第10話 初めての喝采
リュンデル村の補修が本格的に動き出して三日目の朝、辺境にはようやく、危機を越えたあとの静けさが訪れつつあった。
もちろん、何もかもが元通りになったわけではない。
仮堰はまだ仮のままだ。
牛舎も完全には立て直せていない。
泥をかぶった畑は水を抜きながら様子を見る段階で、損失の全容すらまだ見切れていない。
それでも、最初の数日間に漂っていた「今にも何かが崩れる」緊張は、少しずつ形を変え始めていた。いまの空気は、崩壊寸前の怯えではない。疲れながらも、自分たちで復旧しているという実感の重さだ。
それは領地にとって、非常に大きな違いだった。
朝の砦の中庭では、いつものように兵と下働きたちが忙しく動いている。だがその動きには、これまでの惰性とは別の芯が通っていた。誰かに怒鳴られて無理やり働いているのではなく、自分たちがやるべきことを理解した者の足取りになりつつある。
井戸の前では、昨日までぎこちなかった色分け桶の運用が、今日はほとんど自然に回っている。兵舎側へ運ばれる水、食堂へ運ばれる水、厩舎用の水が混ざらなくなったことで、朝の混乱も明らかに減っていた。炊事場からは、薄いながらも温かな粥の匂いが立ちのぼり、仮設の荷受け場には、街道補修へ向かう者たちのための道具が整理されて並べられている。
レティシア・エーヴェルシュタインは、その様子を中庭の回廊から静かに見ていた。
後ろにはマルタが控え、少し離れたところでルイスが朝の記録帳を抱えている。
「随分と変わりましたね」
ルイスがしみじみと呟く。
辺境へ来たばかりの頃、彼はここを「荒れている」としか見ていなかった。だが今は、荒れていた場所がどう変わっているのかを少しずつ見分けられるようになっている。
「そうね」
レティシアは頷く。
「大きく変わったわけではないけれど、“何をどこへ動かすか”が見え始めたのは大きいわ」
「兵たちも、昨日までとは顔つきが違います」
「ええ。無駄に削られるだけの毎日と、少しずつでも前へ進んでいる毎日では、同じ疲れでも意味が違うもの」
そう答えながら、レティシアは視線を訓練場の方へ向けた。
そこでは、ディルク・ヴァルゼンが数名の兵と何やら話している。彼らの前には簡易な交代表が広げられており、どうやら昨日兵の側から出てきた申し出――交代要員の組み方を見直す件――を、正式に形にしているらしい。
無理を前提にした運用ではなく、無理を減らすことで長く持たせる運用へ。
それは地味な変化だ。
だが、領地全体を立て直す時に本当に重要なのは、たいていこういう地味な変化だった。
その時、リュンデル村からの使いが到着した。
中年の村人で、まだ少し泥の染みが残る外套を着ている。中庭へ入るなり彼は緊張した面持ちで深く頭を下げた。
「閣下、村長よりお伝えに参りました」
「どうしたの?」
「昨日までの補修で、水路の仮流路が安定しました。今朝確認したところ、畑への流れも徐々に戻りつつあります」
レティシアは胸の奥で小さく息を吐いた。
持った。
ひとまず、本当に持ったのだ。
隣でマルタが口元へ手をやる。あからさまに安堵した顔だった。
「そう。村長へ、よく持ちこたえたと伝えて」
「はっ。それと……」
使いの男は少しためらってから続けた。
「村の者たちが、今朝、閣下へ礼を申し上げたいと」
レティシアは少しだけ目を瞬く。
「礼なら、前にも受けたわ」
「いえ、その……今朝、あらためて皆で、と」
その言い方が少し気になったが、レティシアは余計な言葉を挟まなかった。
「では、昼前に村へ向かうわ。総司令殿にもそう伝えて」
使いが去ると、マルタがそっと言う。
「きっと何かご用意しているのでしょうね」
「そうかしら」
「はい。あの村の方々、先日からお嬢様を拝むようなお顔で見ておいでですもの」
レティシアは苦笑する。
「拝まれても困るわ」
「では、慕われているとお考えください」
その言葉には少し、温かな響きがあった。
昼前、レティシアはディルクと共に再びリュンデル村へ向かった。
道中、昨日までの補修の跡が見える。ぬかるみを避けるために敷かれた板、目印の杭、新しく切られた排水の溝。どれも簡素で仮のものだが、“手が入っている”という事実だけで景色は変わる。
村に着くと、広場には人が集まっていた。
老人、女、若者、子供。皆それぞれ仕事の手を止めて待っていたらしい。着飾っている者は一人もいない。泥の跡が残る服、何度も繕った上着、手にはまだ土や藁がついている。だが、その場の空気は不思議なほどまっすぐだった。
村長が前へ出る。
「閣下、お越しいただきありがとうございます」
「補修の手は止めていないでしょうね?」
冗談めかして言うと、広場に小さな笑いが起きた。
「はい。今日の分は日の出から動かしております」
「なら良かったわ」
村長は頷き、それから一歩下がった。代わりに昨日薬草を差し出した老女が前へ出てくる。彼女の後ろから、さらに若い母親、腕に泥のついた農夫、まだ頬の赤い子供までが、そろりそろりと前へ進んだ。
その時になって、ようやくレティシアはわかった。
これが“あらためての礼”なのだと。
最初に、老女が膝を折る。
続いて、村長が膝を折る。
それを見て、広場にいた大人たちが、次々と同じように頭を垂れた。
誰かが号令をかけたわけではない。
ただ、自然にそうなった。
王都の宮廷礼法のような、美しく揃った所作ではない。
けれど、かえってその不揃いさが本物だった。
「……生き延びられました」
村長の声が震える。
「家も、畑も、全部を守れたわけではありません。ですが、人が残りました。子供が、母親が、老人が……村の明日が残りました」
老女が涙ぐんだ声で続ける。
「見捨てられたと思っていたんです。この村は、いつかこうやって流されるんだって……でも閣下は来てくださった。泥の中へ、本当に」
若い母親が、幼い子供の肩へ手を置きながら言う。
「この子が、まだここで生きられます」
それ以上の言葉はもう要らなかった。
レティシアは広場を見回した。
泣いている者もいれば、ただ真剣な目でこちらを見ている者もいる。
誰も華やかな歓声など上げない。
代わりに、そこには言葉より強い静けさがあった。
レティシアは一歩前へ出て、彼らと同じ高さになるよう、わずかに膝を曲げた。
「顔を上げて」
その声はよく通った。
人々がゆっくりと顔を上げる。
「私は、あなたたちを助けに来たのではないわ」
ざわめきが走る。
だがレティシアは静かに続けた。
「この領地を、見捨てられた場所のままにしないために来たの。だから、守れたのは私一人の力ではない。ここで走った人、石を運んだ人、子供を抱えて登った人、泥の中で踏ん張った人……みんなが動いたから、持ちこたえたのよ」
それを聞いて、何人かの村人が息を呑んだ。
「だから礼を言うなら、まず自分たちへ言って。よく動いたと。よく耐えたと」
広場が静まり返る。
そして次の瞬間、どこからともなく拍手が起こった。
今度は昨日のような小さなものではない。
少しずつ、しかし確かに広がっていく拍手だった。
最初は若い農夫が。
次に老女が。
それに子供たちが加わり、やがて村全体へ広がる。
レティシアに向けたものでもあり、同時に村人たちが自分たちへ向ける拍手でもあった。
その音を聞きながら、レティシアは胸の奥に込み上げるものを感じた。
王都の舞踏会では、拍手はしばしば体裁の一部だ。
誰がどの場面でどれだけ拍手するかまで、空気で決まっている。
けれどこの拍手は違う。
泥と疲れの中で生まれた、どうしようもなく不格好で、だからこそ重い音だった。
隣に立つディルクが、低く呟く。
「……初めてです」
「何が?」
「この村の連中が、誰かにこういう顔をするのを見たのは」
その声音には、驚きと、わずかな感慨が混じっていた。
レティシアは答えなかった。
答える必要もないと思ったからだ。
拍手が収まったあと、村人たちは自然と仕事へ戻り始めた。
これもまた、この地らしい。
感動の場面があっても、そのあとにやるべきことは残っている。
涙を流したままでは牛舎は建たず、水路も直らない。
だからこそ、広場に残ったのは村長と数人のまとめ役、それから子供たちだけだった。
その中の一人、小さな女の子が、おずおずとレティシアへ近づいてくる。
手には野の花を雑に束ねたものが握られていた。
「……これ」
恥ずかしそうに差し出される。
泥のついた、名もない花だ。
花束と呼ぶにはあまりに粗い。
それでも、子供なりの精一杯なのだろう。
レティシアはその場にしゃがみ、受け取った。
「ありがとう。とてもきれいね」
女の子はぱっと顔を赤くし、母親の陰へ走って戻っていった。
それを見ていたマルタは、今度こそはっきり涙ぐんだ。
隠す気もなくなったらしい。
「お嬢様……」
「泣きすぎよ、マルタ」
「泣かずにいられますものですか」
レティシアは苦笑しつつ、花をそっと持ち直した。
帰り道、ディルクは珍しく長く黙っていた。
村を離れ、砦へ向かう道の途中で、ようやく口を開く。
「……先日、申し上げました」
「ええ」
「閣下が流されれば意味がないと」
「そうね」
「考えは今も変わっておりません。ですが、別のこともわかりました」
「何かしら」
ディルクは前を見たまま言う。
「閣下が泥の中に立つことには、兵を動かす以上の意味があるようです」
それはディルクにしては随分と率直な言い方だった。
レティシアはその横顔を少しだけ見る。
「認めてくださるの?」
「認めざるを得ません」
「素直ではないのね」
「元々、そういう性分ではありません」
そこで彼は、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶにはまだ硬い。
けれど少なくとも、最初の日に向けられていた拒絶の色はもうそこになかった。
砦へ戻ると、中庭では兵たちが自然に道を開けた。
しかも今日のそれは、昨日とは少し違う。
ただ遠巻きに見ているのではなく、はっきりと敬意の形を取っていた。
「閣下」
「閣下、お帰りなさい」
「リュンデルはどうでしたか」
口々にかけられる声に、レティシアは軽く頷きながら答える。
「持ち直しているわ。あなたたちのおかげよ」
その言葉を受けて、兵の一人が思わずといったように笑った。
辺境へ来たばかりの頃には、想像もできない光景だった。
部屋へ戻ったあと、ルイスがいつものように帳面を開いた。
「今日の報告を、お願いします」
レティシアは椅子へ腰掛け、しばらく考えてから口述する。
「リュンデル村補修三日目。仮流路安定。排水継続。村人の復旧意欲高く、今後の労働再編に組み込み可能。兵の交代制、炊事支援、資材運用、いずれも昨日より自然に機能」
そこまで言って、一度言葉を切った。
そして、昨日までとは少し違う響きで続ける。
「……領民の支持、初めて明確に確認」
ルイスが顔を上げる。
「“支持”と書いてよろしいのですか」
「ええ」
「信頼、ではなく?」
「信頼は、これから積むものよ」
レティシアは静かに答える。
「でも今日、彼らは自分たちから礼を示した。それは“この先もこの人に立っていてほしい”という意思でしょう?」
ルイスは深く頷き、言われた通りに書きつける。
しばらくして、マルタが窓辺で花瓶を探しながら言った。
「本当に、お嬢様がここへ来て良かったのでしょうね」
「そう断言するのはまだ早いわ」
「ですが」
「ここからよ」
レティシアは机の上の花を見た。
子供がくれた野の花。
老女がくれた薬草。
どちらも王都の誰もくれなかったものだ。
王都では、彼女は役目として必要とされていた。
だがこの辺境で、人々は少しずつ彼女自身を主として見始めている。
それは喜ばしいことだ。
同時に、とても重いことでもあった。
「今日から本当に逃げられなくなったわね」
小さく呟くと、マルタが首を傾げる。
「何からでございますか」
「主であることから、よ」
それは冗談ではなかった。
誰かの期待を背負うというのは、王太子妃教育の一部として与えられる役割とは違う。
もっと直接的で、もっと生々しい。
相手の暮らしや命そのものが、少しずつこちらへ重なってくる。
だが、不思議とその重さは嫌ではなかった。
むしろ、ようやく自分が立つべき場所の輪郭が、ほんの少し見えてきた気さえした。




