第12話 最初の書簡
辺境の朝は、王都よりも静かに始まる。
鳥の声も少なく、風の音の方がよく耳に入る。石壁の隙間を抜ける冷気、厩舎で馬が鼻を鳴らす音、井戸の滑車が軋む音。そうした小さな生活の音が、少しずつ砦を目覚めさせていく。
レティシア・エーヴェルシュタインが客間の窓を開けた時、空はまだ薄い灰色をしていた。
東の空に朝日が差し始める前の、ほんの短い時間。
この数日で、彼女はこの時間が嫌いではなくなっていた。
王都にいた頃の朝は、今日何を整え、誰の面目を立て、どの火種を消すかを考える時間だった。
だが辺境の朝は少し違う。
同じように考えることは山ほどあるのに、少なくとも“何のために”考えるのかが、王都よりずっと明瞭だった。
机の上には、昨日リュンデル村の子供から受け取った小さな野花がまだ活けてある。粗末な陶器の小瓶に差しただけのものだが、朝の光を待つその姿は不思議と凛として見えた。
「お嬢様」
マルタが茶を運びながら微笑む。
「今日は少し、よくお休みになれたご様子でございます」
「そう見える?」
「はい。昨日までのように、寝台の上でも何か考えておられるお顔ではありませんでした」
レティシアは苦笑した。
「それは少し失礼ね」
「本当のことでございますから」
そう返すマルタの顔にも、辺境へ来た初日よりずっと余裕がある。
使用人は主人の心を映す鏡だ。
主が前を向けば、付き従う者の息も少しだけ整う。
朝食の前、レティシアはいつものように簡単な確認へ中庭へ出た。
井戸の運用。
補修用資材の積み出し。
倉庫の再点検の進捗。
兵の交代表。
どれもまだ完成にはほど遠い。
けれど“何も決まっていない場所”から、“決めたことが回り始めている場所”へは、確かに変わっている。
その時、正門側が少しざわついた。
馬のいななき。
門兵の声。
早馬だとすぐにわかる音だった。
ディルク・ヴァルゼンがほぼ同時に中庭へ現れ、レティシアと視線が合う。
「王都からです」
「早いわね」
「ええ」
彼の声音は低いが、露骨な警戒は隠していない。
門をくぐってきたのは、王城付きの使者だった。
公的な紋章をつけた外套、泥を跳ね上げた馬、眠っていない顔。
旅の疲れよりも、“急がされている者”の顔をしている。
使者は馬を下りるなり、辺境の砦に似つかわしくないほど丁寧な礼を取った。
「公爵令嬢レティシア・エーヴェルシュタイン様へ、王太子府より急ぎの書簡にございます」
その言い方で、レティシアは半ば中身を悟った。
急ぎ。
王太子府。
この段階で来る“急ぎ”に、良い報せが入っているはずもない。
「こちらへ」
彼女はその場で受け取らず、応接用の小部屋へ通すよう指示した。
使者が下がったあと、マルタが不安そうに言う。
「まさか、もう……」
「困り始めているのでしょうね」
レティシアは静かに答えた。
それは驚きではない。
むしろ、思っていたより少し早い、という程度だった。
小部屋へ入ると、使者は封蝋の押された書簡を差し出した。
王太子府の紋章。
だが筆跡はアルベルト本人ではない。
おそらく側近か、あるいは侍従の手だろう。
レティシアは席につき、封を切った。
中の文面を一目見た瞬間、彼女の口元にごく薄い笑みが浮かぶ。
マルタもディルクも、それに気づいた。
「……何と?」
ディルクが問う。
レティシアは書簡を閉じる前に、もう一度ざっと視線を走らせた。
やはりそうだった。
謝罪ではない。
懇願でもない。
そして何より、自分たちが困っていることを認める書き方になっていない。
「書類の追加提出要請よ」
マルタが目を見開く。
「追加、でございますか」
「ええ。“王都における今春以降の地方諸侯招待順に関する補助一覧”“祭礼贈答における例外規定覚え”“商会納入の優先調整表補遺”の提出を、至急求める……ですって」
ディルクが眉をひそめる。
「それはつまり……」
「ええ。自分たちで回せていないということ」
レティシアは落ち着いて書簡を机へ置いた。
要求されている内容そのものが、滑稽なほど答えだった。
それらは本来、“レティシアがいなくても当然把握されているべきもの”として扱われていた類だ。
だからこそ婚約破棄の場でも、アルベルトは「君の役目は妹で足りる」と言えた。
なのに今、そこを“追加提出”として求めてきている。
つまり彼らは、すでにその不足を自覚している。
けれど文面の上では、それを不足とは認めていない。
書簡の文面は、いかにも王太子府らしく高圧的だった。
――先般の引き継ぎに関し、一部補助資料に不備が見受けられる。
――王都の祭礼および諸侯応接に支障を来さぬよう、至急、該当書類を提出されたい。
――これは王国運営の円滑を期するための要請であり、速やかな協力を望む。
不備。
支障。
協力。
まるで、引き継いだ側に当然備わっているべきものが、たまたま手元に見当たらなかっただけであるかのような書き方だ。
「厚かましい……!」
マルタが珍しく露骨に顔をしかめた。
「お嬢様をあのように退けておいて、今さらこの物言いとは」
「王太子府らしいとも言えるわね」
レティシアは穏やかに答える。
「自分たちが困っているとは、まだ言いたくないのでしょう」
ディルクが腕を組んだ。
「返されるのですか」
「返すわ」
「全部を?」
「いいえ」
その即答に、彼の目が少し細くなる。
レティシアは続けた。
「まず確認だけれど、私は一度目の譲渡で“過不足なく正式に渡した”のよ」
「ええ」
「なら、王太子府が求めているのは正式書類そのものではなく、運用の補助に使っていた“実務上の覚え”や“整理済みの補遺”でしょう」
「つまり」
「それがないと回らないと、向こうが理解し始めたということよ」
マルタが思わず口元を押さえた。
「では、差し上げないのですか?」
「いいえ、そうすると今度は“レティシアが非協力的だ”と責任転嫁されるわ」
レティシアは机上の書簡を指先で軽く叩く。
「でも、相手の焦りに合わせて、こちらまで慌てる必要はないの」
そこへ、控えていたルイスが呼ばれて入ってきた。
彼は書簡の空気だけで、何かただならぬことがあったと悟ったらしい。
「お呼びでしょうか」
「ええ。王太子府からの要請よ」
「王太子府、ですか」
「該当する目録と、第一回譲渡で渡した資料の控え一覧を持ってきて」
「は、はい」
ルイスが慌てて走り去る。
レティシアはその間に、頭の中で整理を終えていた。
相手が求めているのは三種類。
そのうち二つは、正式な目録の範囲内で既に十分に引き継いでいる。
残る一つは、レティシア自身が“使いやすいように”再整理していた補助控えで、公的義務として渡すべきものではない。
つまり返答はこうなる。
正式な範囲で譲渡済みであることを確認する。
不足とされる項目については、該当目録の参照箇所を示す。
ただし、こちらで個人的に作成していた補助控えは「別紙なし」と答える。
それが一番、筋が通る。
ルイスが目録と控えを抱えて戻ってくると、レティシアは一つずつ照合した。
「やはりね」
「何がでしょうか」
「“地方諸侯招待順に関する補助一覧”は、正式譲渡した『諸家応接慣例簿』の第三巻に含まれている。
“祭礼贈答における例外規定覚え”は、第四巻の後半。
“商会納入の優先調整表補遺”だけは、私の手元用に別整理していた控えがあったけれど……」
そこで少しだけ間を置く。
「それを公的文書としては渡していないし、渡す義務もないわ」
ディルクが低く訊く。
「向こうは困るでしょうね」
「ええ。でも、それとこれとは別よ」
彼女はインク壺を引き寄せた。
「返書を書くわ」
返書の文面は、驚くほど静かだった。
怒りも皮肉も入れない。
だが、譲る余地も作らない。
――先般の正式譲渡において、貴府より言及のありました諸項目につきましては、いずれも目録記載の通りお渡し済みにございます。
――別添の一覧に、該当する巻および項目を記しましたのでご参照ください。
――なお、“商会納入の優先調整表補遺”として別紙に相当する公的文書は、こちらにはございません。
――王都運営のご繁栄を、辺境よりお祈り申し上げます。
書き上げた文を見たマルタが、感心とも呆れともつかぬ顔をした。
「……お嬢様は本当に、お優しいのか厳しいのかわかりません」
「どちらでもないわ」
「最後の一文など、むしろ一番効いております」
レティシアは少しだけ口元を緩めた。
「辺境から祈るくらいは自由でしょう?」
ディルクがそこで、初めてはっきり笑った。
小さな、喉の奥だけの笑いだ。
だが昨日までの彼からすれば、驚くべき変化だった。
「確かに」
その笑いを見て、ルイスまでつられて肩の力を抜いた。
返書はすぐに封じられ、使者へ渡された。
使者はそれを受け取る時、わずかに迷うような顔をした。
「……これを、そのままお届けしてよろしいのでしょうか」
「もちろん」
レティシアは静かに答える。
「不足があるなら、こちらも困りますもの」
使者は複雑な顔で頭を下げ、再び王都へ向けて去っていった。
その背を中庭から見送りながら、エルンがそっと近寄ってくる。
「閣下」
「どうしたの?」
「その……王都から何か面倒なことでも?」
若い兵なりに、空気で察したのだろう。
レティシアは少し考えてから答える。
「向こうも少し、忙しくなってきたのよ」
「そうなのですか」
「ええ。でも、こちらの仕事が減るわけではないでしょう?」
エルンはすぐに真顔へ戻って頷く。
「はい。今日は南壁側の倉庫整理と、リュンデル向け資材の再仕分けです」
「なら、そちらを優先して」
「承知しました」
兵が去ったあと、マルタが言う。
「本当に、王都のことよりこちらを優先なさるのですね」
「当たり前でしょう」
「ですが、やはりご心配では?」
レティシアは一瞬だけ、遠くへ消えていく使者の背を見た。
王都。
そこにはまだ彼女が長く支えてきた仕組みが残っている。
人も、場所も、慣例も、全部知っている。
だからこそ、気にならぬはずはない。
だが――。
「心配しても、向こうの帳簿は増えないわ」
そう答えると、マルタは苦笑した。
「本当に、そういうお方です」
午後、レティシアは書簡の件を頭の隅へ追いやり、再び辺境側の仕事へ戻った。
リュンデル村へ送る木材と縄の再仕分け。
補助倉庫の再点検で出てきた不足分の記録。
井戸補修の進捗確認。
町市場の導線改善に使える空き地の確認。
やるべきことは山ほどあり、王都からの一通にかまけている暇など、本当にない。
それでも夕刻近く、レティシアはふと窓辺で立ち止まった。
中庭では、兵たちが昨日より自然な動きで荷を運んでいる。
鍛冶場からは一定のリズムで槌音が響き、炊事場からは湯気が上がる。
辺境は相変わらず荒れている。
だが、ここにはいま“自分がいれば変わる余地がある”という手応えがあった。
それに比べれば、王都の一通の書簡は、もはや過去がこちらを引き戻そうとする声に過ぎないのかもしれない。
「もう、困り始めているのね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その声には優越も憎しみもなかった。
ただ事実を確認する響きだけがあった。
王都はまだ、自分たちが困っていることを認めない。
けれど、認めなくても綻びは広がる。
そしてその綻びが小さいうちに縫えなければ、やがて王都自身がこちらへ縋ってくる時が来る。
その時、自分はどうするのだろう。
まだ答えは出ない。
だが少なくとも今は、その問いに時間を割くより、目前の領地を立て直す方が先だった。
夜、帳面へ今日の報告をつける時、レティシアは最後に短く書き足した。
王都より最初の追加要請あり。綻び、想定より早く表出。
その一行は、辺境で積み上がる日々の記録の中にあって、異質なようでいて、やはり同じ意味を持っていた。
どこも同じなのだ。
放置された綻びは、やがて誰かを呼ぶ。
ただその時、呼ばれる側に選ぶ力が残っているかどうかが違うだけで。




