた。


「自分が何の一部にされているか知らないまま、必要な部品だけ作らされることがあります」


 ガレスは小さく言った。


「鍵だけ作った人は、扉の向こうを知らない」


 豆売りの女主人が、少しだけ目を細めた。


「ガレス、いいこと言うじゃないか」


「えっ、そうですか」


「ただし内部控え向きだね」


 ルイスはすでに筆を持っていた。


 鍵だけ作った人は、扉の向こうを知らないことがある。


 レティシアは何も言わなかった。


 許可の沈黙だった。


 その日の午前、王都から続報が届いた。


 フェルナー監査官による、錠前商マーロへの初回照会結果だった。


 封筒には赤札ではなく、黒縁の確認札がついている。


 ルイスは封印を確認し、ゆっくり読み上げた。


「王都外郭錠前商マーロへの照会。立会人、フェルナー監査官、王太子府外部連絡係主任、記録官一名。マーロは、灰鷹商会副支配人より古い倉庫鍵の見本について相談を受けたことを認める」


 帳場の空気が変わった。


 灰鷹商会副支配人。


 鍵の見本。


 点線がまた一本、濃くなりそうになる。


 ルイスは読みながら、自分で紙の隅に小さく書いた。


 認めたことは、全体関与を意味しない。


 そして本文に戻る。


「相談内容は、“古い倉庫錠に近い型の鍵を探したい”。複製依頼ではなく、類似鍵の探索依頼であったとマーロは説明。灰鷹商会副支配人は、鍵の用途を“古い資材倉庫の予備確認”と述べたとのこと」


 クラウスが静かに息を吐いた。


「類似鍵の探索……」


 ディルクが低く言う。


「第三鍵類似加工鍵と合うな」


 レティシアはすぐに言った。


「合うように見えます。まだ、合ったとは言いません」


 ルイスが書く。


 マーロ証言:灰鷹商会副支配人から古い倉庫錠に近い型の鍵探索依頼あり。複製ではなく類似鍵探索との説明。第三鍵類似加工鍵との接続可能性あり。ただし未確認。


 続きが読まれる。


「マーロは古物市場経由で、古い鉄鍵を一本用意。灰鷹商会副支配人本人ではなく、使いの若い男に渡した。使いは商会所属を明言せず、灰鷹商会副支配人から預かった紹介札を持参」


 ガレスが、思わず顔を上げた。


「若い男……」


 ヨハンも低く言う。


「また出たな」


 ルイスは続けた。


「若い男の特徴。王都風の話し方。手は荒れていない。服装は地味。靴は手入れされている。薄い香油様の匂いあり。支払いは相場より高め。名は“レオン”と名乗った可能性。ただしマーロは名前を正確に記録していない」


 帳場の中に、誰かの息を呑む音がした。


 レオン。


 レオではない。


 レオン。


 王都の錠前商マーロの証言。

 北方の鍛冶職人ボルツの作業帳。

 レオ。

 レオン。


 似すぎている。


 だから、危ない。


 ルイスはすぐに大きく書いた。


 レオとレオンは同一人物とは限らない。


 豆売りの女主人が、重く頷く。


「何度でも書くしかないね」


 クラウスは、かなり険しい顔で報告写しを見ていた。


「特徴は、ボルツ殿の証言に近い」


「はい」


 ロイエンが答える。


「ですが、同一人物とは断定しません」


 クラウスは頷いた。


「もちろんです」


 その声は、いつもより低かった。


 ルイスは記録をまとめる。


 王都マーロ証言の若い使いと、北方ボルツ証言の若い依頼者は、特徴に類似点あり。王都風、荒れていない手、手入れされた靴、薄い香油、支払い高め、レオン/レオ名。ただし同一人物とは断定不可。


 フェルナーからの報告には、さらに続きがあった。


「マーロは白蔦会、北方旧所領、銀狐商会の件について知らないと主張。灰鷹商会副支配人からは、古い倉庫鍵の型を探す依頼であるとのみ聞いていた。フェルナー所見として、マーロは鍵供給の一部であり、全体意図を知らなかった可能性がある。ただし追加確認継続」


 レティシアは頷いた。


「マーロを黒幕にしない」


 ルイスが書く。


 マーロは鍵供給の一部である可能性。全体意図を知っていたとは限らない。追加確認継続。


 ヨハンがぽつりと言った。


「部品だけ作らされた人、ですか」


「可能性です」


 レティシアは答えた。


 クラウスが低く続ける。


「灰鷹副支配人が、直接複製依頼をせず、類似鍵探索にした点が気になります」


 ディルクが問う。


「なぜだ」


「複製なら、元の鍵が必要です。類似鍵探索なら、鍵を見せずに済む。そして、もし後で問題になっても、“古い倉庫鍵を探していただけ”と言える」


 豆売りの女主人が嫌そうに言った。


「逃げ道つきの依頼かい」


「はい」


 クラウスは頷いた。


「商人らしい依頼です。嫌な意味で」


 ルイスは記録する。


 類似鍵探索依頼の性質:元鍵提示不要。後日問題化時に“古い倉庫鍵探索”として説明可能。逃げ道のある依頼形態とのクラウス所見。


 ガレスは壁の鍵経路図を見つめた。


 王都外郭錠前商マーロ。

 古物市場の古い鉄鍵。

 レオンと名乗った若い使い。

 北方町内鍛冶職人ボルツ。

 先端削り。

 第三鍵類似加工鍵。

 南の村小箱。


 線は、これまでで一番きれいにつながって見えた。


 だが、レティシアはその線をまだ実線にしなかった。


 薄い実線と点線の間。


 ルイスが悩んでいると、彼女は言った。


「二重線にはしません。まだ単線。マーロから若い使いへ鍵が渡ったところは、マーロ証言として実線。若い使いがボルツの依頼者と同一であるところは点線。ボルツ加工鍵が第三鍵類似加工鍵であるところも点線」


「はい」


 ルイスは線を引き直した。


 ガレスが言う。


「ひとつの線に見えるのに、分けるんですね」


「ええ」


 レティシアは答えた。


「つながって見える線ほど、途中で切れる場所を残します」


「切れる場所……」


「そこを消すと、間違った時に戻れません」


 豆売りの女主人が頷いた。


「道も同じだよ。途中に曲がり角があるのに、真っ直ぐだと思って歩くと畑に突っ込む」


 ヨハンが笑いかけて、やめた。


 今は笑うより、しみる言葉だった。


 午後には、マーロから提供された古物市場の記録写しも届いた。


 古い鉄鍵を売った露店名。

 仕入れ日。

 大まかな形状。

 価格。


 ただし、その鍵が第三鍵類似加工鍵の元になったかはまだ不明。


 照合するには、鍵そのものの寸法が必要だった。


 王都から送られてきたのは簡易図だけ。


 レティシアは言った。


「正式寸法照会を出します」


 ルイスが表題を書く。


 マーロ提供古物鍵寸法および第三鍵類似加工鍵との形状比較照会


 ヨハンが顔をしかめる。


「長い」


 ルイスは即答する。


「短くすると危険です」


 全員、もう誰も突っ込まなかった。


 その代わり、豆売りの女主人が小さく笑った。


「最近それ、決め台詞みたいになってきたね」


「嬉しくありません」


 帳場の空気が少しだけ和らいだ。


 その時、王都からもう一通、小さな追記が届いた。


 フェルナー監査官からの手書き補足だった。


 ルイスが読み上げる。


「マーロ証言。若い使いに鍵を渡した際、使いは灰鷹商会の者とは名乗らず。灰鷹副支配人からの紹介札を示したのみ。マーロは、灰鷹商会関係者と判断したが、正式雇用者かどうかは不明」


 クラウスが低く言った。


「やはり、一段挟んでいますね」


 ロイエンが頷く。


「灰鷹副支配人と若い使いの間にも、まだ偽装の余地があります」


 ディルクが腕を組む。


「副支配人が使ったのか。副支配人の名を使われたのか」


 レティシアは静かに答えた。


「どちらも可能性です」


 ルイスが書く。


 灰鷹副支配人紹介札を若い使いが提示。ただし若い使いが灰鷹正式関係者とは未確認。副支配人が使った可能性、副支配人の名を利用された可能性、双方あり。


 ガレスは困ったように言った。


「名前を使われることもあるんですね」


 クラウスが答える。


「商人の名前は、時々、本人より先に歩きます」


 豆売りの女主人が言う。


「また歩くものが増えたね。鍵、噂、名前」


 ルイスは内部控えに書いた。


 名前は本人より先に歩くことがある。


 夕方、王太子府への返信と追加照会がまとめられた。


 内容は多い。


 マーロ証言の確認。

 類似鍵探索依頼。

 レオン名使用者。

 灰鷹副支配人紹介札。

 古物鍵寸法照会。

 若い使いの身元確認。

 灰鷹商会正式雇用者か否か。


 ロイエンは、所見を書きながら何度も筆を止めた。


「これは、どこまで灰鷹副支配人に近づけてよいものか」


 クラウスは静かに答えた。


「近づいている線はあります。ですが、決定線ではありません」


「そうですね」


 レティシアは壁の図を見た。


「灰鷹副支配人を調査対象候補に入れます。ただし、黒幕候補とは書かない」


 ルイスが書く。


 灰鷹副支配人:類似鍵探索依頼をマーロへ行った可能性が確認されたため、調査対象候補へ。ただし黒幕・関与者とは断定しない。


 豆売りの女主人が深く息を吐く。


「ほんと、言い方ひとつだね」


「はい」


 レティシアは頷いた。


「言い方ひとつで、人は裁かれます」


 夜の追記に、レティシアは鍵経路図を見ながら口述した。


 マーロは、古い鍵を用意した。灰鷹副支配人は、類似鍵を探した。若い使いは、紹介札を持って鍵を受け取った。ボルツは、レオという名の客に鍵を削った。これらはつながって見える。だが、つながって見える線ほど、節目を消してはならない。マーロは全体を知らなかったかもしれない。若い使いは灰鷹の者ではないかもしれない。灰鷹副支配人の名も使われただけかもしれない。可能性を残すことは、逃がすことではない。間違った相手を捕まえないための足場である。


 ルイスは書き終え、筆を置いた。


 壁の図の中で、マーロの名は点線と実線の境目に置かれている。


 そこから伸びる先に、レオンという名がある。


 まだ顔のない、若い使い。


 事件は、少しずつその人物の輪郭へ近づいていた。

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