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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第9話 泥の中の領主

 翌朝、砦の中庭にはまだ夜の冷えが残っていた。


 だが空気そのものは、昨日までと明らかに違っていた。寒さは同じだ。風も同じように石壁を鳴らし、空も相変わらず北方らしく高く薄い。なのに、そこに立つ人々の目だけが変わっている。


 希望と呼ぶにはまだ早い。

 けれど、諦めだけではない目になっていた。


 まだ夜明けの色が残るうちから、兵たちは中庭に集まり始めていた。

 志願して補修へ向かう者。

 仮堰の強化に必要な土嚢を詰める者。

 炊事場の手を借りて、高台へ残る村人のための粥を用意する者。


 昨日の一件は、単なる水害対処では終わっていない。

 砦全体へ、「いま動けば本当に変わるかもしれない」という感覚を残したのだ。


 レティシア・エーヴェルシュタインが中庭へ出ると、昨日よりさらに多くの視線が彼女へ向いた。


 遠慮がちなものもある。

 測るようなものもある。

 だが、もはや軽んじる目ではない。


「おはようございます、閣下」


 最初に声をかけたのはエルンだった。

 その後ろにも何人かの若い兵がいる。誰もが昨日の泥を落としたばかりの顔をしていたが、寝不足の割に表情は明るい。


「おはよう。補修へ行くのね」


「はい。日が高くなる前に、昨日の仮列をもう一段固めます」


 レティシアは頷いた。


「朝食は?」


「これからです」


「なら、食べてから行きなさい」


 兵たちが一瞬戸惑う。

 早く行きたい気持ちと、言われた通りにした方がいいという理解の間で揺れているのだろう。


 レティシアは続けた。


「空腹で力仕事をしても、途中で倒れるだけよ。特に今日は、昨日の疲れが残っている。温かいものを入れてから動いて」


 そこへディルク・ヴァルゼンが現れた。

 今朝はすでに旅装に近い外套を羽織っている。補修現場へ向かうつもりなのだろう。


「その通りだ。食ってから行け」


 総司令の一言で、兵たちは素直に「はっ」と返した。


 ディルクはレティシアの前で足を止める。


「村への追加補修、予定通り進めます。昨日よりも人数が集まりました」


「志願が多いと聞いたわ」


「ええ。……昨日、見られましたから」


 短い言葉だった。だが何を見たのかはわかる。


 領主が泥の中へ入るところ。

 危険な列で声を張るところ。

 ただ命じるだけでなく、現場の重みを自分で引き受けるところ。


 辺境では、そういう姿は王都以上に強く響く。


「では、私も行くわ」


 昨日に続いてそう告げると、ディルクは眉をひそめた。


「今日は昨日ほど危険な現場にはなりません」


「ええ。でも、昨日より大事かもしれない」


「なぜです」


「昨日は“壊れるのを止める日”だったでしょう?」


「……ええ」


「今日は“立て直しが本当に始まる日”よ。なら、見ておきたいわ」


 ディルクは少しだけ沈黙し、それから短く息を吐いた。


「護衛は昨日より近くにつけます」


「それでお願い」


 リュンデル村へ向かう道は、昨日より少しだけ落ち着いていた。


 濁流そのものは峠を越えたらしく、水位は明らかに下がっている。だがそのかわり、昨日水に削られた斜面や、泥に埋まりかけた道の傷跡が露わになっていた。昨日の危機が、いかに紙一重のところにあったかをむしろ今日の方がはっきり示している。


 村へ着くと、すでに動きは始まっていた。


 高台へ避難した村人たちは戻り始めているが、まだ家へ入れる場所とそうでない場所がある。兵と若者たちは仮堰の補強に入り、女たちは泥をかき出し、老人たちは流れた柵や桶を拾い集めていた。昨日の混乱とは違う、目的を持った忙しさだった。


 村長が走り寄ってきて、深く頭を下げる。


「閣下、昨夜は本当に……」


「礼はいいわ。被害を見せて」


 村長は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷く。


 被害は村の西端に集中していた。

 畑の一部は泥に埋まり、牛舎の一棟が半壊し、柵もいくつか流された。だが家屋はぎりぎり持っている。もし昨日の流れが正面から入っていれば、今ごろは家ごといくつか失われていただろう。


 レティシアは泥の深さを見て、土の質を確かめ、壊れた牛舎の柱を見上げた。


「ここは後で直せる。まず、今日のうちにやるべきなのは三つね」


 村長が緊張した面持ちで耳を傾ける。


「ひとつ、高台に上げた人たちの寝場所と火の確保。今夜も全員を下ろさない方がいいわ」


「はい」


「ふたつ、泥に埋まった畑は今すぐ掘り返さない。水が引き切る前に触ると余計に傷む」


「……は、はい」


「みっつ、牛舎の残った柱を今日中に支えること。次の風で倒れたら、それこそ損が大きい」


 村長は目を丸くした。


「畑を、すぐ掘り返さないのですか」


「気持ちはわかるわ。でも焦って鍬を入れたら、水を抱えた土がさらに締まってしまう。今日は排水を切る方が先」


 その説明に、近くにいた老農夫が思わず頷いた。


「……その通りだ。あの土はまだ重すぎる」


 村長がはっとして振り向く。

 つまり、言われてみれば現場の者も知っている理屈なのだ。

 ただ、混乱の中では誰かがはっきり口にしないと、焦りが先に立つ。


 レティシアはそこで視線を仮堰の方へ向けた。


 兵たちが昨日積んだ石列を、さらに外側から補強している。

 ところどころ土嚢を抱えて走る若者たちの動きが鈍い。

 寝不足と筋肉痛が目に見える。


 それでも手は止まっていない。


 レティシアはそこへ向かった。


「右端、土嚢の積み方を変えて」


 いきなり声をかけられた兵がぎょっとする。


「か、閣下」


「縦に押し込むより、寝かせて噛ませた方が崩れにくいわ。昨日急場で積んだから仕方ないけれど、今日は直せるでしょう」


 兵は一瞬戸惑ったが、すぐに横の者と顔を見合わせて動き始める。


 別の列では、昨日から頑張りすぎている中年兵が、明らかに膝へきているのを見つけた。

 レティシアはその場で止める。


「交代して」


「まだやれます」


「やれても、次で崩れるなら意味がないわ。後ろの二人、前へ」


「ですが……」


「命令よ」


 兵は渋々下がったが、二歩下がったところで本当に足元をもつらせた。


 近くにいたエルンが慌てて支える。


「ほら見なさい」


 レティシアがそう言うと、周囲の者たちから小さく苦笑が漏れた。

 昨日までなら張り詰めすぎて生まれなかった反応だ。

 ほんの少しだけ、この場に人の余裕が戻っている。


 だが、その穏やかさは長くは続かなかった。


 上流を見張っていた兵が、斜面の上から叫ぶ。


「閣下! 北の枝谷から新しい流れです!」


 全員が顔を上げる。


 昨日の本流ではない。

 だが、雪解けの残りが脇谷から走り込めば、せっかく整えた仮列の横腹を打たれる。


 レティシアは即座に判断した。


「左の列はそのまま。右の外側に石を回して。人は減らさないで、後ろの土嚢詰めを三人だけ前へ」


 ディルクがすぐに補足する。


「見張りは二名そのまま! 狼の気配も拾え!」


 兵たちが一斉に動く。


 新たな流れは昨日の本流ほどではなかった。

 だが、だからこそ厄介だった。

 人は“大きな危険”には身構えるが、“昨日ほどではない危険”には油断しやすい。

 そこを逃さず締め直すことが、今日の本当の仕事だった。


 レティシアは再び泥の際へ立った。


「閣下、昨日より危険は少ないです!」


 エルンが叫ぶ。

 つまり、下がっていてもいいはずだという意味だ。


 レティシアは振り向かずに答える。


「少ないからこそ、気が緩むでしょう」


 その一言で、若い兵の顔つきが引き締まった。


 水がぶつかる。

 土が削れる。

 だが昨日ほどの恐慌はない。

 誰がどこへ入るかが、昨日より少しだけ見えているからだ。


 そしてそれを支えていたのは、単なる兵の腕力ではない。

 誰が疲れているかを見て交代させること。

 どこが弱いかを先に言葉にすること。

 現場の小さな判断を積み重ねること。

 つまり、昨日この場でレティシアが見せた“場を読む力”だった。


 新しい枝谷の流れも、ほどなくして制御された。


 完全に消えたわけではない。だが、もう村を脅かす向きには育たない。


 その瞬間、村人たちの間から、今度は昨日とは違う声が上がった。


 安堵の息でも、泣き声でもない。

 小さな、小さな拍手だった。


 最初は一人。

 次に二人。

 それがいつしか、泥だらけの村のあちこちから広がっていく。


 レティシアははっとして顔を上げた。


 高台に残っていた女たち、土嚢を運び終えた若者たち、泥をかぶった兵たち。

 誰も祝祭の場にいるような綺麗な顔ではない。

 それでも彼らは、いま目の前で何が守られたかを知っていた。


 拍手はすぐに止んだ。

 辺境の人々は、王都のように拍手を長く続けることに慣れていない。

 けれど、その一瞬だけでも十分だった。


 レティシアは何も言わなかった。

 ただ、ゆっくり一礼した。


 すると、隣に立っていたディルクがごく低い声で言った。


「……ここまでになるとは思っていませんでした」


「何が?」


「兵も、村人も、ここまで早く動き方を変えるとは」


 その声音には、もう昨日までの警戒一色ではないものが混じっている。


 レティシアは泥のついた手袋を見下ろした。


「皆、ずっと変わりたかったのかもしれないわね」


「変わり方を知らなかっただけ、ですか」


「あるいは、変わっていいと思えなかったのかも」


 “どうせ無駄だ”という空気は、人から判断そのものを奪う。

 でも一度、動けば変わると知ってしまえば、人はもう昨日と同じようには諦められない。


 補修を終えたあと、村の広場で簡単な炊き出しが始まった。


 砦から運んだ粥と、村に残っていた根菜を合わせた薄いものだ。

 豪華とは程遠い。

 けれど温かさだけで、人の顔つきはずいぶん違う。


 その炊き出しの脇で、ひとりの老女がレティシアへ近づいてきた。


 昨日、高台で泣いていた女の一人だ。

 皺だらけの手で、粗い布に包んだ小さなものを差し出す。


「閣下、これを」


「何かしら」


「干した薬草です。大した物じゃありません。でも、うちで一番ましなものだから」


 礼としてはあまりにもささやかだ。

 けれど、暮らしの苦しい辺境で「一番ましなもの」を差し出す意味は重い。


 レティシアはそれを両手で受け取った。


「ありがとう。大切に使うわ」


 老女は深く頭を下げ、目元を押さえながら戻っていく。


 それを見ていたマルタが、少し離れたところで目を赤くしていた。

 本人は隠したつもりらしいが、全く隠れていない。


 夕方、砦へ戻る頃には、昨日とは違う疲労が全身を包んでいた。


 昨日は“危機をしのいだ疲れ”。

 今日は“立て直しを始めた疲れ”だ。


 後者の方が静かで、重い。

 けれど、不思議と心には沈まない。


 中庭へ戻ると、砦の兵たちが自然に道を開けた。


 昨日までは単に総司令の横にいる王都の令嬢だった女へ、今日は明らかに一段変わった敬意が向いている。形式だけの敬礼ではない。自分たちと同じ泥を踏み、同じ危機の中に立ち続けた者への礼だ。


 レティシアは客間へ戻る前に、井戸の前で一度立ち止まった。


 桶の色分けはきちんと機能している。

 昨日命じた滑車の補修も半分以上進んでいた。

 ほんの少しの改善に過ぎない。

 だが、こういうものが領地全体の空気を変えていく。


 そこへ、ディルクが歩み寄ってくる。


「明日、リュンデル村へ追加の木材を回します。仮牛舎も組めるでしょう」


「そう。よかった」


「それから……」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


「兵の方から、交代要員の組み方を見直したいと申し出がありました」


 レティシアは目を上げる。


「自分たちから?」


「はい。昨日と今日で、無理に踏ん張るより、交代しながら続けた方が長く持つとわかったのでしょう」


 レティシアは小さく息をつく。


「それは良い変化ね」


「ええ」


 ディルクも短く頷く。

 沈黙が落ちる。

 だがそれは気まずい沈黙ではなかった。


 やがて彼が、低く言った。


「昨日、申し上げましたね。閣下が流されれば意味がないと」


「ええ」


「考えは変わっていません」


「そうでしょうね」


「ですが」


 そこで一瞬だけ、ディルクは言葉を切った。


「……あの場で閣下が立っておられた意味は、私も認めます」


 それは武骨な男なりの、ほとんど最大級の評価だった。


 レティシアは驚きを表には出さなかったが、胸の奥に小さく温かいものが落ちた。


「ありがとう」


 それだけ答えると、ディルクはそれ以上何も言わず、一礼して去っていった。


 その背を見送りながら、マルタがぼそりと呟く。


「随分と、最初より柔らかくなられましたね」


「誰が?」


「総司令殿が、でございます」


 レティシアは少しだけ目を細めた。


「そうかもしれないわね」


 部屋へ戻ると、ルイスがすでに帳面を開いて待っていた。


「今日の報告を」


「ええ」


 レティシアは椅子へ腰を下ろし、静かに口述を始める。


「リュンデル村追加補修。枝谷からの流入に対応、仮列の再構築成功。兵・村人ともに昨日より判断速度向上。交代制の効果あり。村人の自主的復旧意欲を確認……」


 そこまで書いて、彼女は少しだけ考えた。


「最後に加えて」


「はい」


「領民は、主が本当に立つと知れば動く。」


 ルイスはその一文を書き留めながら、そっと顔を上げた。


「閣下」


「なに?」


「……この地の人たちは、もう閣下を主として見始めているのではないでしょうか」


 レティシアは少しだけ沈黙した。


 思えば、王都では彼女は“役目”として見られることはあっても、“その人自身”として見られることは少なかった。王太子の婚約者、公爵家の長女、政務に長けた令嬢。そういう肩書の集合体として扱われることに慣れていた。


 だがここでは違う。


 泥の中で見た顔。

 声を張った姿。

 下がらなかった背中。

 それが、そのまま人の記憶に残る。


「……そうなら、責任が増えるわね」


 それが彼女の返答だった。


 喜ぶでもなく、否定するでもなく。

 ただ、そこに伴う重さを受け止める言葉。


 ルイスはそれに、むしろ深く納得したような顔で頷いた。


 窓の外では、辺境の夜が静かに降りていた。


 遠くから聞こえるのは、鍛冶場の小さな槌音、厩舎で馬が鳴く声、そして遅くまで働く者たちの低い話し声。昨日までなら疲労と諦めの音にしか聞こえなかったものが、今夜は少し違う。


 人はまだ疲れている。

 問題も何一つ片付いてはいない。

 だが、それでも手が止まっていない。


 レティシアは老女から受け取った薬草の包みを机の端へ置き、そっと指先で触れた。


 王都の宝石よりも小さく、王城の贈答よりも粗末だ。

 それでも、その重みは不思議なほど確かだった。


 ここでなら。

 この地でなら。

 もしかすると、自分は“役目”ではなく、“主”として生き直せるのかもしれない。


 その考えはまだ、形にならない予感に過ぎなかった。

 けれど、辺境の冷えた夜の中で、その予感だけは静かに息をしていた。

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