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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第11話 王都の最初の綻び

 同じ頃、王都ルーメルンでは、春の陽射しが何事もなかったかのように磨かれた石畳を照らしていた。


 王城の尖塔は今日も白く、庭園には季節の花が咲き、貴族たちの馬車は決められた時刻に正門をくぐる。表から見れば、王国の中心は少しも揺らいでいない。婚約破棄の噂も、王都においては数ある社交界の話題の一つへと、いずれ収まっていくように見えた。


 だが、見た目が変わらないことと、内側が変わらないことは同じではない。


 その日の午後、王城では小規模な茶会が開かれていた。


 大舞踏会ほどの規模ではない。だがそれでも、招かれているのは王都社交の流れを左右する家々ばかりだった。大貴族の夫人たち、王家に近しい伯爵家、商会と縁の深い男爵家、騎士団関係者の妻たち。目的は明白だ。先日の婚約解消を経ても、王太子アルベルトの周辺が揺らいでいないことを見せるための場である。


 そして、その場の“新しい顔”として、エミリア・エーヴェルシュタインが立っていた。


 淡い薔薇色のドレスはよく似合っていた。髪も丁寧に結い上げられ、首元には王家から贈られたらしい小粒の真珠が揺れている。見た目だけを言えば、誰もが「愛らしい」と評するだろう。本人も、そのこと自体はよくわかっている。


 だが問題は、今日求められているのが“愛らしさ”だけではないということだった。


「エミリア様、こちらでございます」


 王城付の侍女が小声で促す。


 本来なら、こうした小規模茶会の席次は表面上柔らかく見えても、実際にはきわめて厳格だ。誰をどの位置へ通し、誰と誰を近づけず、誰を先に紹介し、誰を後回しにするか。そこには家格だけではない、ここ数年の婚姻関係、領地を巡る含み、体面の借り貸しまで絡む。


 レティシアがいれば、その多くはすでに紙の上と頭の中で整理されていたはずだった。


 だが今日、その役目を引き継いだはずのエミリアは、いまだその全容を掴めていない。


 侍女が用意した案内順を見て、彼女は一瞬だけ首をかしげた。


「あの……こちらの方が先ではないの?」


 彼女が指したのは、西方伯家に連なる若い夫人だった。確かに見目も華やかで、本人も人前で目立つことに慣れている。だが今日先に立てるべきは、その隣にいる南部侯爵家の老夫人の方である。年齢と家格だけの問題ではない。西方伯家と南部侯爵家の間には、昨年の婚姻に絡む微妙な面子の釣り合いがあり、その老夫人を先に立てることで初めて丸く収まるのだ。


 しかしエミリアには、その背景が見えていない。


 侍女は一瞬迷った。

 本来なら「その通りではありません」と訂正すべきだ。

 だが、いま目の前にいるのは王太子の新たな婚約者候補と目される娘。

 強く諫めれば、自分の立場が危うくなるかもしれない。


「……かしこまりました」


 結局、侍女は従った。


 それが最初の綻びだった。


 小さな茶会は、そうした小さな綻びの積み重ねで進んでいく。


 南部侯爵家の老夫人は笑顔を保ったが、その目元は明らかに冷えた。

 西方伯家の若夫人は“自分が立てられた”ことに気づき、嬉しさより居心地の悪さを覚える。

 それを見た周囲の夫人たちは、すぐに理解する――ああ、今日の場は整っていないのだ、と。


 そこへ追い打ちのように、エミリアが次の挨拶で言葉を誤った。


「先日は、ご長男様のご慶事、誠におめでとうございます」


 にこやかに告げたその相手は、喪中の伯爵夫人だった。


 夫人の長男は昨年婚約したばかりだが、つい先月、婚約者の父が亡くなっている。王都社交の慣例として、その家へ「ご慶事」という表現は当面避けるべきだった。


 一瞬、空気が凍る。


 エミリアは何が起きたのかわからないまま、ただ自分の笑顔が周囲へ伝わっていないことだけを感じ取って頬を強張らせた。


「……お気遣い、ありがとうございます」


 伯爵夫人は礼を失わぬよう返したが、その声音は固い。


 その様子を、少し離れた場所から王太子アルベルトが見ていた。


 彼は今日の場を、さして難しいものだとは思っていない。大舞踏会ではないのだし、自分が顔を出し、エミリアが愛想よく振る舞えば、あとは自然に回るはずだ――その程度の認識だった。


 だからこそ、いま空気が微妙に冷えていることの意味がわからない。


 彼にとって不快なのは、エミリアが戸惑っていることそのものだった。


 場が整わない理由を考えるより先に、どうして皆もっと愛想よく受け入れないのか、という苛立ちが先に立つ。


 茶会の半ば、さらに別の綻びが表れた。


 王城付きの給仕が出した茶菓子の順番が妙だったのだ。


 本来なら先に軽い焼き菓子、その後で甘みの強い果実煮を出すはずが、今日は逆になっている。しかも南方の商会と関わりの深い家々の席にだけ、いつもより質の良い菓子が先に回っていた。


 普通の客なら気づかない。

 だが気づく者は確実にいる。


 そして気づく者ほど、何も言わないまま覚えている。


 茶会の奥で、その様子を冷ややかに見ていたのは、宰相補佐の老貴族バルテルだった。


 彼は公には王太子派と距離を置かぬ立場にいるが、王都の儀礼と運営に関しては人一倍目が厳しい。今日の場も、単なる歓談ではなく王太子の周辺が“問題なく回っているか”を見定めるために顔を出していた。


 そして、彼の結論はすでに固まりつつあった。


 回っていない。

 しかも、本人たちはそのことに気づいていない。


 バルテルの隣には、商務院との繋がりが深い老婦人がいた。彼女が小さく扇を動かしながら囁く。


「席次が二つ、ずれていますわね」


「ええ」


「茶も」


「ええ」


「……レティシア嬢なら、このような綻びは起きませんでした」


 その言葉は、ほとんど独り言のように静かだった。


 だが、バルテルは聞き逃さなかった。


「全くです」


 低く返すと、老婦人はそれ以上何も言わない。


 けれど、その一往復だけで十分だった。

 “皆が同じことを思っている”という確認になるからだ。


 やがて茶会は表面上は無事に終わった。


 誰も大きな失態を声高に咎めはしない。

 貴族社会は、露骨な断罪よりも、記憶と距離によって人を削る。


 問題は、終わったあとの空気だった。


 夫人たちは帰り際、以前ならエミリアへ向けたであろう柔らかな言葉を控えめにし、代わりに互いへ小声で何事かを囁き合う。王城付きの侍女たちも、表情を整えながら明らかに動揺していた。給仕たちは何がまずかったのかよくわからぬまま、ただ“今日は妙だった”という感覚だけを共有している。


 そしてエミリア本人も、楽しかったはずの茶会が、なぜか終わってみると苦しいだけだったことに混乱していた。


 控えの間へ戻るなり、彼女は侍女へ向かって言った。


「どうして、皆あんな顔をしていたの?」


 侍女は困り切った顔になる。


「皆、とは……」


「だって、わたし何か変なことをしたの?」


 問い方自体が、すでにまずかった。


 “何か変なこと”をしたかどうかという感覚で済む問題ではないのだ。

 積み重ねた小さな誤りは、ひとつひとつを切り出せば大したことがないように見える。だが、その“少しずつのずれ”こそが、王都の社交では一番深く効く。


 侍女は勇気を出して答えようとした。


「エミリア様、南部侯爵家のご夫人方は……」


 だが、その途中でアルベルトが入ってきた。


「まだそんな顔をしているのか」


 彼は明らかに機嫌が悪かった。


 今日の場が妙にぎこちなかったこと自体は感じ取っている。だがそれを“場を整える技術の問題”と理解するよりも先に、“エミリアが堂々としていなかったからだ”と思っているのが、その表情からありありと見て取れた。


「殿下……」


「もっと自信を持て。あんな小さな茶会で緊張してどうする」


 エミリアは傷ついたように目を見開く。


「で、でも、皆の反応が……」


「気にしすぎだ」


 アルベルトは苛立たしげに手を振った。


「お前は愛想よくしていればいい。細かなことは周りが整える」


 その言葉に、控えの間にいた侍女たちが一瞬だけ目を伏せる。


 整えるべき“周り”とは誰なのか。

 これまで、それを見えない形で引き受けていたのは誰だったのか。

 その答えを知る者ほど、いまの王太子の言葉はあまりに軽かった。


 エミリアは何か言い返したそうだったが、結局口を閉じた。


 彼女自身、今日の失敗の全容はわからない。

 だから反論もできない。

 ただ、自分がうまくできなかったことだけはわかる。

 だが「何が」うまくできなかったのかが見えない。

 それが一番苦しいのだ。


 その頃、王城の別の一室では、商務院から急ぎの書類が届いていた。


 内容は、王都へ入る南方産の砂糖の納入量が予定より落ちているという報告だった。

 普通なら、ここで王太子妃教育に関わる側近の誰かが、先日の招待順や茶会の菓子配分に絡む各家の顔色を見ながら、商会との順序を整え、必要なら先に一筆入れて火種を消す。


 だが今日、その役目を担うはずの引き継ぎ先は空白だった。


 書類を受け取った若い書記官は困り果て、侍従長グレイヴスのもとへ駆け込む。


「侍従長閣下、この件はどちらへ回せば……」


 グレイヴスは書類に目を落とし、疲れたように目を閉じた。


 以前なら迷うことなく、

 レティシア嬢の控えへ。

 そう言えたのだ。


 だが、もう言えない。


「……一度、王太子府へ」


「殿下へ直接でございますか」


「まずは側近を通せ」


「側近の、どなたへ……」


 その問いに、グレイヴスは一瞬だけ言葉を失った。


 それこそが問題だった。

 これまで複数の流れを束ねていた見えない中心が消えたことで、“誰へ回せばよいか”すら曖昧になり始めている。


「……私の名で預かる」


 最終的に彼はそう告げた。


 若い書記官はほっとしたように頭を下げたが、その安堵は一時しのぎに過ぎない。侍従長がすべてを抱え込めるはずもないのだから。


 夕刻、王城の回廊を歩くバルテルは、たまたまそのやり取りの一部を耳にした。


 彼は立ち止まりはしない。

 だが、眉間の皺は深くなる。


 社交の綻び。

 給仕の配膳順の乱れ。

 納入書類の迷子。

 そして、それを引き取る“誰か”の不在。


 どれも小さい。

 小さいが、こういうものは決して単独では終わらない。


 その夜、バルテルは自邸へ戻るなり妻へ言った。


「王都は、思ったより早く軋み始めるかもしれん」


 妻は驚いた顔をした。


「たかが婚約の話で、そこまで?」


「婚約の話ならそうだろう。だが、切られたのが婚約者だけなら、の話だ」


 バルテルは外套を脱ぎながら続ける。


「見えていた者が消えると、見えていなかった仕事ほど先に崩れる」


 その言葉には、古くから政務を見てきた者の確信があった。


 同じ頃、王太子の私室では、アルベルトが不機嫌そうに酒杯を揺らしていた。


 今日の茶会が思い通りにいかなかったのは、周囲が余計に構えたせいだ。

 エミリアがまだ慣れていないだけだ。

 そんな小さなことは、そのうち整う。

 彼は本気でそう考えている。


 そして、その考えの軽さこそが、これから彼自身を締め上げていくのだが、今の彼には知る由もなかった。


 一方、エミリアは自室へ戻っていた。


 侍女が外した髪飾りを箱へ戻しながら、恐る恐る問う。


「本日は、お疲れでございましたね」


「……わたし、何を間違えたのかしら」


 その声には、もう昨日までの甘やかな自信がない。


 侍女は返答に困った。

 全部です、とは言えない。

 ですが何一つわかっていません、などとも言えない。


 結局、「少しずつ、お慣れになれば」としか答えられなかった。


 エミリアは鏡の中の自分を見る。


 今日も、自分は可愛く整えられている。

 ドレスも髪も、王太子の隣に立つにふさわしい。

 それなのに、なぜ皆はあの冷えた目を向けたのか。


 その答えを、彼女はまだ持っていない。


 ただ、ひとつだけわかることがある。

 姉がいなくなってから、世界は思っていたよりずっと冷たくなった。


 夜更け、王城の書庫に近い一室で、グレイヴスは今日一日の報告をひとりでまとめていた。


 社交の順序の乱れ。

 商務院からの納入遅延報告。

 南部侯爵家夫人の機嫌の硬化。

 東方の一部家門で囁かれ始めた“引き継ぎは本当に済んだのか”という疑念。


 彼は書きながら、深く息を吐いた。


 そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


「……レティシア嬢なら、このような綻びは起きませんでした」


 同じ言葉が、今日だけでも何度繰り返されたかわからない。


 けれど、その言葉が王太子自身の耳へ届くことはまだない。

 届いたとしても、彼はしばらく信じないだろう。


 綻びは、最初は必ず小さい。

 だからこそ軽く見られる。


 だがその小ささのうちに止めねば、いずれ取り返しのつかぬひびになる。


 王都はまだ、美しい。


 だがその美しさを支える糸は、確かに一本、昨日までより弱くなっていた。

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