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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第109話 王太子府、不満を聞く

 王太子府で「業務上の支障および改善希望」を集めることになった朝、廊下の空気は妙に硬かった。


 誰も、それを「不満調査」とは呼ばない。


 エドガル・ヴァイスナーがそう決めたからだ。


 不満という言葉は感情的すぎる。

 王太子府の品位に合わない。

 下の者たちに余計な期待を与える。

 そして何より、王妃エレオノーラの付箋にそのまま反応したように見える。


 だから、表題はこうなった。


 王太子府内業務改善聞き取り


 アルベルトは、その紙を見た時、いかにも不愉快そうに眉を寄せた。


「ずいぶん穏当な名前にしたな」


 エドガルは頭を下げる。


「王太子府として実務の効率化を図るものです。不満という言葉を用いれば、不要な混乱を招きます」


「母上は不満を聞けと言った」


「だからこそ、殿下自ら府内の声に耳を傾ける形を整えます。ただ、言葉の扱いは慎重であるべきかと」


 アルベルトは、机の上に置かれた北方旧所領の議事録を睨んだ。


 豆が足りない。

 紙が多い。

 夜番がきつい。

 役はない方が楽。


 何度読んでも、王太子府の書類とは思えない言葉ばかりだった。


 荒い。

 生々しい。

 品がない。


 けれど、母はこれを読めと言った。


 美しい忠誠の言葉がないからこそ読め、と。


「始めろ」


 アルベルトは短く言った。


「はい」


 エドガルは一礼した。


 最初に呼ばれたのは、書記官たちだった。


 会議室には長机が置かれ、エドガル、レムス、補佐官二名が座る。

 アルベルトは同席しない。最初から王太子本人が座っていては、誰も本音など言わないからだ。


 その判断は正しい。


 ただし、エドガルが同席している時点で、どこまで本音が出るかは怪しかった。


 若い書記官たちは、緊張した顔で並んだ。


 エドガルは穏やかに告げる。


「これは処分のための聞き取りではない。王太子府内の業務を円滑にするため、各部署で生じている支障を確認したい」


 言葉は柔らかい。


 だが、誰もすぐには口を開かなかった。


 沈黙。


 王太子府の沈黙は、辺境の帳場の沈黙とは違う。


 辺境では、誰かが言いにくそうにしていると、豆売りの女主人が横から突く。ヨハンが茶化し、ガレスが余計な正直さで空気を崩す。


 王太子府では、沈黙は整っている。


 背筋を伸ばし、目を伏せ、言うべきことだけを待つ。


 レムスが促した。


「たとえば、書類の滞留、部署間の連絡の遅れ、確認手順の重複などです」


 ようやく、一人の中堅書記官が口を開いた。


「商務関係の返答が、以前より遅れております」


 エドガルが頷く。


「具体的には」


「商会夫人方への返礼、地方商会からの陳情、祭礼関連の請求確認です。以前は……」


 そこで彼は言葉を止めた。


 以前は。


 その先に誰の名が続くか、この場の全員が察していた。


 レティシア。


 王太子妃候補として、正式な権限は曖昧なまま、多くの事前整理を引き受けていた人。


 中堅書記官は、言い直した。


「以前は、事前に整理された状態で回ってくることが多かったのですが、現在は一次確認が済まないまま複数部署へ回るため、差し戻しが増えております」


 エドガルは表情を変えない。


「原因は」


「確認責任者が不明確なことです」


「責任者が不明確」


「はい。誰が最初に見るのか、誰が最終確認するのかが案件ごとに違い、引き継ぎも口頭になりがちです」


 レムスが記録する。


 別の書記官が、少し迷いながら続けた。


「席次表も同様です。王妃宮、王太子府、外務儀典でそれぞれ修正案を出すため、どれが最新版かわからなくなることがあります」


「最新版管理の不備」


「はい」


 その言葉は、エドガルの胸に小さく刺さった。


 最新版。


 控え。

 写し。

 受領者名。


 北方旧所領の帳場がしつこく残しているものが、王太子府では欠けている。


 もちろん、王太子府にも正式な文書管理はある。

 だが、正式文書になる前の下準備、調整中の草案、夫人たちへの返礼文、席次の仮修正。


 そういう柔らかい段階の紙が、今、散らばっているのだ。


 レムスが問う。


「改善希望は」


 中堅書記官は、恐る恐る答えた。


「案件ごとの一次確認者、最新版保管場所、差し戻し理由の記録が必要かと」


 エドガルは、ほんの一瞬だけ沈黙した。


 まるで辺境の帳場だ。


 そう思った。


 だが、口には出さない。


「記録しておけ」


 彼はレムスに命じた。


 次に呼ばれたのは、侍従たちだった。


 彼らの不満は、さらに言いにくいものだった。


 王太子の予定変更が多い。

 アルベルトが不機嫌な時、予定の優先順位が口頭で変わる。

 その変更が女官や書記官へ伝わらず、控えの間で待たされる者が出る。


 誰も直接「殿下が悪い」とは言わない。


 言えない。


 だから言葉は遠回りになる。


「予定変更時の伝達経路を明確にしていただければ」


「優先順位が変わった際、控え室側へも同じ紙が回れば」


「口頭指示の場合、後で確認できず」


 エドガルは、それらを聞きながら、顔に笑みを貼りつけていた。


 これは王太子府の不満ではない。


 そう言いたかった。


 単なる連絡不備だ。

 どの組織にもある。

 王太子がすべて聞く必要などない。


 だが、北方旧所領の議事録が頭の片隅に残る。


 夜番がきつい。

 紙が多い。

 役はない方が楽。


 あれらも、見ようによっては単なる現場の愚痴だった。


 しかし、レティシアはそれを残した。


 残した上で、改善対応を並べた。


 エドガルは、無意識に指先で机を叩きそうになり、止めた。


 午後、女官たちの聞き取りが始まった。


 ここで空気はさらに重くなった。


 女官長補佐が代表して答える。


「王太子妃候補関連の準備について、確認先が変わることが多く、現場が少し混乱しております」


 エドガルは、慎重に聞く。


「エミリア様のことか」


 女官長補佐は、一瞬だけ目を伏せた。


「エミリア様ご本人というより、周囲の補助体制です」


「具体的には」


「茶会の返礼、衣装合わせ、贈答品の記録、夫人方への挨拶順。これらについて、以前は前日までに修正版が確定しておりました。現在は当日朝に変更が入ることが増えております」


 エミリアの失敗。


 誰もそうは言わない。


 だが、そういうことだった。


 エミリアは悪意で間違えているわけではない。

 むしろ、よく頑張っている。


 けれど、覚えるべきことが多すぎる。

 判断するには経験が足りない。

 そして、彼女の周囲は「できない」と言えない。


 結果として、下の女官たちが走る。


 女官長補佐は、さらに言った。


「また、王太子府側から急ぎで差し込まれる文面確認が増えております。先日の北方旧所領への慰問書簡のように」


 エドガルの目が、わずかに細くなる。


「それは必要な書簡だった」


「承知しております。ただ、文面の確認、封筒の選定、使者手配が急でございましたので、他の返礼業務が遅れました」


 言い方は丁寧だった。


 だが、内容は鋭い。


 エドガルが仕掛けたエミリアの慰問書簡は、確かに現場の負担を増やしていたのだ。


 レムスが書きながら、ちらりとエドガルを見た。


 エドガルは動じない。


「改善希望は」


 女官長補佐は答えた。


「王太子妃候補関連の文書について、急ぎと通常を分けていただきたいです。また、エミリア様へ渡す前に、補佐官室で確定済みのものと未確定のものを区別していただければ」


「未確定のものが、エミリア様へ渡っていると?」


「はい」


 静かな一言だった。


 だが、部屋の温度が下がった。


 未確定の文がエミリアへ渡る。

 エミリアは、それを自分が判断すべきものだと思う。

 判断できずに迷う。

 迷ったまま、アルベルトかエドガルへ確認する。

 確認が戻るまで、女官たちは動けない。


 その詰まりが、見えてきた。


 エドガルは、ゆっくり頷いた。


「記録しておけ」


 夕方、聞き取りの第一回集約がアルベルトの机へ置かれた。


 彼は不機嫌そうに読み始め、途中で何度も眉を動かした。


「これは、俺への苦情か」


 最初の言葉が、それだった。


 エドガルは予想していたため、落ち着いて答える。


「業務改善のための支障報告です」


「同じだ」


「殿下への非難としてではなく、府内の流れの詰まりとして扱うべきかと」


 アルベルトは紙をめくる。


「予定変更の伝達経路。最新版管理。返礼の遅れ。女官の負担。エミリアへ未確定の文が渡っている……」


 そこで彼は顔を上げた。


「エミリアの名まで出すのか」


「直接の非難ではございません。周囲の補助体制の問題です」


「だが、そう読める」


「だからこそ、早めに整える必要があります」


 アルベルトは紙を机に置いた。


 しばらく黙る。


 そして低く言った。


「レティシアがいた頃は、こんなに詰まっていなかった」


 その言葉が部屋に落ちた瞬間、エドガルは何も言わなかった。


 言わせておくべき言葉だった。


 アルベルト自身が口にした。


 それには意味がある。


 アルベルトはすぐに不快そうな顔になった。


 まるで自分の言葉に傷ついたように。


「いや、違う。あいつがいた頃も、何かしら問題はあったはずだ」


「当然でございます」


 エドガルは即座に合わせた。


「ただ、レティシア様が事前整理を多く担っていたため、殿下の机へ届く前に処理されていた部分もあったのでしょう」


「それが問題だったのだ」


 アルベルトは言った。


「俺の知らないところで処理していた」


 エドガルは、静かに頭を下げた。


「その点を、今後は王太子府として見える形に整えればよろしいかと」


「つまり、また記録か」


「はい」


 アルベルトは、深く息を吐いた。


 嫌そうだった。


 だが、完全には拒まなかった。


 王妃の付箋が効いている。


 母に「聞いていない」と思われたくない。

 レティシアの帳場だけが進んでいると思われたくない。

 その面子が、彼を机の前に留めていた。


「改善案を出せ」


「はい」


「ただし、辺境の真似にはするな」


「王太子府に合った形で整えます」


 エドガルは答えた。


 その言葉に、アルベルトはわずかに満足したようだった。


 だが、エドガルの内心は穏やかではない。


 王太子府内の詰まりが見え始めた。


 見え始めれば、責任の線も見える。


 エミリアだけではない。

 アルベルトだけでもない。

 補佐官室も、当然その線の中に入る。


 自分が火をつけた噂が、王妃を通じて王太子府内部の帳場づくりに化けつつある。


 これは誤算だった。


 一方、その日の夜、エミリアは女官から聞き取りの話を知らされた。


 もちろん、詳細ではない。


 だが、自分の周囲で文書の遅れや返礼の滞りが問題になっていることは、すぐに察した。


 彼女は姉からの返書を机の引き出しにしまっていた。


 何度も読み返したせいで、折り目が少し柔らかくなっている。


 ――あなたが王都で無理をしていないことを願っています。


 その一文が、今夜は少し違って読めた。


 無理をしている。


 自分は、たぶん無理をしている。


 けれど、それを認めることが怖かった。


 認めれば、姉の方がやはりふさわしかったと誰かに言われる気がした。


 いや、誰かではない。


 自分自身が、そう思ってしまいそうだった。


「お姉様なら……」


 口にしてから、エミリアは唇を噛んだ。


 その言葉を一番言いたくなかったのは、自分だった。


 王太子府の夜は静かだった。


 だが、その静けさの下で、いくつもの不満が初めて紙の上へ浮かび始めていた。


 それは北方旧所領の議事録ほど生々しくはない。

 まだ言葉は整えられ、遠回しで、誰も本当の責任を名指ししない。


 それでも、最初の一枚ができた。


 王太子府もまた、嫌々ながら、自分の足元を見る紙を持ち始めたのだった。

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