第170話 面倒だと話しただけ
王太子府の外部連絡窓口は、普段から人の出入りが多い。
商会の使い。
工房の代理人。
各地区の連絡役。
資材調達の書記。
時には、貴族家の侍従や、王立施設の修繕係まで来る。
そこでは、正式な書類だけが動くわけではなかった。
立ったまま交わされる挨拶。
待ち時間の雑談。
廊下ですれ違った時の一言。
茶を出す間にこぼれた愚痴。
そういうものもまた、情報だった。
ただ、王太子府の者たちは、それを長い間「情報」とは呼んでこなかった。
雑談。
世間話。
ただの愚痴。
その程度のものだと思っていた。
だが、北方旧所領から届いた紙は、それを許さなかった。
雑談も、荷になる。
フェルナー監査官は、そう短く言った。
補佐官室の一角に、外部連絡窓口の補助文官が呼ばれていた。
名はシリル・ボーン。
二十代半ばの若い文官で、外見だけならまだ学生のような柔らかさが残っている。髪は丁寧に撫でつけられているが、今は額に汗が浮いていた。
彼の前には、フェルナー監査官。
横にエドガル。
少し離れてレムス。
そして、奥の席にアルベルトがいた。
アルベルトは最初、立ち会う予定ではなかった。
だが、非公式要約の件が王太子府の外へ出た可能性がある以上、彼は自分の耳で聞くべきだと判断した。
その判断が正しいかどうかは、まだ誰にもわからない。
ただ、彼はそこにいた。
フェルナーは、机の上に数枚の紙を並べた。
一枚目。
非公式要約。
そこには、問題の短い文字がある。
旧搬入口に白蔦らしき印。
取引日警戒。
銀狐荷とは未接続。
現地、分離方針。
二枚目。
外部連絡窓口・商談会出席記録。
三枚目。
灰鷹商会副支配人との接触確認。
四枚目。
王都外郭錠前商マーロとの接触記録。
シリルは、その紙を見るたびに顔色を悪くした。
フェルナーは、声を荒げなかった。
「シリル・ボーン。今日は処分のために呼んだのではありません」
シリルは唇を震わせた。
「はい」
「まず、情報がどこを通ったかを確認します」
「はい……」
「この非公式要約を見ましたか」
フェルナーは問題の紙を指した。
シリルは、目を伏せる。
「見ました」
「いつ」
「銀狐商会との本取引前です。商務係の小会議のあと、外部連絡窓口にも概要を共有する必要があると言われて……」
「誰から受け取りましたか」
「商務係の補助文官です。正式な回覧ではなく、口頭説明の控えだと」
レムスが記録する。
フェルナーは続けた。
「この表現が正式表現ではないことは、認識していましたか」
シリルは、少し顔を上げた。
「その時は……そこまで考えていませんでした」
室内の空気がわずかに冷えた。
アルベルトの指が、肘掛けを一度だけ叩く。
エドガルは動かなかった。
フェルナーも表情を変えない。
「そこまで考えていなかった、と記録します」
「はい」
「あなたはこの内容を、灰鷹商会副支配人へ話しましたか」
シリルは息を呑んだ。
「白蔦の話は、したつもりはありません」
「したつもりはない」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「北方旧所領の話は、しました」
アルベルトの目が細くなる。
シリルはその視線に気づき、声を小さくした。
「商談会の場で、灰鷹商会の副支配人に声をかけられました。青脈鉱石の取引について、王太子府は銀狐商会にずいぶん肩入れしているようですね、と」
「あなたはどう答えましたか」
「肩入れではないと。正式取引条件の確認をしているだけだと」
「その後は」
「北方旧所領は、かなり細かく条件を詰めている、と言いました」
フェルナーは、すぐに反応しなかった。
レムスの筆だけが動く。
シリルは続ける。
「差異箱だとか、追加確認だとか、現地負担だとか……正直、王都側でも面倒だという話になっていましたから」
アルベルトが低く言った。
「面倒」
その一言だけで、シリルの肩が跳ねた。
「も、申し訳ございません」
フェルナーが静かに言う。
「今は謝罪ではなく確認です」
「はい……」
「灰鷹商会副支配人に、“北方は面倒だ”と話したのですね」
「はい。言いました」
「旧搬入口については」
シリルは黙った。
この沈黙は長かった。
アルベルトは口を開きかけたが、エドガルがほんのわずかに視線を動かした。
それだけで、アルベルトは止まった。
フェルナーは待った。
やがてシリルは、震える声で言った。
「……少し、話したかもしれません」
「内容は」
「北方では、古い搬入口の扱いでもめている、と。正式荷とは分けているらしい、と」
「監視対象であることは」
「監視という言葉は使っていません。ただ、“あそこは見られている”という言い方をしたかもしれません」
フェルナーは、初めて少しだけ目を細めた。
「あそこ」
「旧搬入口です」
レムスが書く。
シリル証言:灰鷹商会副支配人へ、北方旧所領は細かく面倒、旧搬入口でもめている、正式荷と分けている、“あそこは見られている”に類する発言をした可能性。
フェルナーは確認する。
「白蔦会、または白蔦らしき印という表現は使いましたか」
シリルは首を振った。
「言っていないと思います」
「思います」
「……はい。言っていない、はずです」
フェルナーは、すぐに訂正した。
「“はず”として記録します」
シリルは苦しそうに頷いた。
アルベルトが低く言う。
「なぜ、そんな話をした」
シリルは今度こそ青ざめた。
「雑談でした」
その言葉が、部屋の中でひどく軽く響いた。
シリル自身も、それに気づいたらしい。
慌てて続ける。
「いえ、軽く考えていたという意味では……いえ、軽く考えていました。申し訳ありません。灰鷹商会の副支配人が、銀狐商会が北方でかなり苦労しているらしいですね、と笑っていたので、つい……」
「つい」
アルベルトの声が硬くなる。
シリルはうつむいた。
「北方の帳場は、銀狐商会でも手を焼くほど細かい、と。王太子府でも書類が増えて困っている、と。そういう話を……」
フェルナーは淡々と確認する。
「あなたは、銀狐商会の取引日が近いことも話しましたか」
「日付は言っていません」
「近い、とは」
「……言ったかもしれません」
「言ったかもしれない」
「はい」
エドガルが、ここで初めて口を開いた。
「あなたは、灰鷹商会が銀狐商会と競合していることを知っていましたか」
シリルは、はっとした顔をした。
「知っていました」
「青脈鉱石取引に関心があることは」
「それも、知っていました」
「ならば、なぜ話した」
シリルは言葉に詰まった。
答えはたぶん、単純だった。
重大な秘密を渡しているつもりはなかった。
自分が持っている情報が、事件の部品になるとは思っていなかった。
少し知っていることを、少し得意になって話した。
それだけだ。
それだけだからこそ、厄介だった。
フェルナーが静かに言った。
「雑談が荷車になることがあります」
シリルは顔を上げた。
「荷車……」
「ええ。あなたが落とした言葉を、誰かが拾い、荷台に載せる。旧搬入口、北方の細かい帳場、銀狐商会取引の接近。そこへ白蔦らしき印という危険な短縮表現が別の経路で加われば、十分な荷になります」
シリルは唇を噛んだ。
「私は、そんなつもりでは……」
「意図は確認します。ただし、意図がなくても荷は動きます」
アルベルトは、強く目を閉じた。
怒鳴るのは簡単だった。
罵倒するのも、処分を命じるのも簡単だった。
だが、それだけでは、この紙は止まらない。
外部連絡窓口にいたシリルひとりを処分しても、別の者が別の茶会で、別の商談会で、また同じように話す。
雑談が荷になるという考えがなければ、また走る。
アルベルトは目を開けた。
「シリル」
「はい」
「お前は、自分が話した相手をすべて挙げろ。灰鷹商会だけではない。この件について、北方は細かい、旧搬入口がどうこう、銀狐商会が苦労している、そういう話をした相手だ」
「はい」
「嘘をつくな。だが、思い出せないことを思い出したふりもするな」
シリルは、驚いたようにアルベルトを見た。
叱責だけが来ると思っていたのだろう。
アルベルトは続けた。
「お前の処分は後だ。今は、言葉の経路を出せ」
「……はい」
フェルナーがわずかに頷いた。
「では、相手ごとに分けましょう。見たこと、聞いたこと、話したこと、推測したこと」
シリルは小さく頷いた。
レムスが新しい紙を出す。
表題は、
外部連絡窓口補助文官シリル発言経路確認
そこへ、ひとつずつ名が置かれていく。
灰鷹商会副支配人。
王都南区資材商談会の金具商。
外郭倉庫修繕係。
錠前商マーロ。
商務係の同僚二名。
そして、王太子府近くの食堂で同席した、商会の使いらしき男。
フェルナーが止める。
「商会の使いらしき男」
「はい。名は……覚えていません」
「特徴は」
「若い男でした。王都風で、身なりは地味ですが靴がよかった。香油の匂いが少し……」
部屋の空気が変わった。
レムスの筆が止まる。
エドガルが、ゆっくり顔を上げた。
フェルナーは、声を変えなかった。
「その男は、いつ会いましたか」
「商談会の翌日か、その翌日です。食堂で隣の席になりました。灰鷹商会の使いかと思いましたが、名乗られていません」
「会話内容は」
「北方の話をしていたのを、聞かれたかもしれません。私が同僚と……北方の帳場が面倒だと話していたので」
シリルは、言いながら顔面蒼白になった。
「まさか、その男が……」
フェルナーは遮る。
「まだ、つなげません」
レムスは書く。
商会使いらしき若い男。王都風、地味な身なり、良い靴、薄い香油様。名乗りなし。シリルと同僚の北方旧所領に関する雑談を近くで聞いた可能性。レオン/レオとの接続未確認。
アルベルトは低く言った。
「その男の顔は覚えているか」
「はっきりとは……」
「なら似顔絵は作るな」
シリルは驚いた顔をした。
フェルナーが少しだけ目を伏せる。
「殿下、その判断は適切です」
「北方ならそうするだろう」
アルベルトは苦々しく言った。
「顔を曖昧に描けば、似た男が何人も犯人になる」
エドガルが頷く。
「人物特徴表にしましょう」
レムスが新しい紙を出す。
王都風若年男性・特徴表
年齢帯。
服装。
靴。
匂い。
話し方。
出現場所。
接触相手。
名乗りの有無。
確度。
名前はまだない。
レオンでも、レオでもない。
まず、特徴。
アルベルトはそれを見て、深く息を吐いた。
「雑談にも札をつけろ」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、室内の全員が聞いた。
フェルナーは静かに頷いた。
「その表現で、王太子府内向けの注意を作成します」
シリルは、うなだれたまま言った。
「私は……私は、ただ面倒だと話しただけでした」
アルベルトは、しばらく黙っていた。
そして低く返す。
「その“だけ”が、荷車に乗ったかもしれない」
シリルは何も言えなかった。
その日の夕方、北方旧所領へ王都からの報告が届いた。
表題は、
外部連絡窓口補助文官シリル発言経路確認・第一報
ルイスが読み上げるにつれ、帳場の空気は重くなった。
シリルが灰鷹商会副支配人へ、北方旧所領の帳場が細かく面倒であること、旧搬入口でもめていること、銀狐商会取引が近いことを話した可能性。
白蔦会については話したつもりはないが、非公式要約を見ていたこと。
さらに、王太子府近くの食堂で、王都風の若い男が近くにいた可能性。
良い靴。
薄い香油。
地味な服。
ガレスが、壁の図を見つめた。
「レオ……レオン……」
レティシアはすぐに言った。
「まだ、王都風若年男性です」
「はい」
ルイスが書く。
王都風若年男性。レオ/レオンとの接続未確認。
クラウスは、いつになく険しい顔で言った。
「灰鷹副支配人だけでなく、その周辺にいた若い使いが、雑談から材料を拾った可能性があります」
豆売りの女主人が腕を組む。
「雑談を拾って、鍵を作らせて、箱に詰めて、こっちに言わせる。嫌な仕事だね」
ヨハンが言う。
「でも、だいぶ人の形になってきましたね」
レティシアは首を横に振った。
「まだ形にしすぎない方がいい」
「はい」
「人の形にすると、顔をつけたくなる。顔をつけると、間違えた時に戻れなくなる」
ルイスは、その言葉を本記録ではなく内部控えに置いた。
夜、レティシアは追記を口述した。
王都では、面倒だと話しただけだった。北方では、細かいでしょうからと言われただけだった。どちらも、それだけなら小さな言葉である。だが、小さな言葉は拾われる。旧搬入口、細かい帳場、近い取引、白蔦の短縮表現、古い鍵。誰かがそれらを荷台に載せた。雑談は罪ではない。だが、札のない雑談は、誰かの材料になる。今日見えたのは、犯人の顔ではない。言葉が荷になる瞬間である。
ルイスは、最後の一文を書き終えた。
壁の図には、また新しい札が増えている。
王都風若年男性。
まだ、名前ではない。
だが、その札は、今までの点線の先で、静かに人の気配を帯び始めていた。




