表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

127/211

第127話 一・一五倍の銭勘定

 銀狐商会が一・一五倍案で戻ってきた時、北方旧所領の帳場では、誰も勝ったとは言わなかった。


 一・五倍が、一・一五倍になった。


 数字だけ見れば、押し返したように見える。


 だがレティシアは、その紙を読んで最初に言った。


「ここからが本番ね」


 ルイスは、思わず顔を上げた。


「ここから、ですか?」


「ええ。増量幅が小さくなった分、商会は費用補填の金額を詰めてくるわ」


 ロイエン連絡官が、帳場の端で静かに頷いた。


「その通りです。銀狐商会にとっては、一・五倍を諦めた分、別建て費用を少しでも抑えたい」


 ヨハンが腕を組む。


「つまり、荷は少し増えるけど、手間賃は値切られる?」


「簡単に言えば、そうですね」


 ロイエンが答えると、豆売りの女主人が鼻を鳴らした。


「商人らしいね。まあ、こっちも豆一粒まで見るけど」


 その言葉に、ルイスは少しだけ苦笑した。


 机の上には、銀狐商会から届いた修正版の三者確認表が広げられている。


 青脈鉱石増量取引案・修正版。


 増量幅、前回比一・一五倍。

 対象、補修確定分のみ。

 点検見込み分は補修確定後、別途協議。

 予備在庫分は分散搬出案を後日提出。

 鉱石単価、前回据置。

 現地追加負担、別建て費用補填。


 ここまでは、北方旧所領側の主張にかなり寄っていた。


 問題は、その下だった。


 別建て費用補填案。


 荷車追加費。

 臨時荷運び費。

 炊事場追加費。

 警備増員費。

 補助書記費。

 中継小屋一時置き場整備費。

 雨天延期再手配費。


 銀狐商会は、それぞれに金額を入れていた。


 そして、その金額は、どれも微妙に低かった。


 露骨に安いわけではない。


 だから厄介だった。


 少しだけ低い。

 文句を言えば、こちらが欲張っているように見える程度に低い。


 ヨハンが荷車追加費の欄を見て、顔をしかめた。


「これ、車輪の摩耗分が入ってませんね」


 ルイスが確認する。


「荷車二台追加、半日分の使用料のみですね」


「半日で終わると思ってるのが、まず甘いです。積み込み、封印確認、待機、道の状態次第で一日仕事ですよ」


 ガレスも中継小屋負担の欄を見て言った。


「一時置き場整備費も、板代だけですね。人手が入ってません」


 豆売りの女主人が炊事場追加費を覗き込む。


「飯代も少ないよ。これ、人数分の豆と根菜だけだね。薪代と手伝いの分がない」


 マルタが静かに頷いた。


「炊事場は食材だけでは回りません。水汲み、薪、後片づけ、器の補修もございます」


 ロイエンは、王太子府側の控えへ目を落としていた。


「商会は、直接見える費用だけを入れていますね」


「直接見える費用」


 ルイスが繰り返す。


「荷車なら、借り賃。炊事なら、食材。警備なら、人数分の日当。だが、その前後の準備や摩耗、待機時間は薄く見積もっている」


 ディルクが低く言った。


「戦場でも同じだ。兵の日当だけ計算して、武具の手入れや馬の餌を忘れる者がいる」


「忘れているのではなく、見ないことにしているのでしょう」


 レティシアは、表へ視線を戻した。


「項目を足します」


 ルイスは筆を構えた。


 レティシアが口述する。


「荷車追加費。車両使用料、荷車番の人件費、待機時間、車輪・軸の摩耗補填、雨天時清掃費」


 ヨハンが小さく口笛を吹いた。


「ありがたいけど、ずいぶん細かくなりましたね」


「細かくしないと、消えます」


「それは本当にそうです」


「臨時荷運び費。作業時間、待機時間、危険手当、雨天時延期補償」


 ガレスが手を上げる。


「危険手当って、どこまで入りますか」


「重い鉱石を扱う時、怪我の危険がある場合です」


 ディルクが補足した。


「特に中継小屋での積み替え時だ。荷崩れの危険がある」


 ルイスが書く。


「炊事場追加費。食材、薪、水汲み、手伝い人件費、後片づけ、器の破損補填」


 マルタが静かに言った。


「器の破損補填まで入るとは、ありがたいことでございます」


 豆売りの女主人が笑う。


「商会の人間、よく割るのかい?」


「急いでいる方ほど、物を雑に扱われます」


「なるほどね。急ぎは器も割る」


 ルイスが書きかけた。


 レティシアが、すぐに言った。


「それは追記ではなく、内部控えに」


「はい」


 ロイエンはそのやり取りを見て、小さく笑った。


「残すものを選ぶ基準、少しずつできていますね」


 ルイスは少し照れたように咳払いした。


「まだ試行中です」


「試行中と書いておきましょうか」


「いえ、それは結構です」


 場に小さな笑いが起きる。


 だが、銭の話は笑いだけでは終わらない。


 警備増員費の欄で、ディルクの表情が固くなった。


「銀狐商会の見積もりでは、夜間警備一名追加、半日分となっている」


 ルイスが確認する。


「はい」


「足りない。増量荷があるなら、到着日夜と翌朝の搬出まで見る必要がある。最低でも一夜分。さらに証拠棚警備と重なる場合は、代替要員が必要だ」


 ロイエンが問う。


「証拠棚警備との重複回避は、前回の現地影響欄にもありましたね」


「はい」


 ディルクは頷く。


「鉱石の量が増える日に、証拠棚警備を薄くするわけにはいかない」


 レティシアはすぐに言った。


「警備増員費。夜間一夜分、翌朝搬出確認まで。証拠棚警備との重複時は代替要員費を別建て」


 ルイスが書く。


 そして、補助書記費。


 ここでルイス自身が少し躊躇した。


「補助書記費は……銀狐商会案では、半日分です」


 レティシアが彼を見る。


「あなたの見込みは?」


「一日分です」


 ルイスは、少し言いにくそうに答えた。


「増量分だけではなく、別建て費用補填の処理、封印確認、三者確認表への反映、王太子府確認欄、銀狐商会控え、王立書庫概要まで作るなら、半日では足りません」


 豆売りの女主人が即座に言った。


「一日分って書きな」


「しかし」


「自分の手間を一番安く見るんじゃないよ。そういうのが一番よくない」


 ルイスは、言葉に詰まった。


 マルタも静かに頷いた。


「帳場が倒れれば、全部止まります」


 ヨハンが軽く言う。


「ルイスさんが倒れたら、俺たち誰に文句言えばいいんですか」


「そこですか」


「大事ですよ」


 ガレスも頷く。


「俺、ルイスさんがいないと何を書けばいいかわかりません」


 ルイスは困ったように笑った。


 だが、少しだけ肩の力が抜けた。


「では、補助書記費は一日分で」


 レティシアは頷く。


「加えて、増量取引日と翌日の整理半日分を予備欄に」


 ルイスが驚く。


「翌日もですか」


「記録は当日で終わらないわ。封印差異や支払い確認は翌日に残るでしょう」


「……はい。残ります」


 豆売りの女主人が満足そうに言った。


「ほらね。自分のことになると見えなくなるんだから」


 ロイエンは、そのやり取りを静かに記録させていた。


 北方旧所領の強さは、レティシア一人ではない。


 町人が、記録官の負担まで口にする。

 帳場が、町人の荷車代を拾う。

 炊事場が、器の破損まで言う。


 互いに細かい。


 面倒だ。


 だが、これではどこか一か所に負担を押し込めにくい。


 銀狐商会にとっては厄介で、王太子府にとっても扱いにくい。


 しかし、取引を壊さないためには必要だった。


 午後には、北方旧所領側の費用再見積表が完成した。


 銀狐商会案より、全体で二割ほど高い。


 ヨハンが表を見て言った。


「これ、商会は嫌がりますよね」


 ロイエンが答える。


「嫌がるでしょう。ただ、項目ごとに理由がある」


「理由があれば通るんですか」


「通りやすくはなります。少なくとも、ただ高いとは言いにくい」


 レティシアは、王太子府確認欄へ目を向けた。


「ロイエン副使。王太子府確認欄をお願いします」


 ロイエンは少し考え、筆を取った。


 王太子府連絡官として、現地で確認したことを書く。


 王太子府確認欄。

 銀狐商会案は直接費用中心であり、待機時間、摩耗、準備・後処理、警備重複、記録整理等の間接負担が不足。北方旧所領側再見積は項目増により総額上昇するが、各項目は現地視察および定例確認会で確認された負担に基づく。金額については銀狐商会と精査余地あり。ただし項目自体を削ることは、後日の負担不明化を招く恐れあり。


 読み上げられた瞬間、帳場が少し静かになった。


 ルイスは、思わずロイエンを見た。


「項目自体を削ることは、負担不明化を招く……」


 ロイエンは筆を置いた。


「そう見えました」


 レティシアは静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどのことではありません。これを書かないと、王太子府も後で困ります」


 ディルクが言った。


「商会が項目を削った結果、事故が起きた場合ですね」


「はい。連絡官として現地で見た負担を、見なかったことにはできません」


 ロイエンは、少しだけ自嘲気味に笑った。


「ここでは、見なかったことにする方が難しい」


 豆売りの女主人が言った。


「見せるからね、こっちは」


「ええ。よく見せられています」


 その日の夕刻、銀狐商会へ再見積表が送られた。


 王太子府にも写し。

 王立書庫には概要。

 北方旧所領控え。


 銀狐商会王都本部では、クラウスがその表を読んで長く息を吐いた。


「二割増しですか」


 ロレンツは苦い顔で言った。


「現地側は強気ですね」


「強気というより、細かい」


「同じことでは?」


「違います。強気なら値切れます。細かいものは、一つずつ潰さなければならない」


 クラウスは表を指でなぞった。


「荷車の待機時間。車輪摩耗。器の破損補填。補助書記の翌日整理半日分……」


 ロレンツが呆れたように言う。


「器の破損まで商会が見るのですか」


「商会人員が増えるために炊事場を使うなら、見るべきでしょう」


「あなた、本当に商会側ですか」


「商会側です。だから、後で器一つで帳場ともめる無駄を避けたい」


 クラウスはロイエン所見の写しを読んだ。


「項目自体を削ることは、後日の負担不明化を招く恐れあり……ロイエン副使もずいぶん書くようになりましたね」


「現地に染まったのでは?」


「染まったというより、現地で逃げ道を塞がれたのでしょう」


 クラウスは少し笑った。


「見たものを見なかったことにできない。商人にはなかなか怖い場所です」


 ロレンツは椅子に深く座った。


「では、この二割増しを飲めと?」


「全部は飲みません」


「ですよね」


「金額を詰めます。ただし項目は残します」


「項目を残すと、今後も請求されます」


「項目を消すと、今後も揉めます」


 クラウスは即答した。


「長期で見るなら、項目を残して金額を決める方がましです」


 ロレンツは沈黙した。


 やがて、諦めたように言う。


「では、荷車摩耗と器破損補填は上限額を設ける。補助書記翌日分は半日を認める。警備重複費は、証拠棚警備と重なる場合のみ。炊事場手伝いは人数上限を」


「妥当です」


「妥当と言われると腹が立ちますね」


「商談が進んでいる証です」


「あなたは本当に楽しんでいる」


「はい」


 クラウスは、今度は隠さず笑った。


 同じ頃、王太子府では、アルベルトが再見積表を読んでいた。


「器の破損補填……」


 彼はそこを読んで、さすがに眉を寄せた。


「細かすぎないか」


 エドガルは静かに答える。


「細かいです。ただ、商会人員増による炊事場利用があるなら、現地では問題になる可能性があります」


「王都なら、まとめて雑費だ」


「現地では、器一つが備品です」


 アルベルトは少し黙った。


 王都では、壊れた器は補充される。


 誰かが手配し、誰かが支払い、次の日には同じような器が棚にある。


 だが辺境では、器一つにも手配がいる。


 そういうことなのだろう。


「項目は認める。金額は商会と現地で詰めろ。ただし、王太子府確認欄に上限額の考え方を入れろ」


 エドガルが頷く。


「承知しました」


「あと、補助書記費は削るな」


 エドガルが一瞬だけ意外そうにした。


「よろしいのですか」


「記録が遅れれば、後で俺たちが読む紙も遅れる」


 アルベルトは不機嫌そうに言った。


「そこを削って得をしても、こちらに返ってくる」


 エドガルは、静かに頭を下げた。


「仰る通りです」


 また一つ、アルベルトが現地の手間を自分の府の遅れとつなげて考えた。


 小さい。


 だが、確かな変化だった。


 夜、北方旧所領の帳場に、王太子府の確認文が届いた。


 項目維持。

 金額精査。

 上限額設定。

 補助書記費は維持。

 王太子府確認欄に上限額基準を設ける。


 ルイスは、読み終えると少しだけ目を丸くした。


「補助書記費は維持、とあります」


 豆売りの女主人が満足そうに笑った。


「よかったじゃないか。王太子殿下も、たまにはわかるね」


 ルイスは慌てて言った。


「たまには、は記録しません」


「しなくていいよ」


 レティシアは、静かに王太子府確認文を見つめていた。


 アルベルトが、補助書記費を削るなと言った。


 理由はおそらく、情ではない。

 王太子府へ返る遅れを防ぐためだ。


 それでもよかった。


 現地の手間を、自分たちに関わるものとして見た。


 それだけで、紙は少し前へ進む。


 その夜の追記を、レティシアはこう口述した。


 銭勘定は、冷たいようで温かい。誰の手が動き、誰の器が割れ、誰が夜に立ち、誰が翌日まで紙を整えるのか。それを金額にすることは、決して下品なことではない。無償の善意に押し込める方が、よほど人を軽く扱う。払うべきものを払うために、重さを銭へ翻訳する。


 ルイスは、その一文をゆっくり書いた。


 一・一五倍の取引は、まだ決まっていない。


 だが、少なくとも銭の置き場は見え始めた。


 荷車の車輪。

 炊事場の器。

 夜番の時間。

 補助書記の半日。


 それらはもう、見えない負担ではない。


 金額欄を持つ、正式な取引の一部になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ